打たれた奇手
大変遅くなりました。
「そうか……」
尉繚は旃からの書簡を読んで呟いた。
書簡の内容は二つあった。一つは政へ刺客による暗殺未遂事件が起きたというもの。
(問題は誰の手によるものかということだが……)
彼が真っ先に頭に浮かんだのは呂不韋であると考えたが、この状況で政を殺してしまうことが果たして彼の利益となるのかと考えるとどうだろうか?
(ここで王を殺して自分が王位に着くなどという馬鹿げたことは考えないだろう)
そんなことをして人心をつかむことなどできようがない。
(では、別の王子を立てるということを考えたとするとその王子の地位の維持に困るであろう)
どちらにしても呂不韋に利益が無いように思える。
(それならば考えられるのは王子たちによるもの)
これも自分の王位の保証がうまくいくかという問題が出てくる。では合従軍によるものかと言えば、違うように思える。
(私だったらここの将軍を暗殺する)
それによってここ函谷関を突破する確率を上げるだろう。
さて、書簡の二つ目の内容は、政による粛清の嵐が起きたことについてである。
政は宮中への賊の侵入を許したためとして、王宮の守備を任されている兵と宦官たちの粛清、混乱が起きた際に国家運営の事務処理を怠ったとして一部文官の粛清及び解雇が行われた。
人材が枯渇すると反対するものも多かったが政は文官の粛清で生じる事務処理の問題を自ら行い、それを補った。
「こんな簡単なこともできないのか。そんなものは私には必要ない」
と言って残った文官の一部が粛清された。
思わずため息がこぼれる。
(このような状況で何をやっているのか)
しかし、どことなく今の政のあり方に疑問を覚えつつも尉繚はもう一つの書簡を見る。桓騎の策の提案である。
「寿陵城の城主に楚軍への降伏を行うことを認める旨を伝え、降伏して楚軍を城の中に入ったところを火をつけて城ごと燃やす」
というような策の内容で、尉繚は却下した。
理由は城を燃やすために罪の無い民衆が犠牲になるためである。
「手段を選ばぬ過ぎるというのも問題なものだ」
そう呟いた瞬間、函谷関が震えた。
「始まったか……」
合従軍、韓、魏、燕による函谷関の攻略が始まったのである。
韓の旗がはためく本陣にて、一人の老将が函谷関を眺める。
男の名は開地という。
彼は元々韓では宰相を勤めていた男であり、ほとんど武功がないまま無難な政治を行ってきた文官であった。そんな彼がこのような一大決戦に出向くことになったのは初陣による武功を評価されたためのものである。
そう初陣をした時、彼が王齕を討ち取った功績が高く評価されたのである。
(あれは運によるものだ)
そうたまたま相手がこちらを警戒していなかった。相手の間者がこちらの奇襲を気付かなかった。そういった偶然の結果に過ぎないと開地は考えている。
同時に彼は悲しかった。
(それほどに我が国には人材がいない)
韓は今ある国々の中でもっとも弱い。そのため人材も少ないのである。
(悲しいことだ)
しかし、だからといって彼は秦に負けるつもりなどなかった。彼は勝たなければならない。
(孫が生まれた)
そう最近のことである。息子の開平の息子が生まれたのである。可愛い孫である。その孫に自国が滅びる瞬間など見せるわけにはいかないのである。
「さあ諸君、韓の弱国という汚名をそそぐ時ぞ」
兵たちは彼の言葉に応と答える。韓に久しぶりの勝利をもたらした自国の英雄を、そう例えこの程度のものを英雄と言うのかと笑われようとも自国の英雄に勝利を捧げるのだ。
一斉に兵は函谷関に向かって駆け出していく。
その時、函谷関の大きな門が開いた。
「門が開く……」
開地は門が開く様を眺めながらそこから出てきた秦軍を注視する。秦の旗がはためかす中、王という文字が書かれた旗がはためいていた。
「なぜ、自分を副将にしたのですか?」
章邯が王翦に訪ねたことがあった。
「必要だと思ったからだ」
王翦はただそう答えるだけでその他のことは何も言おうとしなかった。
(まだ、副将に任じて下さった理由はわからない)
章邯は目の前の門が開くのを待ちながら思う。
(王翦将軍は自ら合従軍への先鋒を乞うた)
普段の王翦からはあまり無い要望であったが、蒙驁はこれに同意した。
「王翦将軍はいつも行う戦は、敵とは守りの戦を行って、疲れた相手を叩くというものであったはず……」
ますますわからなくなっていくのを感じながらも章邯は門が開くのを見た。
「私は私の職務を行うだけであろう」
腹に力を入れ、ふっと息を吐いて馬を駆けさせた。
函谷関から飛び出した秦軍は真っ先に攻城兵器を中心に襲った。
「攻城兵器を壊させるな」
それを受け、韓、魏、燕軍のそれぞれの大将はそれを防ぐべく、兵を動かしていく。
今回の王翦の率いる兵はほとんどが騎兵によって構成されている。普段はそのようなことをしない王翦としては珍しい。
王翦は韓の攻城兵器を襲い、韓軍が対応しようとするとすぐに離脱、魏軍を同じように襲い同じように対応されそうになると、離脱。そのまま燕軍に襲い掛かり、対応する動きが見えたところで直様離脱、韓軍へとを繰り返した。
この素早い動きを可能としているのは章邯の手腕によるものである。これが彼を副将に採用したところである。
その素早い動きに対して韓軍の大将・開地は、
「我が軍があの秦軍に相対し、相手するのを引き受けることにしよう」
と言って、目の前の函谷関への攻撃を魏、燕軍に任せ、韓軍は王翦に軍に対応することにした。
「そう来ると思っていた」
予想通りの動きだと思った王翦は弓兵に指示を出す。その兵は矢を上に向かって放った。
「よし、合図が来たな。門を開けよ」
蒙驁はそれを見て一気に叫んだ。それを持って門が開き、蒙武と張唐の軍が門から合従軍へと襲いかかった。
「しまった」
開地は舌打ちをする。
王翦の騎兵隊はこちらの連携の隙を見せるための囮だったのである。
「どうする。魏と燕を助けにいくべきか。それともこのまま王翦の軍を抑えるべきか」
彼に迷いが生じる。その隙に王翦は一気に彼の軍へと襲いかかった。
「こうなってはこっちに集中しなければならないか」
開地は王翦との戦いに集中することにした。
「強いな」
馬をかけさせながら王翦は呟く。
「さて、次は右後方に行く」
彼は淡々と相手の隙へと突撃を行う。それに開地はなんとか対応しようとする。
「判断は悪くない。ただ……」
韓軍の兵たちが秦軍の騎兵に吹き飛ばされていく。
「韓兵は弱すぎる」
王翦は剣を構える老将軍に向かって矛を突き出す。老将軍はそれを防ぐ。
「貴公が開地殿か?」
「如何にも」
王翦の問いかけに開地は答える。
「そうとわかれば良い」
王翦は馬を切り返しながら開地を襲う。
「名ぐらい名乗らんか」
開地は剣で防いでいく。
「将軍を守れ」
韓兵が開地を守らんとする動き、王翦の動きを遮る。
その瞬間、別方向から章邯が馬と共に開地へ向かっていき、矛を振るう。開地はそれを防ぐが、章邯は反動を利用してその剣を弾く。
(ああ、若いな)
この状況の中、開地はそんなことを考えた。
章邯はとても若い。孫も成長すれば彼のような立派な偉丈夫となるのだろうか。章邯は開地に向かって矛を突き出し、そのままその胸を貫いた。
(ああ、すまない)
『お祖父様、帰ってきたらまた、勉学を見て下さい』
『ああ良いとも』
(すまないなあ。良……)
開地は矛が貫かれ、絶命した。
その姿を見て、王翦は、
(まあ仇ぐらいと取れたな)
目を細めてから兵に向かって次の指示を出した。
「報告します」
そこに伝令が駆け寄ってきた。
「趙軍がここにもうすぐ到着するとのこと。よって退却を命じられました」
「承知した」
王翦は退却を指示した。彼だけでなく、蒙武と張唐も退却を行った。
一方、趙軍の到着を受け、尉繚は趙軍の兵数などを間者に探らせていた。そして報告を受けていた。
「どう考えても兵数が合わないな」
多少の誤差は良いとしても明らかにおかしな誤差が混じっていた。
「それと明らかに可笑しい点が一つある。これは確かか?」
「はい、左様でございます」
尉繚は書簡を叩きつけた。
「趙軍の総大将・龐煖が趙軍にいないとはどういうことだ」
険しい道を歩く一軍があった。その一軍はここに至るまでにいくつかの山を超えて歩いていた。やがて険しい山をまた一つ登り、下に邑があるのが見えた。
「やっと秦の邑が見えたか」
趙軍の総大将・龐煖は邑・蕞を見据えながら呟いた。
合従軍の最大の奇策が打たれようとしていた。




