処断
紀元前237年
秦の王宮では呂不韋への責任追及が行われていた。
「文信侯・呂不韋は相国の地位におりながらその責務を果たさず、もっぱら己の私利私欲のために国政を専横して参りました」
朝議において、尉繚が述べる中、頭を下げながら聞いている呂不韋はついにこの時が来たと思った。
(尉繚は私を潰すためにありとあらゆることを調べているはずだ)
それを聞いた秦王・政は必ずや激怒し、自分を処刑することだろう。
(せっかくであれば、愛しい方、自ら私を斬って下されば良いが……そう思えば思うほど、胸が高鳴るようだ)
一商人に過ぎなかった自分が他国に人質となっていた王子を王にし、地位において最大の高みへと至り、思うがままにこの国を、この天下を操った。
そんな男を愛しい人が自らの才覚を持って集めた者たちと共にこの私を打ち砕く。ああなんと素晴らしき物語であろうか。なんと喜ばしい終幕であろうか。
愛しい人の成長も、彼の元に集まった者たちも皆、自分が揃えた。愛しい人の今後の天下を取ることに彼らは活かされることになるだろう。
「呂不韋は前年の乱を起こした嫪毐を舍人にし、彼を宦官として偽らせて宮中に入れ、太后を唆したのは呂不韋によって行われたのです」
そのような功績と共に私への憎悪と共に愛しい人の記憶に留まり続けることになる。
(素晴らしいことだ)
「この者は他国の大臣たちと何度も書簡を交わし、我が国の実情を他国へと流し、度々他国の利益になるようにもしてきました。このような者は我が国においては死刑に処すと定められています。王よ呂不韋に死刑を求めます」
尉繚の言葉を受け、大臣たちも同じように政へ向かって拝礼を行い、呂不韋を死刑に処するように乞うた。
(これで私は死ぬ。しかし、私の名は歴史に、愛しい人の記憶の中で永遠に残り続ける。ああ素晴らしき終幕ではないか)
ふと、呂不韋は尉繚の方を見た。同時に驚いた。本来、自分の罪を追及して、後一歩で死刑に追い込めると言える状況であるのに、尉繚の表情にはそのようなものは感じられず、冷や汗をかいている。
そもそも政の言葉が未だに聞こえてこない。
(どうしたというのか)
頭を上げるべきではない呂不韋には状況がわからない。
それは尉繚も同じであった。政が政治を行う上でもっとも大きな障害と言って良い呂不韋をついに追い出すことができるようになったにも関わらず、政はここまで玉座に座りながら木簡に筆を走らせ、まるで今までの朝議の内容などには興味がないようであった。
(まさか聞いていなかったということはあるまい)
政はああ見えて、政務に対しては真面目である。聞き逃すなどということはない。
だからこそ周りの大臣たちも動揺が隠せない。
ついに政が口を開いた。
「汝らが申したいことはそれだけか?」
政の声が朝議にて響いた。
「左様でございます」
尉繚がそう述べると政は木簡から目を離し、近くに控えていた旃に渡して玉座から立ち上がった。そのまま静かにゆっくりと玉座の前の階段を降りていく。
「文信侯は我が父が苦しんでいる時に手を差し伸べた人物であり、相国として長年、我が国に国政を担ってきた方である。その功績は汝らもよく知っていることであろう」
「しかしながら、だからこそ呂不韋の大罪は重いのです。下手な寛容は必ずや我が国、王の毒となりましょう許してはなりません」
この流れでは呂不韋の罪が不問となりかねない。尉繚を始め、大臣たちは呂不韋を死刑にすべきと主張する。そんな中、政は相変わらずゆっくりと階段を降りて行き、呂不韋に近づくと跪いている彼の手を取って起き上がらせる。
「汝らが申す通り、呂不韋は罪を犯した。しかしながら彼の功績を忘れてはいけないだろう」
政はぎこちない笑みを浮かべながら呂不韋を見据えながら言った。
「汝が我が国のため、私のため働いてくれたことは私も天も知っていることである。しかしながら我が国の法はあなたの罪を許すことはできない。よってあなたの相国としての職を免じ、 封国に帰り、大いに休まれよ」
呂不韋の封国は河南洛陽の地である。
その決定に尉繚を始め大臣たちは驚く。
(甘い。甘すぎる)
それでは甘すぎると大臣たちは口々に政へ決定を変えるように述べていくが、政は聞き入れない。しかし、大臣たちの思いと裏腹に呂不韋はあまりのことに驚きを隠せなかった。
(相国としての職を免じる。そして、封国で隠居しろ……それだけ……それだけ、そんなまさか。そんなはずが)
「王、違う。それは違う。私が望んだことではない」
「呂不韋よ」
政はぎこちない笑みから深い笑みに変わり、口元に人差し指を一本立てて言った。
「もう何も言うな。お前のことはこの私がよくわかっている。だからもうこれ以上、申すではない」
「違います。これは私が望んだ終幕ではないのです。断じて違うのです。どうか愛しい人よ。この私に最上の終幕を、お与えください」
彼の言葉は呂不韋の死刑を望む声により、周りの者には聞こえていない。ただ一人政を除いて。その政は彼の言葉を聞き、
「はっ」
鼻で笑い捨てた。そして、呂不韋の肩を叩き、
「ご苦労であったな」
と言ってから耳元で、
「お前如きの自己満足に私が付き合う必要があるのか。身の程を弁えろ」
と囁き、そのまま横切って行った。その後ろを旃が付いて行く。
政は旃を連れて、朝議の場から去っていった。その後をついていくように尉繚が朝議を出ると呂不韋は膝から崩れ落ちた。
「どういうことだ」
尉繚は政の後をついていきながらそう言った。
「何がだ?」
「呂不韋という大事をついに成そうという時になぜ、あのような寛容を与えた。呂不韋が今までやってきたことを忘れたというのか?」
政はこの言葉を受けて彼が振り向く。
「呂不韋など、天下という大事の前では小事に過ぎない。尉繚よ、間違えるな。我らにとって大事とは天下であるということを」
それだけ言ってそのまま政は歩き去っていった。
これより本当の意味の政による秦の親政が行われることになった。ここから本当の意味での天下統一への戦いが始まる。




