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夢幻の果て  作者: 大田牛二
最終章 天下統一

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男の矜持

遅れました。

 公子・は代王を称すると燕と連携を行った。


 その状況に対し、秦は王翦おうせんが中山に駐軍して燕に臨んだ。代王は燕と兵を併せて上谷(燕地)に駐軍し、王翦の動きに警戒した。


 その頃、楚の幽王ゆうおうが死に、国人は同母弟の郝(「猶」)を立てた。これを楚の哀王あいおうという。哀王の母は春申君しゅんしんくんを殺した李園りえんの妹である。


 三月、哀王の庶兄・負芻(考烈王の子。哀王とは母が異なる兄)の徒が郝を殺して自立した。この最中に李園も殺害された。負芻は楚の最後の王となる。


 また、魏の景湣王けいびんおうも同じ頃に死に、子の假が立った。魏王・假は魏の最後の王になる。


 さて、代と共に秦に対峙することになった燕の太子・たんは秦王・せいを怨み、報復しようと考えていた。そこで傅(教育官)の鞠武に策を求めた。


 鞠武は西の三晋(韓が滅ぶ前の事)、南の斉・楚、北の匈奴と結んで秦と対抗するように勧めた。


 しかし太子・丹は、


「太傅の計は長い時間を必要とする。そのため人を悶然とさせるため、長く待つことはできない」


 と言って別の策を提示するように求めた。


 そんな中、秦の将軍・樊於期はんおきが罪を犯して燕に亡命した。太子・丹は樊於期を心良く迎え入れ、館舍に住ませた。


 実のところ樊於期がどのような罪を問われたのかは史書にはない。もしかすると代王を邯鄲から脱出させないために彼が創作していたが、逃がしてしまったことで処罰されそうになったのかもしれない。


 鞠武は太子・丹が樊於期を匿っていることを知るとこう言った。


「秦王の暴虐と燕に対する積年の怨みだけであっても、心を寒くさせるのに十分であるにも関わらず、樊将軍がここにいると聞けば、秦はなおさら憤怒することでしょう。これは肉を餓虎の蹊に投げるようなものです。太子は速やかに樊将軍を匈奴に送るべきです」


 しかし、太子・丹は、


「樊将軍は天下で窮困し、その身を私に託した。今は私が命をかけて彼を守る時である。考え直せ」


 と言って聞き入れない。鞠武はため息をつき、


「危を行い、安を求めるのは、禍を造って福を求めるようなものです、計を浅くしながら怨を深くし、新しく知り合った一人の者と結び、国家の大害を考えようとしないのは、怨を蓄えて禍を助長するようなものです」


 と言って太子・丹を説得したが以前として、諫言を聴き入れなかった。それを見て、鞠武はある人物を紹介した。


「ここ燕には田光でんこう先生という方がおります。その為人は智が深く勇敢でありながら沈着ですので、共に謀ることができるかもしれません」


「おおそのような方がいらっしゃったか。傅を通してその方と交わりたいが可能であろうか?」


「謹んで命に従いましょう」


 鞠武はそう言うと、さっそく田光に会って、


「太子が先生と共に国事を図りたいと考えています」


 と伝えた。田光は、


「命を受け入れます」


 と言って太子を訪ねた。


 太子は田光を迎え入れ、後ろを向いて歩きながら先導した。現代の私たちから見ると少し奇妙な行動に見えるが、これは後ろにいる田光の方を向いて先導して、後ろ向きに歩くことになり、客に背を向けず正面を向けて先導するという敬意を表す行為である。


 そして、跪いて席を払い、田光を席に座らせた。周りには誰もおらず、太子・丹が自分の席から離れて田光に言った。


「燕と秦は両立できません。先生の留意を願います(教えをいただきたいです)」


 さっそく本題をぶつけてきた彼に対して田光はこう答えた。


「騏驥(名馬)は盛壮の時には一日に千里を駆けることができますが、衰老すれば、駑馬(駄馬)にも先を越されるもの。太子は私が盛壮だった時の事を聞いただけであり、私の精が既に消亡したことを知りません。但し、私には国事を図ることができませんが、私と親しくしている荊卿けいきょうならば、用いることができましょう」


 卿は敬称である。名はという。衛の人であるが、先祖は斉の貴族であった慶氏であると言われ、衛に移住してから「慶」と発音が近い「荊」を氏にした。


 後に荊軻が燕に移ってからは、燕人から荊卿と呼ばれるようになった。


 荊軻は読書と剣術を好み、かつては盗跖とうせきの元に身を寄せたことがあったが、天下のために役に立ちたいと思い、剣術をもって衛の元君に遊説するなどしたが、元君は用いなかった。


 その後、彼が各地を巡遊して楡次を通った時、蓋聶(蓋が姓、聶が名)と剣術について語った。しかし話している途中で、蓋聶が目を怒らせて睨みつけたため、荊軻は退席した。ある人が蓋聶に荊卿を呼び戻すように勧めたが、蓋聶は、


「先ほど、彼は私と剣について論じたが相応しくない内容があったため、私は目を怒らせて睨みつけた。汝が試しに行ってみろ。彼は既に去ったはずだ。留まるはずがない」


 と言って盗跖が住んでいた宿舎の主人に確認させてみると、盗跖は既に車を走らせて楡次を去っていた。その報告を聞いて蓋聶が言った。


「私が睨みつけたのだから去って当然である」


 その後、荊軻は邯鄲を周遊した。しかし魯句践(魯が姓、句践が名)が荊軻と博(賭博)で争い、怒って叱咤した。荊軻は何も言わずに逃走し、二度と戻ることはなかった。


 彼には、


(小さなことで男は剣を抜かないものだ)


 という思いがあったため、喧嘩になろうとも決して剣を抜こうとはしなかった。

 

 やがて荊軻は燕に入った。


 燕の狗屠(犬肉を売る者。名は不明)と筑(琴に似た楽器)を得意とする高漸離という者と親しくなった。


 荊軻は酒を愛し、毎日、狗屠や高漸離と燕の市で飲んだ。酒がまわると高漸離が筑を弾き、荊軻が和して市中で歌った。互いに楽しそうに過ごした後、一緒に泣いた。その様子は周りに人がいないようであったという。


 彼はそんな風に酒飲み達と一緒にいたが、その為人は慎重沈着であって、読書を愛した。諸侯の各国を遊歴した時には賢豪長者と関係を結んだ。田光はそんな荊軻を庸人(凡人)ではないと見抜いて厚く遇するようになった。


「そのような方がいらっしゃったのですね」


 太子・丹はそう言うと田光に荊軻に会うことを希望すると田光は頷き、立ち上がって小走りで部屋を出た。貴人の前で小走りになるのは礼の一つである。


 太子・丹は田光を門まで送った。


 別れる時、太子・丹は田光を戒めてこう言った。


「私が伝えたことも先生が語ったことも国の大事です。先生がこれを漏らさないようにして頂きたい」


 田光は体を屈めて笑い、


「わかりました」


 と答えた。


 田光は猫背で歩いて荊軻に会いに行き、言った。


「私とあなたが親しいことを燕で知らない者はいない。今、太子が私の壮盛の時だけを聞き、私の形(体)が及ばないことを知らずにいるため、幸いにも『燕と秦は両立できません。先生の留意を願います』という言葉をいただいた。私は足下を自外(外人。他人)とは思っていないため、足下を太子に推薦した。足下が宮中の太子を訪問することを願う」


 荊軻は頷き、


「教えを受け入れます」


 と答えた。田光も同じく頷き、


「長者(立派な人物)の行いとは人に疑われないことを言う。しかしながら太子は私に『私が伝えたことも先生が語ったことも国の大事です。先生がこれを漏らさないようにして頂きたい』と言った。これは太子が私を疑ったためだ。行動を起こしながらも人に疑われるようでは、節俠(節操がある侠士)とは言えない」


 田光はそう言うと剣を抜き、


「足下はすぐ太子を訪問し、私が他者に話さないことを表明するために既に死んだと伝えてもらいたい」


 と頼み、自刎して死んだ。


 男と男の約束というものはこのように守る。約束を守った者としての矜持を田光は己の死をもって、太子・丹に証明したのである。


 荊軻は静かに拝礼を行い、田光の首を箱に入れ、太子・丹の元に持っていった。太子・丹に会うと彼はまず田光が死んだことを話し、田光の言を伝えた。太子・丹は再拝してから跪き、膝で歩いて涙を流した。暫くして彼は言った。


「私が田光先生に他言しないよう戒めたのは、大事の謀を成したいと思っていたからです。今、田光先生は死をもって他言しないことを明らかにしたが、それは私の心意ではない」


(言い訳に過ぎない)


 荊軻は内心、そう思った。


 侠客としての矜持を証明した田光の死を悲しむと同時にそれほどの矜持を太子・丹に示した彼を大いに讃えるべきであり、人を信じる大切さを認識するべきだ。田光を疑ったからこそ、田光は自分が信頼に足る男であることを証明したのである。


 また、それほどの矜持を示した田光が勧めた男を前にした言葉であろうか。特に自分の弁論を行ったところが気に入らない。


(大事が成るだろうか?)


 始める前に太子・丹はそういう不安を与えてしまっている。


(それでも田光先生の矜持に答えなければ)


 それが男の矜持であろう。


 荊軻はそう思った。


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