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夢幻の果て  作者: 大田牛二
最終章 天下統一
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荊軻

遅れました。

 秦に到着した荊軻けいかは千金の礼物を持って秦王・せいの寵臣の一人である中庶子・蒙嘉もうか(蒙氏の関係者かは不明)を訪ねた。


 賄賂を受け取った蒙嘉は政に言った。


「燕王は誠に王の威信に震えており、兵を挙げて軍吏(秦の将兵)に逆らうつもりはなく、国を挙げて内臣となり、秦の諸侯に列し、郡県のように貢職し(税を納め)、こうすることで先王の宗廟を守ろうとしています。恐懼により自ら陳述に来る勇気がないため、樊於期はんおきの頭を斬り、燕の督亢の地図と一緒に献上することにすることにしました。どちらも函封(箱に入れて封をすること。大切に扱われていることを表す)されています。しかも燕王は朝廷でこれらを送り出す儀式を行い(秦との関係を重視していることを示す)、使者を派遣して王にこれを報告させました。王の命に従うのみです」


 この時、喜んだ政は朝服に着替え、九賓(外交上の礼)を設けて燕の使者を咸陽宮に招いたという。しかし、彼が燕が諸侯になるという申し入れを本当に喜んだというよりはやはり樊於期の首を持ってきたということに喜んだという方が正しいかもしれない。


 さて、この時、いつも政の傍に控えているせんがいなかった。


 彼は尉繚うつりょうの元にいた。最近、尉繚は病に倒れるようになっており、その見舞いである。


「確か燕から使者が来たそうだな」


「ええ、樊於期の首と督亢の地図を持参していると聞いています」


「まあ、それをもらって良い顔をするのは今日ぐらいだろうがな」


 尉繚はからからと笑う。


「それでも燕の行動で、諸国に動揺を与えるのでは、特に代は気が気ではないでしょう」


「どうだがな、燕の大臣が来るのであれば燕も本気だとわかるがだろうが、来たのは聞いたこともない男だからな」


「そうでしたか。使者の名前までは聞いていませんでしたよ」


「確か……荊軻と言ったかな?」


 その名前を聞いた瞬間、旃は驚いた。


「荊軻、荊軻と言いましたか?」


「ああ」


 珍しく焦ったような旃に尉繚は頷く。


「拙い、拙いです」


 慌てて旃は部屋を出ようとする。


「どうしたというのだ?」


「荊軻はかつて盗跖とうせきの元にいた剣客です。恐らく彼は政様への刺客であると思われます」


(政様)


 旃は政のいる王宮に向かって駆け出した。










 


 その頃、すでに荊軻は宮中に入っていた。樊於期の首が入った函を持ち、秦舞陽しんぶようが地図の入った匣(箱)を持って順に進んでいた。


(あれが秦王か……)


 政の姿を見て、荊軻は内心笑う。


(玉座に座っているだけの男ではない)


 特に目である。豺狼の如き鋭い目には数々の修羅場を潜ってきた男の目が宿っている。


 陛(殿下)まで来た時、秦舞陽の顔色が変わり、恐怖のために震えだした。それを見て、荊軻は舌打ちする。


(見せかけだけの男に過ぎない)


 それが個人だけならば良いが自分まで巻き込まれてしまう。秦の群臣たちが恐怖に震える秦舞陽の姿を怪しんでいる。


 荊軻は秦舞陽を振り返って笑い、前に進んでこう言った。


「北蕃の蛮夷の鄙人(粗野な田舎者)は天子に謁見したことがないため、恐れて震えているのです。秦王のお赦しを願い、秦王の前で使命を完遂させてくださいませ」


 政は鼻で笑うと荊軻に言った。


「そやつが持っている地図を持ってこい」


 荊軻は秦舞陽から取り上げるように地図を受け取って政の近くまで歩き跪いて、地図を献上した。


 政はそれを受け取り、地図を開いていく。


(ここが勝負だ)


 地図が開いていき、そこから隠しておいた匕首が現れた。荊軻はとっさに左手で政の袖をつかみ、立ち上がり、右手で匕首を持った。そのままそれを政に向かって突き出した。しかし驚いた政はとっさに後ろにさがったため、届かず、その拍子に袖が破れた。


「王っ」


 群臣たちの声が響いた。


 政は目の前の男が自分の命を狙う刺客だと気づき、身につけていた剣を抜こうとして長い剣の鞘をつかんだ。しかし慌てており、剣も堅く鞘に入っているためなかなか抜けなかった。


(一人でやるしかない)


 本来であれば、秦舞陽は政の後ろに周り込まなければならない。しかし、秦舞陽は呆然と立っているだけである。


 荊軻は政を追い、政は柱の周りを逃げ回る。


 群臣たちは皆、驚愕して、突然の出来事に動揺するばかりであった。


 秦の法では、群臣が殿上に登る時には尺寸の武器も持ってはならないことになっている。郎中(宿衛の官)達も武器を持って殿下に控えているが、詔召がなければ動けない。


 緊急事態のため政には殿下の兵に命じる余裕がなく、荊軻が政を追いかけても群臣は素手で止めに入るしかない。しかし、荊軻の匕首は毒が塗られており、切りつけられれば、死が待っている。


「王っ」


 そこに旃が駆け込んできた。


「王っ、まだ生きておられる。なら」


 彼はたまたまいた侍医の夏無且を向いた。


「それを投げてください」


 旃は彼の持っている薬囊(薬袋)を指さした。


「承知した」


 夏無且は薬囊を荊軻に投げつけた。


 突然の飛来物に驚く荊軻は動きを僅かに止めた。政は柱の周りを逃げ回っている中で少し一息つくことができた。しかし、慌てているため剣を抜くことができず、どうすればいいか考えられない。


 旃は叫んだ。


「王よ、剣を背負ってください」


(旃っ)


 政は頷き、剣を背の後ろにまわして上に引き、剣を背負い投げるように抜くと迫る荊軻に向かって切りつけた。荊軻はそれを匕首で受け止めようとする。


(これで秦王の体制が崩し、そのままこれを突き刺す)


 その時、旃が落ちていた薬囊を拾い荊軻の足に向かって投げつけ当たった。


 それによって体制が崩してしまった荊軻の左股を政が斬った。それによる痛みで、荊軻は動けなくなった。しかし、彼は諦めていない。手に持っている匕首を政に向かって、投げつけた。だが、既に政の近くに来て旃が政の服を引っ張ったためそれは外れて桐柱に中った。


「おのれ、貴様っ」


 秦王が再び荊軻を斬り、荊軻は八か所に傷を負った。


 失敗を悟った荊軻は柱に寄りかかって笑い、両足を開いて座ると政に向かって罵ってこう言った。


「事が成功しなかったのは、貴様をすぐに殺さず、活かしたまま脅して土地を返す約束をさせてから太子に報告しようと思ったからだ」


「戯言を」


 政はそう呟くと彼に向かって言った。


「名はなんという?」


「荊軻」


 荊軻が答えると政は史官を呼び、


「某年某日、逆賊・荊軻。王の暗殺を図るも失敗す。と書け」


 と命じた。


 それを見て荊軻は笑った。


(ははっ燕の太子よりもよっぽど男の矜持がわかっているじゃないか)


「殺れ」


 政は剣を旃に渡すと旃は頷き、剣を荊軻に向けた。


「まだ小さな時に見ただけであったが」


 荊軻は静かに笑い、手を広げる。


「随分と修羅場を潜った男の目をするようになったじゃないか。ようこそ男の世界へ」


 旃は目を細め、剣を振るった。荊軻の首は飛んだ。


 政はそれを見届けた後、自分の首元を触り、かっと目を怒り、不機嫌となった。暫くして論功が行われ、この場にいた群臣の中には賞を得た者もいれば罰せられた者もいた。特に荊軻を会わせた蒙嘉は処刑され、夏無且は黄金二百溢(鎰)を下賜した。


「無且は私を愛しているからこそ、薬囊を荊軻に投げつけたのだ」


 彼はそう言ってから、燕を潰せと命じた。

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