その男、敵味方を振り回す者なり
楊端和は趙軍の追撃を喰らいながらも壊滅的打撃を喰らわずにじりじりと後退しながら遅延行為を行っていた。
「自身の大将を失った割には冷静な戦をしていますね」
李牧は予想外の粘り強さに舌を巻いた。
(元々の策通りならば、奇襲によるこちらの合従軍への参加の阻止であったはず……それにしても冷静な指揮を取っているものですね。優秀な副将……)
「報告します」
そこに伝令が駆け込んできた。
「狼が我が軍の兵士に襲い掛かっており、そこで動揺しているところに奇襲を受けました」
「狼?」
奇襲を受けた事実より、狼が突然襲いかかった事実に李牧は驚いた。
「ううん。私の可愛い狼ちゃんたち。よくできました」
奇襲を行った羌瘣は自分で連れてきた狼たちを撫で回す。
「私を大将に昇格……」
羌瘣から届けられた命令書を読んで楊端和は呟く。
「しかしそれほどに矢を受けていてよく生きていますね」
そう楊端和はまるで針山の如き状況となっていた。
「自分は寒がりですので鎧と兜は着込むようにしているのです」
「そうですか。そのおかげで命拾いしているのであれば良いことですね」
羌瘣は微笑むと趙兵を餌として食らった愛犬ならぬ愛狼たちを撫で回す。
「取り敢えず、私が大将で汝がその副将ということで良いだろうか?」
「ええ、そうです」
「では、尉繚殿の命令通り、時間稼ぎといくとしよう」
楊端和はそう述べた。
趙軍に襲いかかる狼たちはあまりにも神出鬼没であるためか趙軍は対応に追われた。
その対応に追われるとその隙を突いて楊端和の軍を襲いかかる。それを対応すると楊端和は早々に逃走を行う。それを繰り返していた。
(狼は秦軍によるものですね。あまりにも統率が整えすぎる)
「しかし、これでは相手の時間稼ぎに付き合わされてしまっていますね」
(それにしても相手の策は当初の予定とは違うはず、それにも関わらず、策を行う手段が無理と判断したら別の手段で策の続行を行う。判断が速いと言えますが、付き合わされる方はたまったものではないと言えましょう)
策の内容の切り替えを凄まじい速さで判断し、決断を行っている。速すぎて現場は混乱するはずである。
「文句を言わせないほどに権力を握っている人物による策でしょうか?」
王賁は楚の項燕の騎兵隊によって何度も突撃を受けてしまい、彼の兵たちは大きく傷つきながら逃走を続けていた。
そんな彼らの救援に桓騎が行うことになっていたが、彼は……
「さあお前たちさっさと掘れよ」
兵たちに穴掘りをさせていた。
その穴掘りがしばらく続け、穴ができあがるとその穴の上に頑丈な板を敷いてその上から更に茶色の布を乗せた。前方からボロボロとなっていた王賁らがやって来た。
「おおいこっちだ。早くしろよ」
桓騎らの姿を見て王賁らはほっとしながら彼らの元に逃げ込んでいく。
(そろそろだな)
「さて、お前たちこいつらと共に後退していくぞ。良いな」
まだ王賁の兵たちが逃れゆく中、桓騎はじりじりと後退し始めていく。すると王賁の兵を追いかけてきた楚軍がやって来た。
やがて王賁の兵の一部と楚軍の騎兵隊が穴に乗った時、穴の上の板が壊れそのまま彼らは穴の中に落ちていった。そしてその穴の底には油があった。
「さあ、火矢を射掛けよ」
穴へ向かって桓騎の兵によって火矢が射掛けられた。
「待ってください。まだ、我々の兵が」
王賁がそう言うと桓騎が言った。
「だから?」
「ですから火矢を放つのを」
「それは命令に含まれていないな」
桓騎は王賁の言葉を無視して続けるように兵へ指示する。
「俺が受けた命令は楚軍への時間稼ぎを行うようにすることであってお前たちの兵の保護までは命令に含まれていない」
王賁は驚く。
「だからと言って」
「命令は絶対だ」
桓騎は兵へ次の指示を出す。
「さあ、退くぞ。相手を散々に翻弄しなければならないからな」
彼はにやりと笑った。
「趙軍の方は楊端和将軍の実直さと羌瘣将軍の奇っ怪さによって時間稼ぎを、楚軍の方は桓騎将軍による搦手により、時間稼ぎを行えていることでしょう」
尉繚は王翦と共に函谷関の中を歩いていた。
「策通りに進んでいるということですな」
「ええそうです。因みにですが、あなたの御子息は真面目っ子で、経験不足ですので桓騎将軍の下としました」
彼の言葉に王翦は言った。
「わざわざ言う必要はありますかな?」
「御子息のことでお怒りかと思いましてね」
「お気になさらずとも結構」
王翦は相変わらずの無表情でそう答えた。
「まあそれに御子息の教育的にも桓騎将軍の元にいるのも悪くないですしね」
「不必要に影響され、己の糧とできないのであればそれまでです」
彼の言葉に尉繚は肩をすくませる。
「いやあ、小言の一つや二つぐらい言われると思っていましたが、蒙武殿あたりならば嫌っていることもあって言ってきますので」
すると王翦は立ち止まった。
「私もあなたのことは嫌いですので、それでは私は兵の様子を見るためここで失礼する」
そのまま彼は立ち去っていった。
「すっかり嫌われてしまったものだ。まあ大人な会話できるだけまだ良いがね」
尉繚の策の実行方法は現場の人間の意思を尊重したものではない。なぜなら彼の策は無理と判断した手段はすぐに切り捨てて、別の手段による策の実行を図るというものであり、これに付き合わされる現場は苦労すると言って良いだろう。
彼は自分の策のあり方が現場の反感を買いやすいことは誰よりも理解していた。では、彼は信陵君や平原君の元にいても彼らに助言の類などは行わなかったにも関わらず、政に仕え、秦には己の策を行うのか。それは政の器量を見込んだと同時に自分の策を行う上で重要なものを満たしていると判断したためである。
それは権力である。強い権力、その後ろ盾を元に策を行うことで現場の反感を買ったとしても黙らせ、実行に移すことができる。
(やれやれ強い権力がなければ発揮できないというのは難儀なものだ)
尉繚は函谷関の上に出てきて外を眺める。韓、魏、燕の旗がはためくのが見える。
「さて、ここから勝たなければな」
彼は笑った。
その同時刻、宮中にて宦官が歩いていると突然、手が伸び彼を引き込んでそのまま彼の首を切りつけた。
「さて、仕事の開始と致しましょう」
盗跖はそう言って笑う。秦王・政の元に魔の手が伸びようとしていた。