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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第一章 戦国開幕
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かつての強国

 紀元前380年

 

 秦と魏が連合して韓を攻めた。この時、公叔こうしゅくが魏の宰相から失脚してしまっており、情報が遅れた。韓は堪らず、斉に救援を求めた。

 

 斉の桓公かんこうは大臣を集めて言った。


「早く援けに行くべきか、晩く援けに行くべきか?」

 

 すると大男にして、美丈夫である騶忌すうきが言った。


「いっそ援けに行かないべきです」

 

 段干朋(または「段干綸」)が反対した。


「援けなければ韓が魏に吸収されてしまいます。援けるべきです」

 

 すると田忌でんき(または「田期思」「田臣思」「徐州子期」)が言った。


「それは違います。秦と魏が韓を攻撃すれば、楚と趙が必ずや援けに行きましょう。これは天が燕を斉に与えようとしているのです」


 韓を巡って諸国の目が他に向けられている隙に燕を攻めれば良いということである。

 

 桓公は納得して、


「善し」


 と言って、韓の使者に救援を約束して帰らせたが、実際に兵を出さなかった。

 

 韓は斉の援軍が来ると思い、秦・魏両軍と戦う。それを知った楚と趙も兵を発して韓を援けた。

 

 その隙に斉は兵を起こして燕を襲い、桑丘を占領した。

 

 斉から救援を受けることができず、他国の兵に荒らされた韓に対して、鄭が攻撃した。これによって韓は鄭に大きな憎しみを強めたのであった。

 

 紀元前379年

 

 趙が衛に侵攻したが、斉が衛を救援したため、趙は破れた。

 

 この年、斉の康公こうこうは田氏によって海上に遷されていたが、死んだ。彼に子はなく太公望から始まる姜斉はここに滅んだのであった。

 

 だがこの年、斉の桓公も死んだ。そして、子の威王いおうが立った。

 

 紀元前378年

 

 魏、韓、趙が喪に服している斉を攻めて霊丘に至った。

 

 この年、晋の孝公こうこうが世を去った。子の靖公が立った。

 

 紀元前377年

 

 蜀が楚を攻めて茲方を取った。楚は政権における混乱もあったため、扞関を修築して蜀に対する備えにした。

 

 この頃、衛は衛の慎公の時代となっていた。


 子思しし(孔伋)が慎公に苟変という人物を推薦して言った。


「彼の才は五百乗の軍を率いることができます」

 

 この時代において兵車一乗に甲士三人と歩卒七十二人がついたため、五百乗で兵三万七千五百人になる。

 

 慎公は言った。


「私も彼が将になれる人物であると知っている。しかし彼はかつて官吏を勤めておきながら民の賦税を徴収した時、民の鶏子(卵)を二つ取って食べたことがあった。だから用いないのだ」

 

 すると子思は、


「聖人が人を選んで官を任命するのは、工匠が木を使うようなものでございます。その長所をとって短所を棄てなければならないのです。だから抱きかかえるほど立派な杞梓(木材)に数尺の朽(腐った所)があったとしても、良工はその杞梓を棄てないものです。今、国君は戦国の世に居り、爪牙の士が必要とされているはずです。それにも関わらず、二つの卵によって干城(守城)の将を棄てています。このような事を隣国に知られてはなりません」


 と言った。慎公は再拝して、


「謹んで教えを受け入れます」


 と言った。

 

 ある時、慎公が誤った政策を発表した。しかし群臣は誤りと知りながら口をそろえて賛同した。

 

 その時、子思が言った。


「私が見たところ、衛は『国君は国君らしくなく、臣下は臣下らしくない』という状況である」

 

 公丘懿子こうきゅういし(公丘が姓。懿子は諡号)が、


「それはなぜですか?」


 と問うと、子思はこう答えた


「人主が自分で自分を善だと思っていれば、衆謀(大勢の意見)を進めることができなくなる。たとえ正しい行いをした際でも、自分を過信して衆謀を受け付けないことは間違いにも関わらず、誤った事をしながらその悪を助長させている。これでいいはずがない。事の是非を考えずに人からの称賛を喜ぶのは闇(暗昏)の最も甚だしい状態である。理(道理)があるかどうかを考えることなく阿諛追従するのは諂(媚び)の最も甚だしい状態だ。国君が闇で臣下が諂であれば、たとえ百姓の上にいようとも民が支持することはない。これを改めなければ、国が国の態を成さなくなるだろう」

 

 子思が直接、慎公に言った。


「国君の国は日々劣っております」

 

 慎公がその理由を聞くと、子思は、


「国君は自分が発する言葉を正しいと信じ、卿大夫はその非を正そうとしません。また、卿大夫も自分が発する言葉を正しいと信じ、士や庶人がその非を正そうとしません。君臣ともに自分を賢才だと信じ、群下も声をそろえて賢才を称えております。上の者を賢才と称えてその言葉に順じる者には福があり、上の者の非を正して逆らう者には禍があります。このような状況でどうして善安が生まれるのでしょうか。『詩(小雅・正月)』にはこうあります。『皆が自分を聖人と呼ぶが、誰も烏の雄雌すらわかっていない』これは国君の君臣の様子ではございませんか?」

 

 慎公は何も言えなかった。

 

 この頃、各国の代替わりが激しい。


 魯では穆公ぼくこうが死に、子の共公きょうこうが立ち、韓では文公ぶんこうが死に、子の哀公あいこうが立った。

 

 中山の桓公かんこうによる独立戦争に手を焼いた魏は趙に助けを求めた。趙はそれに答え、房子で中山と戦った。

 

 ある意味、ここから中山と趙の因縁が始まるのである。

 

 紀元前376年


 趙は再び、中山の中人の地で戦闘を行った。

 

 周の安王あんおうが死に、子の烈王れつおうが立った。

 

 この年、魏、韓、趙は共同して、晋の靖公を廃して家人(庶人)とし、晋の公族が領有していた地を分割した。

 

 これによってかつて北の大国であった晋は滅んだのである。

 

 七月、於越の太子・諸咎が越王・翳(於粵子・翳)を弑殺した。

 

 しかし、十月、越人は諸咎越滑を殺し、呉の人々は孚錯枝を国君に立てた。

 

 越の内部で複数の国君が立ち、内乱状態となったのである。かつての覇者の国の姿はもうなかった。


 時は流れ、かつての強国は滅び、新たな国々が時代の担い手となっていっていたのである。



 

 



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