暗闘の後
遅くなりました。
政が剣を持って始めて人を斬り殺したのを見て、彼自身に大きな変化があったことを誰よりも先に理解したのは旃であった。
(政様に迷いが消えた)
それは同時に政自身が持っている何かを捨てたことを意味する。
(悲しいことだと思うべきなのか)
しかし、人は何かを捨てながら成長していくものである。ならば、彼の成長を喜ぶべきではないだろうか。
「それが私のできること」
旃は盗跖の剣を弾く。
「流石ね」
盗跖はその瞬間、右足のつま先に仕込んであった針を出し、旃の足に向かって突き出し刺した。
「でも、まだ甘いわ」
そう言うと直様、右足の針を彼の足から抜くと頬に向かって突き出す。それを間一髪で避ける旃であったが、それで手を止めるような女ではない盗跖は更に蹴りを繰り出す。
切り傷が李信のように増えていった旃であったが、どうすれば盗跖に勝てるのかを考え続ける。
(正直、難しい)
盗跖は女でありながらその華麗な武勇は常人のものではなく、何より速い。その速さを模倣の天才であると言えた旃と言えども真似できない。
「くそ」
舌打ちしながらも盗跖の攻撃から耐えていく。
一方、剣を手に取って政が前に出てしまったため、李信としては先ほどまでの戦いがしづらくなった。
「王よ。お下がりください。これでは御身に傷が付きかねません」
しかし、政は剣を手にとったまま旃の方へ歩き出す。
「王よ。お聞きください」
「それがお前の仕事だ」
政はそう言って聞き入れない。そのため李信は淡々と歩く政を守るためはらはらしながら戦う羽目になった。
近づいてくる政に旃はぎょっとする。
(なんでこっちにわざわざ近づいてくるのか?)
そのため彼は政と盗跖の距離を開けようとするが、盗跖によって邪魔され、政はどんどん近づいてくる。
「ふっふふふ。馬鹿な王だこと」
わざわざ命を狙う存在に近づいてくるなんて馬鹿ではないかと思う盗跖が政を横目で見た時、政は笑った。
「馬鹿めが」
その言葉を聞いた盗跖は政の方へ視線を完全に向けた。それは致命的であった。相手がどこにもいるような相手であったのであれば、彼女の一瞬の隙は何も問題ではなかったはずであった。そう相手が旃でなければである。
一瞬の隙が生じた瞬間、旃の剣が彼女の喉を一閃した。盗跖は血が吹き出す喉を抑えながら倒れこむ。彼女の部下たちはその姿に動揺し始める。
「ふん、無様な女だ」
政はそう言うと盗跖の頭を踏みつけた。
それを見た部下たちが襲いかかるが李信と旃が防ぎに周り同時に後ろから宦官たちが剣を持って駆けつけてきた。
「王をお守りするのだ」
後宮の守護者でもある宦官は剣を身に付け、武勇の心得が案外ある。
彼らにも襲われた盗跖の部下たちを切り殺していく。そのため彼らはついに逃走するようになっていった。
「王様、ご無事ですか」
宦官の一人、趙高が政に駆け寄る。その瞬間、政は彼を殴りつけた。倒れ込んだ趙高が若干、笑みを浮かべると政は下に向かって指を指した。
「椅子が欲しい」
要約すればお前が椅子になれということである。屈辱というべき行為である。しかし、趙高はそそくさと政の前に行くと両手両足をつける。それに政は腰かける。そのまま足を組む。
「そこの女の皮を剥ぎ取り、その後焼け」
そう命じた後、政は李信を見る。
「お前の此度の功績を大いに称えよう」
「はっ勿体無きお言葉でございます」
その態度に政は頷く。
「ところで貴様は警備兵の一人であったが、お前だけが来て他の者たちが来なかったのはなぜだ?」
「はっ警備隊長が何者かに殺されて、命令系統に混乱がもたらされたためであると考えます」
李信は緊張しながらそう述べた。
「よろしい。では、貴様以外の警備兵を処刑とする」
「流石にそれは……」
「私にあれらは要らない」
政はその言葉に李信は冷や汗が流れる。
「承知しました」
政という一個人を救ったことで己は命を拾った。運命を分ける瞬間は小さなことである。
「さて、あとはこいつらを差し向けた者の特定を行え良いな」
椅子となってほくそ笑んでいる趙高に文官どもへそう指示を出すように命じた。
「私の名の元に全てを一つに統一しなければならない」
政はそう呟いた。
瞬く間に裏の社会に盗跖の死が広まった。
さて、盗跖一派は頭を抱えた。突然の盗跖の死によって彼女の後を継ぐのは誰にするのかを考えたのである。
四代目・盗跖はまだ生きてはいたが、もはや病床の人間であった。そんな彼があとを継ぐ者として上げたのは六代目の息子である。儒教などといった学問を学んだという変わり種の人物でもある。
「母が死んで自分をですか……」
彼はそう呟いた。その彼の手は真っ赤である。母と共に秦王・政の暗殺を図り、生き残った者たちの血である。
「正直、自身がございません」
己の手についた血を吹きながら彼はそう述べる。
「だが、お前以外にふさわしいものがいないのだ」
「私としては彼を推薦したいのですが」
その言葉に四代目は首を振る。
「あれはならぬ。あれを頭に据えれば余計な混乱をもたらすことになる」
「残念ですね。一番、腕が良いのに」
こうして七代目・盗跖は六代目の息子とされた。
そんな彼が推薦した人物の名を荊軻という。後に歴史上においての流れ星となる人物である。




