李牧
寝落ちしていました……
趙で大飢饉が襲った。
趙の民たちはその大飢饉の中、こう噂した。
「趙が号哭して秦が笑う。もし信じないならば、地に毛(草)しか生えていない現状を視よ」
趙の現状に必ずや漬け込むだろう。民たちでさえ、そのことがわかっているということである。しかし、趙の上層部は秦の侵攻は無いと考えていた。
なぜならば、秦も飢饉に襲われていたからである。しかし、李牧は、
「防衛に力を入れるべきです」
と進言を行った。何せ現、秦王・政は自国が飢饉に襲われていても強引の軍を動かした過去がある。油断はならない。
「民の生活が掛かっている中、その意見は無い」
文官たちが彼の進言にもう反対を行った。更に趙の幽穆王の寵臣である郭開が幽穆王に、
「李牧の意見に従いますとあなた様の生活を脅かす可能性があります」
と言った。自分の豪奢な生活を変えたくない幽穆王は李牧の進言を退けた。
文官の意見には正義があったが、彼らの意見ではなく自分の生活のために李牧の意見を退けられたことにこの国の悲しみがある。
李牧はそれでも趙の防衛のために知恵を巡らす。
紀元前229年
大飢饉に襲われている中でも、政は軍を趙へ向けた。秦の王翦が上地の兵を率いて井陘を攻略。
楊端和も河内の兵を率いて趙を攻め、羌瘣も趙へ侵攻した。
三将が合流するとそのまま邯鄲に向かった。
慌てて趙は李牧と司馬尚に対抗を命じた。
両軍は対峙すると沈黙した。
王翦も李牧も名将同士、相手の出方を伺い、動けなかった。しかし、それはどちらに有利かと言えば、王翦の方であり、李牧としてはどうしても相手から動いて欲しい。
「ここでの沈黙は拙いですね……」
李牧はどうにか王翦が動くようについに軍を少し動かした。しかし、王翦は動かない。李牧はこの状態に冷や汗をかきはじめる。
「相手は……」
彼は王翦の勝利の絵を察した。しかもそれは最悪の形で表現されることであろう。
王翦は勝利というものは当然もたらされる結果でしかなく、どのような勝利なのかというのには興味がない。例え、お前は李牧に勝利することはないと言われるような策であろうとも、彼は勝利の形に拘らない。
既に秦の策は進行していた。
政に李牧への戦場への勝利は難しいことを説明を行った尉繚は郭開に重金を贈って李牧と司馬尚の讒言をさせていた。更に現在の対峙して動かないことから郭開は幽穆王に二人が秦と組んで謀反を企んでいると訴えた。
讒言を信じた幽穆王は趙葱と斉の将・顔聚を派遣して二人と交代させることにした。
なぜ、ここに斉の将軍がいるかと言えば、これも尉繚の仕掛けである。斉に趙への援軍として軍を送る振りをして、足を引っ張るように交渉を行っていた。
因みに交渉を行った際の使者は蔡沢である。嫪毐と呂不韋の繋がりの証拠を尉繚に売ったのは彼で、そのため呂不韋の処罰に巻き込まれなかった。しぶとい人である。
「長平の戦いを忘れたのですか」
李牧は交代の命令を聞いた瞬間、激怒した。
趙はあの時の戦いを教訓にしていない。それはあの時に失った多くの兵のことを忘れたことを意味している行為ではないか。邯鄲を包囲された際に決死の奮闘した者たちのことも忘れたのか。この国を守るためにどれほどに尽くし、死んでいった者たちがいたことか。
「この命令は聞くことができません」
そう言って李牧は命令を蹴った。その後、彼は司馬尚を呼んだ。
「私はこのあと、処刑されることになりましょう」
「仕方ないな、私も付き合おうとしよう」
司馬尚は李牧と共に死ねるならば良い。この国に愛想が尽きかけているというのもある。その言葉に李牧は首を振る。
「いいえ、あなたには生きてもらいたい。頼みたいことがあるのです」
李牧は司馬尚にあることを頼んだ後、趙の兵たちが李牧の元を訪れ彼を捕らえた。
「李同殿。あなたが託した思い、果たせきれず申し訳ありません」
最期にそう言って、彼は処刑された。司馬尚は罷免された。
「李牧の最後の頼み。果たさないとな」
そう言って彼はある場所に向かった。
紀元前228年
年が明け、李牧が処刑されたことが秦に伝わった。
「趙の英雄に乾杯」
王翦を始めとする秦の諸将は李牧の死を惜しんだ後、猛烈に趙軍を攻めた。斉軍が全く、動かず趙軍は秦軍にやりたい放題にされ、結果、趙葱は戦死した。斉の将軍・顔聚は約定を果たした後、そのまま逃亡した。
そのまま秦軍は邯鄲へ直進し、激烈に攻め立て邯鄲を攻略した。その戦いの中、郭開は殺された。
幽繆王はなんとか脱出し、東陽(または「平陽」)を占領した。
楊端和を邯鄲に残し、王翦、羌瘣は残りの趙の地を占領しながら、東陽の幽穆王を捕らえ、房陵に遷した。そして、趙の地に秦の郡が置かれた。
趙はこれをもって滅んだのであった。
趙を攻略した後、政は邯鄲に入った。ここに来る前、母・趙姫は死んでいた。
「母上への手向けを用意しなければ」
政はそう呟いて、邯鄲に入ると人質だった頃に母の家と仇怨をもった者たち全てを阬殺(生埋め)していった。
「母上、天涯への手向けとされますよう」
政は天に向かってそう言った後、太原、上郡を通して秦に帰還した。
一方、その頃、司馬尚はある一団を守りながら山越えを行っていた。その一団とは公子・嘉ら宗室数百人である。
李牧が彼に最後に託した願いは彼らを守って邯鄲から脱出することであった。
「さて、着きましたよ」
「そうか……ここが代か……」
公子・嘉はかつて己の先祖が治めた地である。先祖の徳に縋る思いでここに来た。
ここで彼は代王を称した。これを聞いた旧趙国の大夫が代に集まった。
秦への抵抗の炎は未だ消えることはなかった。




