大敗
大変、遅れました。
韓、趙、魏を滅ぼした秦王・政は次に滅ぼす存在として楚を選んだ。
楚への侵攻を行う上で政は諸将を集め事を図った。真っ先に彼が問いかけたのは李信である。彼は合従軍の際の刺客から自分を守ってくれた人物であり、若く真面目で血気盛んなところから寵愛している人物である。
「楚を取りたいと思うが、将軍はどれくらいの兵の数が必要だと思うか?」
李信は勇ましく、
「二十万を越えません」
と言った。
次に政は王翦にも同じ質問をした。
政は王翦に対して無礼であった。本来であれば諸将の中で最高位にいる人物である彼から問いかけるべきであり、敢えて若手の者から問いかけるという態度が王翦への軽視と見えなくもない。
表情を変えない王翦は、
「六十万人は必要でございましょう。それでなければ、楚の攻略は無理です」
と淡々と答えた。
その答えに政は皮肉を交えた声で言った。
「王翦将軍は老いられた。何を臆病になっているのだろうか。李信将軍はその点、若くて壮勇である。その言こそ正しい」
そして、彼は李信と蒙恬に二十万の兵を率いて楚を攻撃させることを決定した。そのまま政は諸将を解散させた。
ほとんど政の独断で決められたと言ってよく、楚攻略のための方策を諸将に問いかけるにしても李信と王翦の二将にしか問いかけられていない。
「集まる必要があったのだろうか?」
諸将は口々にそう呟いた。
また、大役を預かった李信と蒙恬も互いに顔を見合わせる。政の態度と王翦の関係があまりにも険悪であったためである。しかし、仰せつかった役目は果たさなければならないため、軍の準備のため二人はそっちに集中することにした。
一方、王翦は解散が告げられるとさっさと席を立った。
「将軍っ」
その様子に不穏な空気を感じ取った章邯が呼び止めた。
「王翦将軍、王は……」
王翦はすっと手でそれから先の言葉を止めた。
「必要が無いと言うのであれば、老兵は静かに去るのみである」
彼はそれだけ述べると病であるため、将軍職を返上することを願い許されると故郷の頻陽に帰った。
そのことを後で知った尉繚は己が病に倒れていることを嘆き、
「王翦将軍の言を軽視するとは、王は何を考えておられるのか」
と言った。
李信が平輿を攻め、蒙恬が寝を攻めた。それぞれ楚軍を大破した。
李信は更に鄢郢を攻めて破った。この鄢郢はかつての楚都ではなく、後に楚が都を置いた寿春が郢、その前に都とした陳が郢と呼ばれていた。もしくは、「鄢郢」ではなく「鄢陵」が正しいという説もある。
李信は兵を率いて西に向かい、楚の北境に位置する城父で蒙恬と合流した。
「楚軍はあっけなく我が軍に敗れていった。思ったよりも楚軍は弱い」
李信がそう言うが蒙恬は、
「これほど楚軍が弱いと思えないのですがね」
と油断をたしなめたがまさかこの時、敗れ去った楚兵たちが三日三晩休むことなく彼らの元に向かっているとは思いもしなかった。
秦軍が迫る前、楚の大将軍・項燕は楚軍を集め、秦軍への対抗手段として、楚の領内に深く侵入させることを提案した。
諸将は大反対を行った。また、項燕の深く侵入させるため何度か敗れるというのも彼らの癇に障った。
「楚の誇りがそのような戦法は容認できない」
諸将を前にして項燕は説得した。
「私も楚人である。誇りはある。しかし、誇りだけでは楚を守ることはできない。秦に勝つことはできない。どうか皆の誇りを私に預けてもらいたい」
楚の英雄・項燕の言葉に諸将は不満を持ちつつも、
「必ずや秦に勝てるや?」
「ああ」
「ならば、将軍に従いましょう」
諸将は項燕の策に乗っかることにした。
彼らは秦軍との戦いで敗れると一斉に各地にバラけた。そして、予定された地点に各々の道を通って秦軍の元に迫った。皆、少数で動き一見統制の聞いていない動きであったため、秦軍の目に映ることはなく、秦軍の元に到達、襲いかかった。
まさかの事態に秦軍は大いに動揺、統制が効かなくなった。何せ相手は至るところから数もわからず襲いかかってくるのである。一体どこに敵の本隊があるのかさえ、わからない。
結果、秦軍は大崩となり、楚軍によって二つの楚営を占領され、秦軍は七人の都尉が殺された。
この都尉というのは郡都尉で、兵を率いて楚討伐に従っていた者のことである。秦の郡には郡守、尉、監がおり、行軍する時には都尉が設けられた。
「どうだ。秦よ。この項燕がいる限り、楚は滅びぬ。屈さぬぞ」
項燕が剣を振りかざすと兵たちは項燕を称えるように拳を上げ、勝利を喜んだ。
李信と蒙恬は敗戦を受けて秦に逃げ帰った。
「負けただと」
政は秦軍の敗北を聞いて激怒し、手すりを叩き壊した。更に近くにいた趙高を滅多打ちにし、更には剣を抜くや至るところを切り裂いた。
あまりの剣幕に周りの宦官たち(趙高を除いて)は驚き、政の周りから慌てて逃げた。それを見て、蹲る趙高の腹に政は蹴りを入れる。
(ご褒美どころの痛みではない)
このままでは殺されると思った趙高は褒美をもらっても死ぬのは嫌なため政を止めてもらうため旃を呼びに行った。
趙高に呼ばれて慌てて旃が政の元に行くとそこには凄まじい剣幕で怒る政の姿があった。
「王、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか」
旃が手を伸ばして止めようとするのを政は手ではらう。
「勝敗は兵家の常でございます。一回の敗北で我が国は揺らぎません。楚を滅ぼすことはいつでもできましょう」
「五月蝿い、お前に戦がわかるものか。しかも李信は我が国を汚すような敗戦を行ったのだぞ」
その時、杖を突いた音が聞こえた。
「旃に当たるのは筋違いであるぞ」
その言葉の方を政が見るとそこには息も絶え絶えで杖で何とか立っている尉繚の姿があった。
「尉繚……なぜここに?」
病に伏せて立つことも困難であるはずなのに現れた尉繚に政はそう言った。
「敗戦を聞いたからだ」
彼は杖を突きながら政に近づき、少ししてから座り込んだ。そして言った。
「王よ。あなたが怒り狂っているのは己の不明に対するもの。そうであろう?」
その言葉を聞き、政は横を向いた。
「この尉繚、進言申し上げる。王翦将軍に謝罪し、彼を大将軍に任命なされよ」
「断る」
政は吐き捨てるように言った。