燕と趙の戦い
紀元前251年
趙にいる間の政の立場は平原君によって表向き、立場は保証されていたが、生活は苦しいものであった。
時に趙にいる悪餓鬼たちが彼の屋敷に石を投げ入れられることもあった。
「平原君は病に倒れてからそう言うことが多くなったな」
投げられた石を首を傾けて避ける尉繚はそう言った。
「ああそうだな。平原君の目が光らなくなってからはこの様だ」
政は石が投げられても特に動揺しなかった。
「まあ趙は長平の戦いでの怨みがあるからな。その秦の人質となれば、そんなものだ」
「ふん、石を投げてきたやつは皆殺しにする。それだけだ」
「わあ、怖いですね」
政の言葉に隣に座っている旃がそう言った。
それから数日後、平原君の使者がやって来た。内容は以下の通りである。
「秦への帰国を許す」
母・趙姫と共にそのことを聞いた政が尉繚に目配せする。尉繚は頷き、使者が帰った後、政に言った。
「秦王が死んだのであろう」
事実である。秋、秦の昭襄王が世を去り、子の柱が即位した。これを秦の孝文王という。
孝文王は母・唐八子を追尊して唐太后にした。八子は秦の女官名で、追尊というのは死者に対して尊称を贈ることである。
昭襄王は唐太后と合葬された。
これにより子楚(異人)が太子になったため、平原君は秦との関係のため子楚の妻子を秦に帰国させることにしたのである。それが彼の遺言となり、平原君は世を去った。
「ついに秦へか」
政は複雑な心境のまま秦に行くことになった。国境沿いになると尉繚から韓王が衰絰(喪服)で秦に入り、祠(宗祠)で昭襄王を弔う姿を見た。諸侯も皆、将相を派遣して祠で弔問し、喪事に参加したことが伝えられた。
「秦の力はこれほどに大きいものになっている。あなたはいずれここの王になる」
尉繚は政にそう言った。そして、即位した孝文王は罪人を釈放し、先王の功臣を重用し、親戚を厚遇して親しみ、苑囿の制限を解いて善政に励んでいる話しをした。
「ある意味、順当な滑り出しをしたというべきであろう」
政は無言である。
「だが、続くことを願うか、それとも別のことを願うか。どう思いますかな」
「それで頷いたとしてお前はどうする?」
「さあ」
政の問いかけに尉繚は肩をすくませるだけであった。
燕王・喜が趙と友好を結ぼうとして、五百金を使って趙の孝成王を酒宴に招く準備をし、栗腹を宰相に任命して趙に派遣した。
しかし栗腹は帰国してから燕王。喜にこう報告した。
「趙王の壮者は全て長平で死に、その孤児達もまだ成長していません。好機です」
気をよくした燕王・喜は昌国君・楽間(楽毅の子)を招いて相談した。
楽間が言った。
「趙は四戦の国(四方を強敵に囲まれた戦争が多い国という意味)であるため、その民は戦に慣れています。攻撃するべきではありません」
燕王・喜が言った。
「私は衆(多勢)によって寡(無勢)を撃つつもりである。我が国の二人が趙の一人を相手にすればいいだろう」
「いけません」
「五人が一人を相手にすればいいだろう」
しかし、楽間は出兵に反対する。
燕王・喜が激怒したため、群臣は怒りを収めるため出兵に賛成した。
こうして二軍が編成され、車二千乗が動員されることになった。
栗腹が鄗を攻め、卿秦(卿が姓。または姓名を「爰秦」といい、卿は官名という説もある)が代を攻めた。
大夫・将渠(将が姓。または将は官名)が燕王・喜に進言した。
「趙と関を通じて交りを約束し、五百金を使って人の王を酒宴に招こうとしたにも関わらず、使者が戻って報告すれば、逆に攻め入るとは不祥なことです。軍が功を立てることはできないでしょう」
燕王・喜は諫言を聞かず、自ら偏軍(一軍)を率いて出発した。
将渠はあきらめず、燕王・喜の綬(印璽の紐)を引いて、
「王は行ってはなりません。行っても功を成すことはできません」
と言ったが、燕王・喜は足で蹴って離した。将渠は泣きながら、
「私は自分のためにこうするのではありません。王のためにこうするのです」
燕軍が宋子(地名)に至りました。
趙は廉頗と楽乗(楽毅の族人)をそれぞれ将軍にし、廉頗は栗腹を鄗で破り、彼を戦死させて、楽乗は卿秦を代で破った。
楽間はこの状況になって、趙に奔った。
廉頗は燕軍を五百余里追撃して燕都・薊を包囲した。
燕人が講和を求めると、趙は、
「将渠に講和を主宰させろ」
と要求したため燕王・喜は将渠を宰相にして趙と和を結んだ。
それによって趙軍は包囲を解いて兵を還した。
翌年、紀元前250年
喪が開け、正式に孝文王が即位したが、その三日後に世を去った。
こうして即位したのは子楚である。これを秦の荘襄王という。
「ついに私が王に……」
辛かった人質生活から、呂不韋との出会いによって国君となることができた。
「あなたのおかげだ」
彼は呂不韋の手を取って、泣いて喜んだ。
「いいえ、お構いなく」
呂不韋はにやりと笑った。
「ありゃ、先越されましたかな」
尉繚はそう言った。
「お前がやったわけではないのか」
政はそんな彼を横目で見ながらそう言った。
「ええ、やっていませんよ。ただ先君の死が誰かの手によるものであることは確かかと」
「そうか……」
政はその後は無言のまま彼から離れ、自室に戻った。
「で、何人ぐらい始末した?」
尉繚は旃に聞いた。
「二、三人ぐらいですね」
「そうか。思ったよりも少ない」
「ただ、警戒している間、ずっと視線を感じました。こちらの様子を伺っているような」
「そうかい。やあ我が主は大変だ」
尉繚はそう言って苦笑した。
「同じ相手からでしょうか?」
「いや、我らの主様を狙っている連中と、その様子を伺っていたというやつは違うだろう。全く、政様はとんでもないやつに目を付けられているようだ。やれやれとんだ主を持ったかもしれんな」
彼はそうため息をついた。
「ご報告します。政様……太子を狙った刺客は大方始末しました。一部は政様と共に来られた者によって始末されておりましたが……」
「そうか。ご苦労、下がって良い」
黒ずくめの男は頭を下げて、消えた。
「愛しい人に近づく者がいることは遺憾だが、優秀なのは良いことだ」
呂不韋は笑う。
「全ては愛しき人のため、良き終幕のためだ」
闇の中、彼の笑い声が響いた。




