韓非
紀元前234年
秦の桓齮が趙を攻め、対抗した趙将・扈輒は平陽で敗れた。十万が斬首され、扈輒は戦死した。
彼はその勢いに乗り、更に趙への攻撃を行った。
それに恐怖した趙の幽穆王は李牧を大将軍に任命し、宜安と肥下で秦軍に反撃させた。李牧が来たことを知ると早々に桓齮は退却した。
それを見た李牧は、
「桓齮という将軍は勝てる状態でのみ戦う将のようですね」
と呟くと次の攻撃に備えるように指示を出した。
紀元前233年
年が変わると再び、桓齮が趙を攻めて宜安、武城を取った。
趙の大将軍・李牧は間者を放ち、
「李牧は大軍を率いて肥下で秦軍を決戦を行おうとしている」
と言いふらした。
桓齮はそれを聞くと鼻で笑い、
「前回は李牧と相対する状態でなかったから退却した。準備さえ行えば、李牧など怖くない」
と言って、肥下に先に向かって陣の準備を行おうとした。
しかし、そこに李牧の軍勢が強襲した。李牧が大軍で来るというのは嘘であった。彼が率いたのは厳選に厳選を重ねた騎兵部隊であり、速さを意識するために少数精鋭である。
まさかこれほど早く来るとは思っていなかった桓齮の軍は李牧の騎兵によって大破され、大将である桓齮はその中で戦死した。
この功績により、趙は李牧を武安君に封じた。かつて白起が封じられた名を冠しており、白起の如き才覚を有しているとしたのである。
「いつまで戦で勝てていけるか」
李牧は勝利を収めながらも憂いを隠せなかった。
秦と趙ではあまりにも国力が違う。いつまでも勝てるとは限らない。
「それでもやらなければ」
それが武人というものであると彼は思った。
秦軍が久しく敗北を知らなかったにも関わらず、趙に負けたことは秦も他国も驚いたが、それでも秦の強大さは揺らいではいない。そのため韓王・安は秦に領土と国君の璽を納めて藩臣になることを請い、韓非(韓非子)を派遣して秦を聘問させた。
韓非は韓の諸公子の一人で、刑名法術の学を修め、申不害や商鞅の流れをくむ法家に属すどころかその大家というべき人である。
彼は昔から口吃(訖音)の症状があり、人と話をすることが苦手であった。しかしながら彼は著作に優れており、李斯と共に荀卿の元で学んでいた。
密かに李斯は自分が韓非に及ばないと感じていた。
韓が衰弱したため、韓非はしばしば韓王・安に上書して意見を述べたが、用いられることはなかった。韓非は韓の治国を憂う気持ちが強いだけに悲しかった。
当時の韓は任賢を求めず、浮淫の蠹(虚名しかない小人)を用いて実際の功績よりも上の地位に置いており、国が安全な時は虚名の者を重用し、戦になれば、介胄の士(武装した士)を用いるだけで、能力がある賢人は養われず、廉直の者が邪枉の臣に容認されず排斥を受けていた。
韓非はこのような状況を悲しみ、過去の得失の変化を考察して『孤憤』『五蠹』『内儲』『外儲』『説林』『説難』等の五十六篇・十余万言の書(『韓非子』)を残した。
当時、何か書物を書いた際に天下に広まるまでには相当な時間が掛かったと思われるが、ある人が韓非の書を秦にもたらした。それを尉繚が読み、面白い書物だと思って、秦王・政に献上した。
政は『孤憤』『五蠹』の書を読んで著者の賢才を知り、実際に会ってみたくなった。
「ああ、私がこの人を得て共に語り合うことができれば、死んでも悔いはない」
先に書いたがこの時代、書物が流行するまでに相当な時間がかかる。そのため政はこの書物の著者は既に亡くなっていると思った。その時、政から書物を見せられた李斯は、
「これは韓非が著した書でございましょう」
と教えた。
「著者を知っているのか?」
「はい、私と同門の者でございまして、韓の公子の一人です。確か韓からの使者としてこちらに参ると聞いております」
「そうか。そうか」
政は大いに喜び、韓非が来るのを今か今かと楽しみに待った。これほど人と会うということにおいて喜んだのは後にも先にもこの時だけであろう。
さて、韓非が韓の使者として秦を訪ねてきた。さっそく彼は上書してこう伝えた。
「今、秦の地は方数千里にわたり、その軍は百万を号し、その号令賞罰は天下に及ぶ国はございません。私が命をかけて王に謁見を求めましたのは、天下の合従を破る計を述べたいからです。王が私の言を聞くようならば、一挙して天下の合従を破り、趙を占拠し、韓を亡ぼし、荊(楚)、魏を臣下とし、斉、燕を秦に親しませ、霸王の名を成し、四鄰の諸侯を入朝させることができます。もしそうならなければ、王は私を斬って国に晒し、王に述べる謀計が不忠な者を戒めてください」
この韓非の上書を読んで政は喜んだが、すぐには用いようとはしなかった。ここに人間不信の悪癖が出たと言って良い。
上書を見て喜ぶ姿を見ていた李斯と姚賈(李斯と同門か?)は韓非が重要され、自分たちは排除されるのではないかと考え、政にこう言った。
「韓非は韓の諸公子の一人でございます。今、王は諸侯を併呑されようとしていますが、韓非は最後には韓のために働くため秦のためにはなりません。これは人の情というものです。王はまだ彼を用いようとしていませんが、彼を久しく留めてから帰らせたら後患を残すことになります。法に則って誅殺されるべきです」
不誠実極まりない言葉である。相手は一国の使者であり、その使者を捕らえて死刑にしてしまえというのはあまりにも暴論である。李斯は鼠から教訓を得るという非凡な視点を持つ自分にもっと自信を持つべきであった。
それに政は納得して下吏に韓非の罪を探させた。
(罪が無ければ、李斯たちも黙るだろう)
という考えの元での命令である。しかし李斯の嫉妬心は政の予想を超えている。彼は人を使って韓非に毒を送り、自殺するように迫った。
韓非は冤罪を訴えるため政に会おうとしたが、そこは李斯が会わせなかった。
この事態に気づいた尉繚が政の元に使者を派遣し、彼を救うべきであると進言した。政は彼の言葉を受けて、先の命令を後悔して韓非に使者を送った時には、韓非は既に死んでいた。
後に『史記』を書いた司馬遷は韓非の最後についてこう述べている。
「韓非は説得、弁舌の難しさを知っており、それを『説難』の書に詳しく述べている。しかしながら自分自身はその難から逃れることができず、秦で死ぬことになってしまった」
法家の大家と呼ばれるほどの人でありながらも生き残るのは難しいことがこのことからわかる。
法家の大家である韓非子の思想について少し述べることにする。
韓非子は荀子の元で学び、荀子の思想を更に発展させた。荀子は「礼」を重視しており、法の前に礼を置いたが、韓非子は法を最重要なものとみなした。そのため荀子は通常、儒家とされるが、韓非子は法家に属すことになった。
韓非子以前の法家には商鞅や申不害がいた。
商鞅は「法」の大切さを称え、貴賎の区別がない法律(多少の例外は含む)を設けることで国家の秩序を築き、富国強兵を実現させた。
申不害は「法」だけでなく、「術」を重視した。「術」とは上に立つ者が用いる「権術」「術策」「術数」のことであり、もっと細かく言うと「政治を行う技術」「国民を支配し、法を運営するための技」と言えるが、その内容はやや漠然とした抽象的な概念である。
「法」と「術」以外に「勢」を称える法家もいました。慎到がその代表である。「勢」というのは最高権力者の「威勢」「権勢」を指し、上から下に対する「威厳」といったものが含まれる。
韓非子はこれらを総合し、統治者には「法」「術」「勢」の三者が欠けてはならないと主張したのである。
国君は法制規則を明らかにし、公正な政治を行うことにより、秩序を築き、国を富ませることができる。これが「法」の役割とし、国君は人々を統治する際、国民に侮られることがないように様々な術策を用いなければならない。これが「術」の役割とし、国君は威厳を保つことに努め、指示・命令は上から下に流れ、国民にその内容を尊重させる。これが「勢」の役割とした。
韓非子の主張は「仁」「義」「礼」「徳」といった道徳感情や礼節を基礎とする儒家思想から脱却し、「国の頂点に立つ国君が絶対的な法によって国民を制御することにより、天下の秩序を維持できる」という法治と中央集権の概念を突出させ、法家の集大成的な考えを彼は作り上げたのである。