楚の悼王
魏は秦との戦の後、秦からの侵攻に警戒したが、秦は魏への侵攻を行うことはなかった。ここまで何度も呉起によって苦渋を舐めさせられているだけに魏と戦うのは不利であると考えた。
そこで秦は蜀の南鄭に攻め込み、これを占領するなど一旦、矛先を変えることにした。
その結果、警戒するほどではないと考えた魏の武公は遊びとして、呉起と共に舟に乗って西河を下った。河の中腹で武公が呉起に言った。
「この山河による堅固な守りは実に素晴らしい。まさに魏の宝と言えよう」
しかし呉起は顔を顰めて言った。
「大切なのは徳であって、険(険阻な地形)ではございません。昔、三苗氏の左には洞庭があり、右には彭蠡がありましたが(どちらも大きな湖)、徳義を治めなかったために禹王(夏王朝最初の王)によって滅ぼされることになりました。夏の桀王(夏王朝最後の王)が住んでいた場所(安邑)は、左に河・済(黄河と済水)があり、右に泰・華(泰山と華山)があり、南には伊闕、北には羊腸(羊腸阪)がありましたが、政を治めず不仁であったために、湯王(商王朝最初の王)に放逐されることになりました。商の紂王(商王朝最後の王)の国(朝歌)は、左に孟門があり、右に太行(太行山)があり、北には常山があり、大河(黄河)が南を流れておりましたが、政を治めず不徳であったために、武王(西周)に殺されることになりました。このように観れば、大切ですのは、徳であり、険ではないことが分かります。主公がもし徳を修めなければ、舟中の人が全て敵国の人になることでしょう」
武公は納得して、
「その通りだ」
と言ったものの、内心では呉起の存在は疎ましくなっていった。しかしながら彼は魏の軍事を担う人材であり、魏に何度も勝利をもたらしてきた実績がある。
されどその実績も彼にとってはどうにも煩わしかった。
呉起は軍事に集中できるのは、内政において何ら問題が起きず、呉起のことも信頼してくれるためである。しかし、そんな信頼してくれる宰相であった田文が世を去った。
次の宰相に呉起がなるだろうというのが魏の人々の考えであったが、実際に宰相となったのは、公叔という男であった。
皆、誰と首を傾げた。田文との対話で宰相に選ばれなかったことにそこまで不満を持たなかった呉起とて、あまり納得できない人事であった。
公叔は韓の公族であった一人であったが、だいぶ遠縁であったため魏に移り住んだ人物である。そんな他国の公族であった公叔を武公は大変、気に入ってやがて自分の娘である公主(国君の娘)を娶らせるほどであった。
さて、この公叔という男、実際のところ遠縁とはいえ、韓の公族であり、韓とは密かに連絡を取っていた。彼の目的は魏に入り、魏で一番の戦上手である呉起と武公の間を引き裂くことであった。
武公の近くにいて、どうやら武公は呉起のことをあまりよく思っていないことは直ぐに感じた。しかし、彼の才覚と実績故に排斥することができないでいる。そのため後ひと押しすれば、目的は達成させることができるだろうと彼は考えた。
すると公叔の僕が進言した。
「呉起を除くのは容易なことです。彼は剛勁自喜(剛直で自信があること)な人物でございます。あなた様はまず国君に『呉起は賢人ではございますが、主公の国は小さいため、恐らくここに留まる気はないでしょうか。試しに公主を嫁がせるべきです。もし彼が留まるつもりがなければ必ず辞退することでしょう』と話してください。それから彼を連れて家に帰り、公主にあなたを辱めさせれば、呉起は公主があなた様を軽視している様子を見て必ずや公主との婚姻を辞退されましょう。これであなたの計は成功することができましょう」
公叔はこれに従い、実行した。
後日、武公が呉起に公主を娶らせようとした。その前日に呉起は公叔の家で公主の傲慢な姿を目の当たりにしたため、婚姻を辞退した。
これによって武公は呉起を疑うようになり、排除しようという動きが見え始めた。
そのことを呉起は直ぐに知ることができた。そもそも彼は兵たちや下級の者たちには慕われており、そのことを知らせる者がいたのである。
「ああ、なんと愚かなことか」
自分が魏を離れるということは、魏を守る盾を失うことに等しい。例え、自分が失脚しても魏に自分の後任となる男がいるかと言えば、いないであろう。そのことを魏の上層部は考えているのだろうか。
「楽羊ならば、任せられるのだが……」
唯一自分の後を任せられると思った男は中山の更に辺境の地で世を去っている。
「だが、こうなっては仕方ない」
彼は魏を離れることにした。
「山河よ。汝がいつまでも魏の盾となれば良いのだが……」
だが、結局は人の徳や器量で国というのは守るものである。自然は自然でしかない。
「墨子がいなければ、楚を攻めた時、あの城は取れた。それが事実であり、真理だ」
呉起は魏を去った。
「魏から呉起が去った」
そのことをいち早く楚の悼王は知った。
彼は歴代の楚王に比べると先進的な部分があり、他国との対話にも積極的な人物であった。そのために彼は呉起が魏を去ったことをいち早く知ることができたのである。
「今、あの男がいるはずだあの男を呉起の元へ」
悼王はちょうど楚に来ていた淳于髠に呉起を招く使者として向かわせた。
「楚王が私を招くというのか」
呉起は驚きながらそう言った。
「ええ、わざわざ私にあなた様を迎えに行かせるように命じられました」
「しかし、私は楚とも度々戦うことが多かった。楚の大臣たちは良い顔をされないでしょう」
呉起は何度も楚とは戦い、城を取り、兵を殺した。そんな人物を招いたところで受け入れられるだろうか。
「まあ、良い顔をされない方が多いのは事実でしょうなあ。事実、他国の人間である私を使者として派遣するぐらいですから」
因みに私は斉出身ですと彼は言いながら言った。
「しかし、あなた様を求める気持ちも私は派遣したことで証明されているとは思いませんか?」
「どういうことだ」
「楚という国は他国の人材を受け入れる受け皿というものが大変、小さいです」
楚は王中心の国で、王の権力が強いのは良いが、人材の乏しさと排外主義的な部分がある。
「しかしながら楚王は他国の人間である私を使者として他国の人間であるあなた様をお招こうとされている。つまりは楚王自ら他国の優秀な人材を求め、国を変えようという意思があるということの証明ではございませんか?」
確かに墨子があの時、楚を守るために戦ったのも以前の楚では、あり得なかったはずである。
「確かに……良し楚に行こうとしよう」
呉起は楚に行くことを決断した。
悼王は呉起が来ると喜び、彼を大いにもてなした。
「あなたの賢才はかねがね聞いており、とてもお会いできる時を楽しみにしておりました」
「魏を離れた私をお招き頂き感謝致します」
呉起は悼王が心の底から自分を迎え入れてくれたのだと感じた。
「ところであなたは楚という国をどう思いますか?」
「どうとは?」
「国としてのあり方です」
呉起は少し考える素振りをした後、言った。
「正直に申しても?」
「もちろん構いません」
悼王の言葉に呉起は頷き言った。
「先ずは将としてお話します。楚という国とは何度も刃を交えたことがあり、楚の兵の勇猛果敢さは嫌でも理解することができました。あのような兵を率いることができれば将としては訓練するのも楽しいことでしょう」
彼は先ず、楚の兵の強さを褒めた。
「しかしがら楚の兵がこれほど勇猛果敢でありながら私はそれよりも弱いであろう魏の兵で打ち勝ってきました。それは兵を率いる将の差と言えます」
「あなたのような名将は中々いない」
悼王が正直にそう言うのを呉起は苦笑しながら言った。
「私とて名将であるという自負しておりますが、私が楚軍と戦った時に感じたのはあまりにも動きが正直過ぎるところです。そのためどう兵を動かすのかがわかりやすいのです」
呉起はそこまで言って次の話題に映った。
「次に国を治める者としてお話させていただきます。楚の政治においては国を治める長である楚王の権力が強く、王の意思をそのまま国の意思に反映させやすいところにございます」
他国では国君の権力が縮小し、それを取り戻すための改革を行わなければならなかったにも関わらず、楚や秦はそれをしなくとも国君の権力は強いままである。
「しかしながら楚の政治では法令があまりにもあやふやなものが多く、不必要な官まであります。また、楚は南に開拓されていない土地が多く広がっているにも関わらず、そこを治める人が少なすぎます」
呉起は言う。
「楚という国の軍事も内政においても無駄な部分が多すぎるのです」
「なるほど、理解した。呉起殿、お願いがある」
悼王は言った。
「それには国を大きく変える改革が必要となる。その改革をあなたに担っていただきたい」
「私は他国の人間です」
「他国の者だからこそこの改革を行うことができるのだ。私が改革を認めれば、皆、従うだろう。どうか宰相となってもらいたい」
(宰相……)
魏では一度もなることのなかった最高位の地位である。
「承知しました。あなた様の元、必ずや楚を強国にしてみせましょう」
「感謝する」
こうして呉起は宰相に任命された。
さっそく呉起は法令を明確にし、不急の官(必要ない官員)を削減し、王族でも王と関係が疏遠な者なら官爵を廃した。
それによって浮いた資金を元に戦闘の士を養い、楚の軍事改革を行うことで、元々強かった楚の兵を更に強兵に変えた。
当然、反対意見もたくさん出たが、それらを呉起は尽く論破していき、改革を断行した。
そして、南の未改革の地域を開拓しながら優秀な人材に割り振った。
また、他国に戦争を仕掛ければ、呉起の指揮の元、連戦連勝した。ちょうどこの時、他国で代替わりしていったことも楚には好都合であった。
秦では恵公が死に、子の出公が立ち、趙では武公が死に、太子であった敬公が立ち、韓では烈公が死に、子の文公が立った。
そのため楚の武威は天下に轟くことになった。
しかし呉起の改革によって官爵を失った楚の貴戚(貴族・王族)や大臣の多くが呉起を怨むようになっていった。