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夢幻の果て  作者: 大田牛二
最終章 天下統一
182/186

王翦

大変遅れました。

「断る」


 せい尉繚うつりょうの進言にそう言った。しかし、尉繚は引くわけにはいかない。


王翦おうせん将軍への謝罪を行い、彼を起用しなければ楚を滅ぼすことはできません」


 しかし、政は顔を横に向け、尉繚の言葉を聞こうとしない。


「王よ。己の不明を恥じるのは結構なるも、今は楚を滅ぼすために王翦将軍への謝罪を行うべきです」


「王翦の他にも蒙武もうぶ楊端和ようたんわ羌瘣きょうかいもいる」


「彼らは優秀な将校であるものの、国を盗るのであれば、王翦将軍でなければなりません」


 政はそれでも同意しようとしない。


「王っ」


 尉繚は杖を床に叩きつけ、決断を迫った。


「わかった。王翦を大将軍に任じることにしよう。謝罪の使者を派遣する」


「なりません」


 やっと王翦のことを同意したにも関わらず、尉繚が首を振ったため政はむっとする。


「お前は王翦への謝罪と大将軍にせよと申していたではないか」


「王よ。使者では王翦将軍は動くことはないでしょう。あなた様、自ら王翦将軍の元に出向き、謝罪申し上げるべきです」


「私自ら謝罪せよと申すのか」


 政は話しにならないとばかりに怒ったがそれ以上に尉繚が怒声を浴びせた。


「そのようであるからこそ、自ら参る意味があるのだ。王翦とてお前の性格は熟知している。そんなお前が自ら足を運び、謝罪することでしか王翦の心を動かすことはできまい」


 尉繚の目には王翦は政が考えているほどに今回の一件に激怒しているはずである。


「かつて昭襄王しょうじょうおう白起はくきを用いず、死に追いやったために秦は天下を盗る好機を失ってしまった。政よ。お前は先人の愚を犯すのか?」


 その言葉に政はわなわなと拳を震わせる。


「お前はせんを得るために私に頭を下げた。それと同じことだ。天下を得るために頭を下げて来い」


 誰よりも人に頭を下げることを嫌い続けた男が頭を下げた時のことを思い出せと、尉繚は言外に込めた。


「天下を得るためにか……」


 政はふっと息を吐き、頷いた。


「わかった。私自ら参るとしよう」


「ご英断でございます」


 尉繚は拝礼を行った瞬間、そのまま倒れ込んだ。


「尉繚っ」


 政は驚き、旃が駆け寄る。


「大丈夫です。気を失われただけのようです。少しお疲れになったのでしょう」


「そうか……尉繚を頼む」


「はい……」


 政が趙高ちょうこうを呼び、馬車を用意するように言ってから背を向けつつ、


「すまなかったな」


 と言った。それに対し、旃はにっこりと笑い、


「お気になさらず」


 と答えた。


















 政は自ら王翦の故郷・頻陽を訪れ、彼の屋敷に出向いて王翦に謝った。


(王自らいらっしゃるとは……)


 秦軍の楚での敗戦を当然聞いていた王翦は予想外のことに内心、戸惑った。


「私が将軍の謀を用いなかったために、李信りしんが秦軍を辱めてしまった。将軍は病であるが、どうか私を棄てないでもらいたい」


 政は拝礼を行った。


(あの王が……)


 王翦は目を細めると、


「私は病のため将になれません」


 と断った。政は首を振り、


「充分だ。それ以上申すな」


 と言った。王翦は言外に政の先の件での非難を行っている。そのことは十分理解しているということである。


 王翦はしばし無言になるとため息をついて言った。


「もしも私を用いると仰るのであれば、六十万の兵がいなければなりません。よろしいでしょうか?」


 彼の言葉に政は頷き、


「将軍の計に従う」


 と言ってさっそく国中から六十万の兵を駆り集め王翦に与え、彼を大将軍とした。


 王翦率いる秦軍の先鋒に蒙武、副将は章邯しょうかんが努め秦軍は楚討伐のため出陣した。


 その際に政は王翦を霸上まで見送った。


 その際、王翦は彼に多数の良田・美宅を求めた。


 政は乾いた笑いをして、


「将軍よ。安心して行って参られよ。貧困を心配することはない」


 と言ったが王翦はこう答えた。


「私は王の将となって長年、功を立ててきましたが、いつまでも封侯されません。だから王が私を重視している今、子孫の業とするために田宅を求めているのです」


「わかった。わかった」


 政は大笑いしながら頷いた。


 王翦が出発して武関に至った時、また使者を送って良田を求めた。これを彼は五回繰り返されした。流石にこれはと思ったのか章邯は王翦に言った。


「将軍の乞貸(人に物を請うこと)の真似をするのはよくありません」


 すると王翦は、


「それは違う。王は心が粗暴で人を信じない方だ。今、国中の甲士を空にして私に全てを委ねて下さったが、私が子孫の業を固めるという理由で多くの田宅を求めなければ、王は理由もなく私を疑うことだろう」


 王翦は決して政という人を信じず、彼は猜疑心の強い人物であると考えていた。そこで敢えて田宅といった褒美を強く求め、権力には関心がないという態度を示したのである。


 













 


 紀元前224年


 王翦が楚に至ったところで年が変わった。


 王翦は楚に進攻して陳以南から平輿に至る地を占領した。楚は王翦が兵を増やして攻めてきたと聞くや国中の兵を動員して項燕こうえんに対抗させた。


「来るか」


 楚軍が来ることを知った王翦は営塁の守りを固めて出陣を禁じた。項燕が何回戦いを挑んでも王翦は動こうとしない。


(お前の突進力は以前、食らった)


 邯鄲での戦いの時に彼に吹き飛ばされた経験があるため、彼は項燕と正面きって戦わないやり方をとった。王翦は毎日、士卒を休めて洗沐させ、豊富な飲食を与えて撫循した。王翦自身も士卒と共に食事を行った。


 久しくして、王翦は章邯に陣内を確認させてから、


「軍中に戯(遊び)はあるか?」


 と問うた。


「はい、投石や超距(跳躍。幅跳び)をしております」


 王翦は無表情のまま、


「このような兵ならば用いることができよう」


 と言った。


 彼の意図について説明が必要であろう。


 彼が元々六十万の兵を要求したのは楚軍の大将・項燕を恐れたためであり、彼の怖さを身を持って体験していた王翦は彼の突撃を防ぐほどの堅牢な陣を何重にも敷いて防ぎその間に数による包囲、圧殺を行おうと考えていた。


 しかし、実際は彼の意見は用いられず、李信の二十万という方針になってしまった。


 王翦は決して李信が拙い戦をしたとは思っていない。油断があったことは確かではあるものの敗北までの快進撃は彼の勢い盛んな戦術の良さが出ていたと言って良い。ただ相手が項燕であったこと、その彼が奇策を用いたことが李信を敗北に追い込んでしまった。


(李信将軍は大軍を率いるよりも少数の騎兵を率いる方がその真価が発揮される)


 彼はそう考えている。


 ともかく李信が敗北したことで再び、六十万の兵での戦いとなったが、今回は先の六十万とは違う。無理やり連れてきた兵もいるため訓練が行き届いていない兵もいた。


 そのため彼は堅牢な営塁を築き、そこから一歩も出ずに兵たちの訓練の徹底と先の敗戦での動揺を無くさせようとした。そして、兵たちが遊びに近いことをやっているのを見て、戦場での緊張や敗戦から立ち直ったと考えて戦えると思ったのである。


 楚軍が頻繁に挑発しても秦軍が動かないため、楚軍は東に引き上げようとした。


「今だ。門を開けよ」


 営塁の門が開き、


「ふん、やっと出番か」


 先鋒の蒙武が出陣した。その中に死装束を着た男の姿があった。李信である。


「よろしいのですか?」


 章邯が王翦に問いかけた。


「李信は元々少数の兵を率いる戦いの方があっている。だから用いただけだ」


 実際は挽回の機会を作ることで李信を立ててやったのである。これも政に対しての保身の一つでもある。


 突然、襲いかかった秦軍によって楚軍は大破され、秦軍はその勢いのまま蘄南まで追撃し、散々に楚軍を叩きのめした。そして、王翦は勝ちに乗じて周辺の城邑を平定していった。しかし、懸念がある。


(項燕の首が無い)


 まだ死んでいない可能性が高い。


(できれば仕留めたかったが……)


 王翦はそう思いつつも楚の平定を勧めた。












「楚の大将軍・項燕は仕留めきれなかったようだな」


 尉繚は横になりながらそう呟いた。旃は頷いた。


「そのようです。政様も不満そうでした」


「全く、あやつは先の献策した六十万と今回の六十万は違うのだ。先の献策が通っていれば、項燕を仕留めていたはずだ。それに今回は王翦は相当、遠慮や配慮を行った戦をしている。それにも関わらずここまでの結果を出せた方が凄かろう」


 よくよく考えてみれば、王翦の取った策は六十万の兵が本当に必要かと言われれば、微妙である。もっと言ってしまえば、李信の言った二十万の兵だけでも勝てた可能性がある。しかも今回の六十万の兵の中には訓練が行き届いていないのが混じっている。そのことを踏まえるとわざわざ兵の数を増やした状態で戦うよりは二十万の方が良かったのではないか?


 しかし、ここでもし二十万の兵で楚軍に勝ってしまえば、同じ数を率いていながら負けた李信の立場が無くなってしまう。王翦が将に復帰する条件で六十万の数を強調したのは六十万もの数がなければ楚に勝てないということを証明し、二十万しか率いなければ負けるのは仕方ないと思わせることもできる。


 王翦は楚に勝つだけでなく、李信の立場を気遣い、政の猜疑心までも計算に入れて、戦を行ったと言って良いだろう。そう考えると王翦の戦はなんときめ細やかな心配りがされた上での戦であろうか。


「仕方ないことだ。相手も相手。しかし、仕留めなければならない。秦の、政の天下を確立するためにもな」


 尉繚は身体を震えながら起こすと旃に言った。


「お前にやってもらいたいことがある」


「何でしょう?」


「何、お前の得意なことをしてもらうだけだ。確実に楚の息の根を、項燕という禍根を潰すためにな」


 尉繚は己の命がもうあとわずかであることを感じながら最後の策を行おうとしていた。

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