嵐の前夜
楚の観津の人・朱英が春申君に言った。
「人は皆、楚は強国だったにも関わらず、あなた様を用いてから弱くなったと考えています。しかし私の考えは違います。先君の時代、秦は楚と友好関係にあり、二十年にわたって楚を攻めることがありませんでした。それは秦が黽阨の塞を越えて楚を攻めるのが不便だったためであり、両周に道を借りようとも韓と魏が背後から楚を襲う恐れがあったからです。しかしながら今は違います。魏は旦暮(朝晩)には亡び、許と鄢陵を守ることもできません。魏がこの二つの地を秦に譲れば、秦兵は陳(楚都)から百六十里に迫り、秦・楚の戦いが止まなくなります」
朱英の言に納得した春申君は彼の言葉に従って、進言を行い、楚は鉅陽を去って東の寿春を都とし、郢と命名した。
春申君は封地の呉で相として政治を行った。
一方、合従軍を打ち破った秦は魏の朝歌と衛の濮陽を取った。
これを受けて、衛の元君は支属(宗族)を率いて濮陽から野王(地名)に遷った。野王は魏の河内で山険に守られている地域である。
紀元前240年
その頃、秦の将軍・蒙驁が病に倒れた。それを受けて多くの諸将が彼の元に訪れた。
「皆、わざわざこの老骨のためよく来てくれた」
蒙驁は集まった諸将を見ながらそう言った。
「私の命はもう僅かであることは確かだ。最後に合従軍との戦いで大将軍を担えたことは私の誇りだ」
諸将を彼らは見回す。
「私は斉の人間で、己の才覚を信じて仕官を求めて諸国を放浪して、秦に来た」
彼は笑う。
「最初は息子の方が覚えがよく、私は不遇であった」
蒙驁は目を細める。
「そんな時であった。あの方に会ったのは……」
白馬に乗り、天下という大地を駆け巡った男・白起の姿を思い出す。
「あの方の副将に任じられ、大変なことが多かった」
白起の無茶ぶりにどれほど苦労したことか。
「それでも、あの頃は楽しかったものだ」
白起に従い、天下を駆け巡り、その下で共に育った者たちと共に戦った。
「なあそうだろう。王齕、胡傷、張若、麃公、摎、そして……」
彼は張唐を見る。張唐は頷く。
「張唐、本当に楽しかったものだな」
「ああ、そうだな」
あれほど輝いていた時代はなかっただろう。
「本当に、あの方と共に戦を駆け巡り、大変ではあった。苦悩することもあった。それでも、必死に食らいついていた」
蒙驁は目を一旦、閉じる。
「だからこそ、まさかあの方が死に、同胞たちも次々と先に逝き、私がここまで生き残るとは思っていなかった。そして、大将軍という最も高位に登るなども思っていなかった」
諸将の中から涙を流す者たちが出てくる。その中に王翦がいた。無表情ではあるがその目からは涙が溢れている。
「お前でも涙は流すのだな」
王翦を見て蒙驁はふっと笑った。それが最後の言葉であった。
蒙驁。その将器は先の白起に及ばず、後の王翦を超えなかった。されど秦の困難において最も成果を出し、秦を守り抜き、多くの将兵に慕われたことにおいて、二将は彼に及ばず。
蒙驁が世を去った後、秦はまるで彼の冥土への手土産とばかりに趙の龍、孤、慶都(または「麃都」)を攻め、更に兵を還して魏の汲を攻めて攻略した。
趙はこれを受けて傅抵を将にし、平邑に駐軍させ、慶舍を東陽河外の軍を率いさせて河梁(黄河の橋)を守らせた。
紀元前239年
韓の桓恵王が死に、子の韓王・安が立った。韓の最後の王である。
魏は秦への侵攻に対する動きとして、趙に鄴を譲った。その動きに対して、秦王・政は趙への侵攻を行うことにした。その際に政の弟にあたる長安君・成蟜が名乗りを上げたため、彼に軍を率いさせて、趙を攻撃することにした。しかし、その途中、彼は突然、反旗を翻した。
この急報を受け、政は王賁を大将に李信、蒙恬をつけて鎮圧させることにした。
王賁はこの任命に奮起した。
(合従軍との戦いでの汚名を挽回する機会を王は下さったのだ)
因みに尉繚がそのような意図があったのかと政に尋ねると彼はこう答えている。
「これで失敗するのであれば、処罰するだけだ」
政の真意はどうあれ王賁は一気呵成に成蟜が篭る屯留を攻め立て、あっという間に城内へ侵入した。もはやこれまでとして成蟜は壁塁の中で自決して果てた。
王賁より、勝報が届くと政は成蟜の軍吏を全て捕らえて処刑するように命じ、屯留の民を臨洮に遷すように指示を出した。
その命令に従い、王賁は屯留と共に反旗を翻した蒲鶮(または「蒲鶡」)も鎮圧、これら二邑において成蟜に従った士卒の全ての死体に誅戮の刑が加えられた。
また、成蟜が合従軍との戦いにおいて政に刺客を送った証拠も出てきたため、成蟜の家族、三族全てが処刑された。
更に政は自分に従わない公子らの処罰も一気に行った。
そのような粛清が行われている中、呂不韋はある書物を完成させた。その書物の名を『呂氏春秋』と言い、またの名を『呂覧』とも言う。
戦国四君と呼ばれた人たちは皆、士にへりくだって賓客を大切にし、食客を集めて上下を競っていた。
呂不韋もまた、広く士を集めて厚遇し、三千人の食客が集めた。
当時、荀卿を始めてとした諸侯の辯士たちの多くが文書を書いて天下に公開していた。そこで呂不韋も食客の見聞を書き記し、編集して八覽、六論、十二紀の二十六巻にまとめるようになり、二十余万字に及ぶ大作として『呂氏春秋』は完成したのである。
その内容は天地万物から古今の事に及び、儒家・道家を始め諸学派の説を取り入れ、易学、陰陽、五行、養生、軍事、政治、音楽、天文、気象、農業、地理等、多岐にわたった。多くの思想や考えが入っているとしてこの書物は雑家の書物と呼ばれる。
『呂氏春秋』が完成すると、呂不韋はそれを秦の都・咸陽の市門に掲示し、上に千金を掲げて、
「諸侯の游士や賓客で一文字でも書き加えたり削ったりできる者がいれば、私はその者に千金を与えるだろう」
と宣言した。
ここから「一字千金」という成語が生まれた。「非常に優れた文章」を形容する時に使われる言葉である。
そのような書物を完成させた呂不韋であったが、実のところ不満であった。なぜなら成蟜の乱があまりにもあっさりとしてしまい、愛しい人の感情や表情を変えることができなかったためである。
(それに最近、私の方をあまり見なくなった)
前は憎しみの目を込めて見てきたにも関わらず、愛しい人は自分のことをあまり見てくれない。
「是非とも振り向いて下さらなければ」
己の素晴らしき終幕のためにもと思いながら彼は次の政を苦しめるものを実行させ始めた。
その動きをついに尉繚は掴んだ。
「これで呂不韋を出し抜ける」
そう思い、彼は政に話し、呂不韋を出し抜くための相談を行おうとしたが、
「興味ない」
政はそう言って呂不韋について聞こうとしなかった。
「どういうことだ?」
尉繚は首をかしげていると、
「どうされました?」
旃が話しかけてきた。
「呂不韋が動き始めたことを伝えようとしたのだが、王が聞こうとしない」
「そうでしたか。恐らく政様は……」
尉繚の言葉を聞き、旃はこう答えた。
「呂不韋が怖くなくなったのです」
「怖くなくなった」
「そうです。政様は呂不韋のことが怖くないのです。だから呂不韋が何をしても怖くはないと思っているのだと思います」
それは危険だ。そう考えるのが尉繚である。
「思わないところで足をすくわれることになる」
「尉繚様がそう思っているのであれば、大丈夫だと政様は思っているのだと思います」
「そうは言ってもな」
彼は頭を抱える。
「政様は、それがあるべき姿であると思っておいでなのです」
「どういうことだそれは?」
尉繚はその言葉に意味を測り兼ねると旃は頭を下げてから彼から離れていった。
(政様は決して恨みを忘れない方。でも、その晴らした方を変えようとされているように思える)
旃は一人そう思う。
「政様は……呂不韋にどのような恨みの晴らしたかをするのでしょうか……」
今まで呂不韋への敵意をむきだしている時よりも今の政の方が不気味に感じるのはなぜだろうか。そんなことを考えながら彼は政の部屋に入っていった。




