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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第一章 戦国開幕
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黄金期

 紀元前389年


 昨年、秦は楚と和を結ぶと同時に魏へ侵攻を仕掛けたが呉起ごき率いる魏軍に完敗を喫した。しかし、一度の敗北で侵攻をやめるような秦軍ではなく、この年、秦は魏の河西にある陰晋を侵した。今回は大軍で流石に誇張が過ぎると思われるが、その数は五十万であったという。

 

 秦がここを攻めた頃から約三年前、魏の武公ぶこうが呉起に問うたことがあった。


「刑が厳しく賞が明らかになれば、戦って勝つことができるだろうか?」

 

 呉起はこう答えた。


「厳明の事については、私は詳しく知りません。しかしながらそれらだけに頼ってはならないことは確かです。号令を発せれば、人々が喜んでそれを聞き、軍を興して衆を動かせれば、人々が喜んで戦い、兵を交えて刃を接すれば、人々が喜んで死ぬ(死力を尽くす)、この三者こそ、人主が頼りとするべきことです」

 

「そのようにするのはどうすれば良いのか?」

 

 武公がそう聞くと彼は答えた。


「功がある者を選び、宴を開いてもてなし、功がない者を励ますべきです」

 

 さっそく武公は廟廷(宗廟の庭)に宴席を設け、三列に分けて士大夫をもてなした。上功の者が前列に座り、餚席(肉、魚等を使った酒席)には重器(貴重な食器)と上牢(豚・牛・羊)が具えられた。次功の者は中列に座り、餚席に使う食器の等級が落とされ、功がない者は後列に座り、餚席には重器がなかった

 

 宴が終わると、廟門の外で功がある者の父母や妻子に賞賜が与えられ、功績の内容によって賞賜にも差があるようにした。

 

 国事のために死んだ者の家族には、毎年使者を送ってその父母を慰労し、賞賜を与えて忘れていないことを示した。

 

 このようにして三年が経ったこの年、秦人が兵を興して河西に侵攻した。

 

 それを聞いた魏の士卒は吏令(官吏の命令)を待つことなく、自ら甲冑を着て戦いに駆けつけた。その数は万人を越えるほどであった。

 

 武公は呉起を招いて言った。


「汝が以前、教えてくれたことを実行した結果である」

 

「人には短所と長所があるものであり、士気には盛衰があると申します。功がない者五万人を発して私に率いさせてください。もし勝てなければ、諸侯の笑い者となり、天下において権威を失うことになりましょう。しかし負けることはありません。例えば、一人の死賊(死罪に値する賊)が曠野に隠れているとしましょう。千人がそれを追いかけたとしても、皆が梟視狼顧(警戒して慎重に動くこと)します。なぜなら、賊が突然現れて自分が害されることを恐れるためです。たった一人でも、命をかければ、千夫を懼れさせることができるのです。私は五万の衆を一人の死賊と同じようにしました(五万人は命をかけることができます)。これを率いて討てば対抗できる者はおりません」

 

 武公はこれに同意し、呉起に車五百乗、騎馬三千頭を率いさせた。

 

 戦いの前日、呉起が三軍(全軍)に命じた。


「諸吏士は命に従って敵と戦い、車騎や徒(歩兵)を駆けさせよ。もし車が敵の車を得ることができず、騎が敵の騎を得ることができず、徒が敵の徒を得ることができなければ、軍を破ったとしても功を立てたとはみなさない」

 

 この呉起の宣言のおかげで、戦いの日はほとんど軍令を出すことはなかったが、兵たちは必死になって戦い、その結果、呉起は五十万の秦軍を破ってみせた。


 その戦場から帰還すると彼はある知らせを知った。


「そうか墨翟ぼくてきが世を去ったか」


 墨家の始祖であった墨翟が世を去った。


 非攻を主張し、この世から戦の無くそうとした男は篭城戦において一度も城を落とされることはなかった。


「難攻不落の名に恥じない男だった。何せこの私が唯一、落とすことができなかったからな」


 呉起はあくまで将として彼の死を惜しんだ。







 そんな風に戦で功績を挙げる彼が魏の宰相になる機会が訪れた。


 呉起は自分ならば、確実に宰相になるだろうと思っていたが、そうはならず、田文でんぶんが宰相に任命された。

 

 これに不満だった呉起が田文に言った。


「あなたと論功(功績を較べること)させてください」


「構いませんよ」

 

 田文が同意したため、彼は言った。


「三軍の将となり、士卒を喜んで死に向かわせ、敵国に謀をさせないという点において、あなたと私を較べれば、どちらが上でしょうか?」

 

 田文は、


「私はあなたに及びません」


 と答えた。呉起は続けて言った。


「百官を治め、万民を親しませ、府庫を充実させるという点において、あなたと私を較べれば、どちらが上でしょうか?」

 

 田文はまたしても、


「私はあなたに及びません」


 と答えた。呉起は更に問うた。


「西河を守って秦兵の東進をあきらめさせ、韓、趙を従わせたという点において、あなたと私を較べればどちらが上でしょうか?」

 

 これも田文は、


「私はあなたに及びません」


 と答えるのみであった。

 

 そこで呉起は、


「この三者においてあなたは全て私の下であるにも関わらず、位が私の上にいるのは何故でしょうか」


 と言った。すると田文はこう言った。


「主公はまだ若く、国に疑心が多いために大臣はまだ心服せず、百姓も信用していません。このような時、国をあなたに委ねるべきでしょうか。私に委ねるべきでしょうか」


 遠まわしに武公は呉起への感情に不信があるというのを彼は伝えたのである。

 

 呉起は暫く黙ってから、


「あなたに委ねるべきだ」


 と言った。

 

 







 

 斉の田和でんわが諸侯になるため、度々魏、楚、衛へ使者を出し、自ら諸侯に立つために協力を求めた。

 

 特に魏の武公との交渉に力を入れ、最近、諸侯の間で有名になりつつあった淳于髠じゅんうこんも使い、何とか交渉に成功した。


 その結果、武公は田和のために周王や各国の諸侯に働きかけ、周王は田和の封侯に同意した。


 その詳しい話を行うため、田和は魏の武公、楚人、衛人と濁沢で会見した。

 

 実際に田和が諸侯に封じられるのは、紀元前386年のことであるが、そこで田和は必要以上に武公に感謝をした。


 そのためか少しばかり武公は自惚れ始めた。


 紀元前387年


 秦は五十万の大軍が魏に破れたため、国内はボロボロであろうと考えた武公は秦に侵攻した。しかしながらこの侵攻に呉起が反対したため、彼は後軍を率いるように命じられ、魏の本隊は武公自ら軍を率いた。


 しかしながら秦は攻めて負けることはあっても攻められて破れることが少ない国である。


 秦の将・識を中心に防衛戦を演じ、秦は魏を武下で破ってみせた。呉起が魏の本隊に合流したのは、ちょうどその時であった。


 呉起は武公を逃がしながら殿を買って出た。そして、突出した秦の将・識を討ち取ってみせた。


 これによって魏は敗戦ではあったものの、敵将を討ち取ったことに大いに喜んだ。







「すごいねぇ」


 この戦を見ていた者たちがいた。荘周そうしゅうと青い牛に乗った老人である。


「負け戦だったというのに、湧いておるわ」


 老人としてはこんな戦よりも荘周に道教の奥義を仕込みたいのだが、荘周が戦を見たいと聞かなかった。


「負け戦を勝利に変える。すごいことだよ」


「確かにな。戦のことなんぞわからんが、すごいことなんじゃろう。しかし戦のことなど知りたくもないがの」


 老人がそう言うのを聞きながら荘周は問うた。


「こんな風なことができるのならば、戦の技というのは学ぶに値するのではありませんか?」


「荘周や。覚えておくと良い。戦において負け戦を勝ち戦に変えてしまうような男というのは、大抵ろくな目に遭わん。例え、天涯を全うしたとしても志や子孫が苦労することになる。それが戦の業というものじゃよ」


「戦の業……」


(呉起も、その業に飲み込まれるのだろうか……)


「天は人には見えない天秤を持っている。その天秤に世の中は釣り合わせるようにできているのじゃよ」


 魏という国は呉起という戦の天才によって、連戦連勝をしてきた国に襲った敗北を呉起は勝利に変えてしまった。その付けはどこかで払うことになる。


 魏の黄金期に僅かだが、傷がついた。その傷は決して大きなものではない。しかしながら確かにその傷はついたのである。


 どんな固いものでも一つの傷から壊れていくものである。それが魏ではないとは限らないだろう……







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