統一への序曲
紀元前232年
秦王・政の大号令により、秦軍が大挙して趙を攻めた。
王翦率いる一軍は鄴に、蒙武率いる一軍は太原に至り、狼孟と番吾(または「鄱吾」)を取った。
しかしそこで趙の大将軍・李牧が進撃した。
(秦もだいぶ本気のようですね)
ただでさえ、趙では龐煖が病死してしまっている。
「こちらの戦力は少なくなっている。それでも負けるわけにはいきません」
彼は司馬尚と共に秦軍と相対した。
「王翦は無茶な戦いを好まない人物です。こちらがしっかりと守りを固めれば相手の動きは鈍くなります」
王翦との戦いにおいて諸軍に守りを固めることを徹底させる一方、
「蒙武は常に相手との真っ向からの勝負を好みます。彼には騎兵の速さをもって攪乱し、まともに打ち合わないように」
蒙武には騎兵による襲撃と撤退を繰り返させ、相手に流れを渡さない戦いを行った。
これにより秦軍は当初よりも侵攻を行うことができないでいた。更に李牧は後方に司馬尚率いる騎兵をもって襲撃を行わせて混乱をもたらす。
「これ以上の戦闘の継続は難しいと思われます」
王翦は秦の王宮にそう報告を行った。政は大いに不快であったが、尉繚が、
「戦場で勝つだけが勝利するというわけではない。ここは手段を変えれば良い」
と主張したため、趙からの撤退を決めた。
「李牧はまさに趙の守護神と言っても良い男だ。そのことを認めざる負えないな」
政は李牧が強敵であることを認めると尉繚に李牧の排除のための策を練るように命じた。
以前、燕の太子・丹が人質として趙に行ったことがあった。
当時、秦の異人(子楚。荘襄王)も人質として趙におり、その子・政が邯鄲で生まれた。政は秦に入るまでの約八年で燕の太子・丹と知り合い、仲のいい友達になった。
少なくとも太子・丹はそう考えていた。
ところが、政が即位してから丹が人質として秦に来たが、政は礼を用いず、友達であったことを忘れたようであった。
太子・丹は怒って勝手に燕へ帰ってしまった。
政は太子・丹のことを友人だとは一度も思ったことはなかった。
「あれは私の趙での暮らしぶりを見て、哀れんだ振りをして見下しており、哀れな私を友人として接する自分に酔っているだけの男だ」
と、前々から旃に語っていた。
紀元前231年
韓は南陽の地を秦に献上した。
自国の立場を守ることに必死な姿がありありと見えるようである。
九月、秦は内史・騰を派遣して南陽の假守(代理の長)にした。
更に魏人が秦に領地を献上した。これは魏の国としての考えによるものであると言うよりは、魏を見限った現地の人々が献上したと見るべきであろう。
秦は魏から得た地に麗邑を置いた。
代で地震があった。楽徐以西から北は平陰に至る地域で、台屋牆垣の太半が崩壊し、地が東西百三十歩にわたって裂けるという大災害であった。
この被害を聞いた政は、
「趙は動けないだろう。韓を滅ぼす」
と宣言し、南陽の内史・騰に韓への侵攻を命じた。
紀元前230年
内史・騰が南陽から韓へ侵攻をした。
「秦め。こちらを滅ぼしに来たか」
なんとか衛のような形で残りたいと動いていた韓の宰相・開地の子・開平は憤りをあらわにする。
「虎狼の国でしかなかったか」
そんな国に縋ろうとしたことがそもそもの間違いであったのだと思いながら彼は迫る秦軍のため兵をかけ集める。
しかし、多くの者たちは秦との差を理解している。集まった兵は少なかった。
「だからこそここに集まった者たちは誠の韓の忠臣である」
数は少ないがそれでも集まってくれた兵と共に開平は秦軍と戦った。彼らの奮闘は凄まじかったが、秦軍の都への侵入を許してしまう。それでも彼らは王宮を背にして戦う。
「下手に相手せず、遠巻きに矢を射掛けよ」
内史・騰は死兵と化した彼らとは下手に戦わず、遠巻きに矢を放たせる。
それによって一人、また一人と韓兵は散っていく。
「ここまでか……良……」
我が子を思いながら開平は針山になって絶命した。
この間に逃走を図っていた韓王・安は捕えられ、韓の地には潁川郡が置かれた。
韓はかつて平陽を都にしましたが、鄭を亡ぼしてから新鄭に遷都し、景公の時代に新鄭から陽翟に遷った。秦は陽翟県を潁川郡の治所にした。
こうして六国でもっとも弱かった国とはいえ、ついに韓は滅んだ。
青年が涙を流しながら自分よりも若い子を背負って林の中を歩いていた。
「大丈夫、もう少し行けば、邑に着くから……」
背負っているのは青年の弟である。自国である韓が滅んだことにより彼は弟を連れて逃れようとしていた。
「既に財産は父上の友人が持って行ってくれている。だから……」
弟はちょうど韓が滅びようとしていた時、病に犯されていた。医者に見せたかったが滅びようとしている混乱時にそのような余裕はなかった。
「大丈夫だ。大丈夫……」
「おやあ?」
その時、青年の横から声が聞こえた。
「あなたは亡骸と話すことができるのですか?」
青年は涙を流しながら声の主の方を向いた。男が立っていた。しかし、実に異様であった。なぜなら男は両手についた赤い血を布で拭いていたからである。
「おやおや、そんなに泣かれてどうなさったのです。その背に背負っている子供……弟さんでしょうか?」
青年は背負っている弟が既に冷たくなっていることにはとっくのとうに知っていた。知っていたが彼は必死にそれに気づかない振りをしていた。
しかし、男に指摘され、膝から崩れ落ちると背負っていた弟を地面に横たえた。そしてそのまま弟の亡骸に覆いかぶさり、絶叫に近い声を上げた。
その間、男はその様子を両手の血を吹きながら見ている。
青年が声を発するのをやめたのを見て、男は青年に近づき言った。
「このままでは可哀想でしょう。この辺で埋めてしまってはどうでしょう。墓があるというのであれば、別ですがね?」
男の言葉に青年は頷く。そのまま弟のために穴を掘り、埋めた。
「さあ、祈りを捧げましょう」
男に言われるまま青年は男と共に祈りを捧げた。
「なぜ、人は祈りを捧げるかわかりますか?」
そう男が聞いてきた。
「死者を悼むためです」
青年の答えに男は首を振る。
「違います。大切な人を死に追いやった者を忘れないためです」
男はにやりと笑う。
「病気によって死に追いやられたのであれば、その病を、自然によるものであるならば、自然を、人によってやられたのであれば、その人を、死に追いやった存在を忘れることなく、憎むこと。それが人が祈ることなのですよ」
青年の前で笑う。
「あなたの弟を死に追いやったのは誰ですか?」
「秦だ。秦王だ」
青年はキッと秦の方角を見る。
「国も、家も、父も、弟も全て、全て秦が奪った」
彼は拳を握る。その拳から血が流れていく。
「必ず、この手で秦を滅ぼしてやる。そして、韓を復興させてみせる」
青年の言葉に男はふふふと笑うと言った。
「その言葉、しっかりと聞きましたよ。あなたがこの先しっかりと生き残り、その気持ちを決して忘れることがなかれば、この私があなたの復讐を手伝ってあげましょう」
青年は男の方を振り向いた。もうそこには男の姿はなかった。
「必ず、秦は滅ぼす……」
青年は立ち上がると林を抜けるため歩き出した。彼は身分を隠すため、姓を捨てて、張良と名乗った。
後に秦を滅ぼす刃となりて秦を切り裂くことになる男である。