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夢幻の果て  作者: 大田牛二
最終章 天下統一
172/186

 斉人・茅焦が秦王・せいに言った。


「秦は天下の事を行おうとしているにも関わらず、王は太后を遷した悪名を負っておられます。諸侯がこれを聞けば、恐らく秦に背くことになりましょう」


(うるさいやるだな)


 政はそう思いながらもこの諫言を聴いて太后・趙姫ちょうきを雍から咸陽に迎え入れた。趙姫は再び甘泉宮(咸陽南宮)に住むことになった。


 更に政は茅焦を傅(教育官)に任命し、更に上卿の爵を与えた。


 趙姫は喜んで言った。


「天下の亢直(剛毅で正直)な者が敗(失敗)を成(成功)に変え、秦の社稷を安んじ、私達母子を再び会わせることができました。これは茅君の力(功績)と言えましょう」


 秦の宗室・大臣たちが議して言った。


「諸侯の国から秦に来て仕官した者は、皆、その主のために遊説しており、我々のためには働きません。全て駆逐なさるべきです」


 宗室の発言には王族の地位を守って拡大するという目的があるが、政はこれにあっさりと同意した。なぜ彼がこれにあっさりと同意したのかと言えば、恐らく茅焦のせいであろう。政はよほどこの男が気に入らなかったようである。


 そのため茅焦をさっさと追い出し、大捜索を開始して他国から来た者を全て追い出されて「逐客令」が発布された。


 これに反対した者がいた男がいた。李斯りしという男である。


 李斯は楚の上蔡の人である。


 若い頃、李斯は郡の小吏(位が低い官吏)を勤めていた。ある日、吏舍の厠で鼠を見た。鼠は汚れており、人や犬が近づく度に驚き恐れていた。


 李斯が倉庫に入った時も鼠を見た。鼠は高く積まれた粟(食糧)を食べ、大きな屋根の下に住み、人や犬が現れても驚く様子がなかった。


 彼は嘆息してこう呟いた。


「人が賢となるか不肖となるかは鼠と同じである。自分がいる場所で決まるのだ」


 李斯は学問を志し、荀卿じゅんきょうに従って帝王の術(学)を学んだ。やがて学業を修めた李斯はこう考えた。


「楚王は仕えるに足らず、六国は全て弱いため、功を立てることができない」


 こうして彼は西の秦に行く決意をした。


 李斯が荀卿に別れを告げに来ると荀卿は彼にこう言った。


「あなたは鼠を見て、人のあり方を見るという独自性に溢れる視点を持っています。だからこそその感覚を大切にし、凡人の欲に目を奪われないようにするのですよ」


「最後の教え肝に銘じます」


 本当に彼の言葉を肝に銘じたのかは少し後の話しとなる。


 秦に入るとちょうど秦の荘襄王そうじょうおうが亡くなった。そのため李斯はまず秦の相であった文信侯・呂不韋りょふいの舍人になることにし、呂不韋は李斯の賢才を認めて郎に任命した。


 李斯は呂不韋を通じて政にこう進言したことがあった。


「胥人(胥吏。小人)は容易に幾(好機。機会)を失い、好機を利用することができませんが、大功を成す者は瑕釁(隙)を見つければ、躊躇せずにつけいるものです。昔、秦の穆公ぼくこうは霸を称えましたが、ついに東の六国を兼併することはできませんでした。それはなぜでしょうか。諸侯がまだ多数存在しており、周の徳も衰えておらず、五伯(五覇)が前後して興隆し、周室を尊重したためです。しかし秦の孝公こうこう以来、周室は衰弱し、諸侯が互いに兼併を繰り返し、関東は六国のみになりました。このような状況下で秦が勝ちに乗じて諸侯を従えてから、既に六世(孝公、恵文王けいぶんおう武王ぶおう昭襄王しょうじょうおう孝文王こうぶんおう荘襄王そうじょうおう)になります。今、諸侯は秦に服して郡県同様になっていますので、秦の強大な力と王の賢才があれば、竈の上を掃除するように諸侯を滅ぼし、帝業を成立させ、天下を一統とすることができましょう。これは万世に一時の好機です。この時に怠って機会をつかもうとしなければ、諸侯が再び強くなり、互いに集まって約従(合従)するでしょう。そうなれば、黄帝こうていの賢があろうとも兼併できなくなります」


 政はこのことから李斯を長史に任命してその計を用いるようになり、やがて李斯は客卿になった。そのため呂不韋が失脚しても彼は巻き込まれなかった。


 さて、この発布された「逐客令」に楚出身の李斯も該当しており、追放されることになる。


(ここまで来て、追放などごめんだ)


 李斯は上書してこう訴えた。


「吏(官員)が逐客を議しているとお聞きしましたが、それは過ちになりましょう。昔、穆公は士を求め、西は戎の由余ゆうよを、東は宛の百里奚ひゃくりけい、宋の蹇叔けいしゅく、晋の丕豹ひひょう公孫支こうそんしを得ました。この五者は秦出身ではございませんでしたが、穆公は彼等を用いて十二の国を併合し、西戎に覇を称えることができました。孝公は商鞅しょうおうの法を用いて風紀習俗を変えましたので、民が殷盛(豊かに繁栄する様子)し、国は富強になり、百姓が喜んで用いられ、諸侯は親服し、楚・魏の軍を破り、千里の地を占領して今の強盛を得ることができました。恵文王は張儀ちょうぎの計を用いて三川の地を攻略し、西は巴・蜀を併せ(実際は司馬錯しばさくの功績)、北は上郡を、南は漢中を取り、九夷(楚領の少数民族)を包み、鄢・郢を制し、東は成皋の険を占領して膏腴の壤(肥沃な土地)を奪いました。張儀のおかげで六国による合従が瓦解し、西を向いて秦に仕えるようになったのです。その功施(功績・実績)は今に至っております。昭襄王は范睢はんしょを得てから穰侯を廃して華陽を駆逐し、公室を強くして私門(権貴の勢力)を閉ざしました。また、諸侯を蚕食(徐々に侵食すること)して秦の帝業を成しました。この四君は客(外国から来た人材)によって功を立てられました。こうして見ますと、客は秦を裏切っていません。もしも四君が客を退けて国内に入れず、士を遠ざけて用いなければ、国には富利の実がなく、秦も強大の名を得ることはできなかったでしょう」


 歴代の秦の君主は他国の者を使い、国を強くなったではないか。その功績を忘れてはならないはずである。


「今、王は昆山の玉を受け入れ、隨と和の宝を有し(随の宝はかつて随侯が大蛇から得たという明珠で、「隨珠」という。和の宝とは「卞和の璧」「和氏の璧」といい、後に伝国の璽とすることになる)、明月の珠を垂らし、太阿の剣を帯び、纖離の馬に乗り、翠鳳の旗を建て、霊鼉(亀の一種)の鼓を置いております。これらの宝物の中には、一つも秦で生まれた物ではなく。しかし陛下はこれらを好んで用いています。それはなぜでしょうか。秦で産出された物だけを使いましたら、夜光の璧が朝廷を飾ることなく、犀象の器が玩好とされることなく、鄭・衛の女が後宮に並ぶことなく、駿良駃騠(駿馬・良馬)が外厩を満たすことなく、江南の金錫が用いられず、西蜀の丹青(顔料)が採られることもなくなるのです。後宮を飾り、下陳(後列。ここでは後宮の妃妾)を満たし、心意を楽しませて耳目を喜ばせる時、必ず秦で生まれた物を使う必要があると言うのであれば、宛珠(宛地で採れる珠玉。あるいは上述の随珠)の簪も、伝璣(玉の一種)の珥(耳飾)も阿縞(斉の東阿で造られる繒帛)の衣も、錦繍の飾も全て献上されることがなくなり、隨俗(時流に合っていること)雅化(優雅)佳冶(艶麗)窈窕(美しくて善良なこと)な趙女が側に立つこともなくなるのです。また、甕を撃って缻を叩き(甕と缻は秦で使っていた打楽器)、箏(秦箏)を弾いて髀(太腿)を打ち、嗚嗚ウーウーと叫んで歌うことで耳目を喜ばせますのが、本当の秦の声(音楽)であり、『鄭』『衛』『桑間』『昭(または「韶」)』『虞』『武』『象』といったものは全て異国の楽(音楽)です。今、甕や缻を棄てて『鄭』『衛』に従い、箏を棄てて『昭』『虞』を聞いているのはなぜでしょうか。理由などございません。目の前にある快意(快楽)を観賞しているに過ぎないのです。ところが人を用いる時には態度が異なっています。可否を問わず、曲直を論じず、秦の者でなければ去らせ、客となった者は駆逐されようとしています。これは色楽珠玉を重んじ、人民を軽んじているのと同じであり、海内を越えて諸侯を制する術ではありません」


 これから天下を得ようという時に玉などの力がいるだろうか。それよりも人材を大切にすることが肝心ではないのか。


「地が広ければ粟(食糧)は多くなり、国が大きければ人が増え、兵が強ければ士が勇ましくなると申します。太山(泰山)は土壤(土砂)を避けないからこそ、あの大きさとなり、河海は細流を選ばないからこそ、あの深さになり、王者は衆庶を退けないからこそ、その徳を明らかにできるのです。その結果、地には四方(国境)がなくなり、民には異国がなくなり(国が統一され)、四時(四季)に美が満たされていき、鬼神が福を降すようになる。これが五帝三王が無敵だった理由です。今、黔首(民)を棄てて敵国を援けさせ、賓客を諸侯に仕えさせ、天下の士を退けて西に向かわせず、足を留めさせて秦に入れないようにしておられますが、これこそ『兵(武器)を寇敵に貸して食糧を盗賊に与える』というものでございます。秦で産出された物でなくとも、宝となる物は多数あります。秦で生まれた士でなくとも、忠を願う者は大勢います。今、客を駆逐して敵国を援けさせ、民を損ない、讎(敵)の益とし、国内を自ら空虚にして国外で諸侯との間に怨みを結んでおりますが、このような状況で国に危難がないことを望もうとも、無理というものでしょう」


 この上書に納得した政は『逐客令』を廃止し、李斯を招いて官を元に戻すことにした。


 この時、李斯は秦都・咸陽を出て驪邑にいたが、道中で情報を耳にし、都に戻って政に仕えた。後に李斯の官は廷尉に上り、政の謀臣として寵愛を受けることになった。


 李斯は人材を集めるように進言を行い、辯士に金玉を持たせて各国に派遣させた。諸侯に仕える名士で財を受け入れる者には厚い礼物を贈って交わりを結び、受け入れない者は次々と利剣で刺殺させていった。


 更に李斯は政に、


「先に韓を取って他国を恐れさせるべきです」


 と進言した。これによって政は李斯に韓を攻撃させた。


 これに対して尉繚うつりょうがこう言った。


「秦の強盛をもってすれば、諸侯は郡県の君のように小さなものでしかない。しかしながら私は諸侯が合従し、一つになって不意を衝くのではないかと恐れている。これは智伯ちはく夫差ふさ湣王ぶんおう(斉)が亡んだ原因であり、王は財物を惜しまず、各国の豪臣に贈ってその謀を乱すべきだ。三十万金を失うだけで諸侯を全て得ることができる」


 李斯の進言の恐怖させるために軍を動かすぐらいなら金を動かして、諸国の間に不和をもたらせれば良いということである。これに政が聞き入れなかった。政は以前から尉繚に会う時は対等の礼を用い、衣服・飲食も同等にして敬意を表してきたがここにきて尉繚の聞き入れようとしなかった。


 すると尉繚はせんに言った。


「秦王の為人は、蜂準(蜂のような形をした高い鼻)、長目、鷙鳥膺(猛禽のような胸)のようであり、豺声(豺狼のような声)をしている。また、恩が少なく虎狼の心を持っている。困難がある時には容易に人の下になるが、志を得れば、簡単に人を呑み込むことができるだろう。私は布衣(庶民)に過ぎなかったが、王はしばしば自分を私の下に置いている。秦王に天下の志を得させれば、天下は皆、秦王の虜(捕虜。奴隷)となることだろう。彼と共に久しく交わることはできない」


 尉繚は秦を去ろうとすると旃が慌てて政にそのことを伝え、政は驚いて尉繚を頑なに引き留めた。


「軍事のことはお前に任す」


「まあ良いだろう。李斯は内政はできるが軍事の人ではないことがわかれば良い」


 こうして尉繚が戻り、彼が軍事における方策を練り、李斯が内政を担うという形ができあがったのであった。




 


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