片鱗
その頃、邯鄲のある大きな屋敷。平原君の屋敷は活気があった。有名な芸者集団が平原君に招かれて宴の席で芸を披露していた。それを見ていた男の一人は尉繚である。
(おうおう、盛況なことだ)
そう思いながら酒を飲んでいると、芸を披露している芸者集団の長である女が近づいてきた。そして、彼にお酌した。
「どうでしょう。楽しんでおりますか?」
「ええ、とても楽しんでおりますよ。大層稼がれるのでしょうなあ」
「皆様のおかげですわあ」
女は大いに笑う。それを見ながら尉繚は皮肉そうな表情を浮かべる。
(大胆な女だ)
尉繚は酒を再び飲み始める。
(流石は盗跖(六代目)か)
そうこの芸者集団、実は盗跖の一派である。
かつては四代目の盗跖が率いていた盗賊集団であったが、その彼が左手を失ったこともあり、斉での動乱の後、引退を宣言して、副首領であった男を五代目・盗跖として跡を継がせた。しかし、彼はこの集団での地位を磐石にしようと引退した四代目を排除しようとした。するとその五代目の娘が彼の首を掻っ切って四代目に献上した。
その娘が今の六代目・盗跖である。そして、六代目・盗跖は芸者集団の振りをして貴族に芸を披露し、宴で招かれると屋敷の中を偵察し、盗みを働くというやり方を最近、行うようになった。
(今回はここというわけだ)
そのことをわざわざ指摘しようとは尉繚としては思わない。自身の身に危険を及ぶとなれば、対応をするかもしれないが、六代目の盗跖は必要以上の殺生は控えるという話しであり、平原君にそこまでの忠義はない。こういうところが、彼が無名であるという理由の一つであろう。
ふと、宴の席を横目で見ると宴をつまらなそうに見つめる二人がいた。一人は趙姫、そして政である。
平原君は公子・異人という秦との交渉を手札を失った後、二人の立場をある程度、保証した。
(まあ、秦との外交の手札を油断して失ったようなものであるし、下手にやれば秦を怒らせかねない)
ある意味、呂不韋は公子・異人と共に秦に逃れたことで政の身の保証を約束させたとも言えるかもしれない。
そんな二人の前で、政と同じぐらいの子供が立った。そして、芸者集団と同じように踊りをする。やがて子供は政に近づいた。すると政は、
「死ね」
と言った。
(相変わらず、口の悪い子だ)
碌な教育を受けていないのだろうと、尉繚が思っているとそう言われた子供は突然、吐血した。
宴の参加者たちはぎょっとした表情を浮かべる。平原君、尉繚、趙姫、政も同じように驚く。驚かないのは芸者集団たちのみである。
子供はそのまま倒れこむ。
「おい、あんたのところの餓鬼が倒れたぞ」
尉繚はお酌していた盗跖に言う。
「おほほほ、心配なさらず」
彼女は笑うと子供の方を見て、言った。
「お客様のお願いは聞いたでしょう?」
すると子供は起き上がってきた。盗跖は子供に近づく。
「皆様、この子は私どもの劇団第一の物まね上手です。如何でしょうか」
宴の席のものたちは真に迫っていたと子供の演技を讃えた。
(物まね……そんなものではないだろうあれは……)
明らかに倒れ込んだ際の目は死人の目であった。そして、吐血した際に出てきた血も偽物ではなく、それも自分のものである。
(そんな概念のものには見えなかったが……)
子供は政ににっこりと笑い、頭を下げた。そして、芸者集団も同じようにし、宴の席を後にした。
その時、尉繚はさっきまでの子供よりも政の方を見た。政は子供に対して、きらきらとした目を向けていたのである。
(ああいう目もするのか)
少し微笑ましいことだ。口の悪ささえなければ、と思いながら彼も宴の席から立つことにした。すると政が自分を見つけて、そのまま近づいていき、服を引っ張った。
「なんだ、小さな天とやら」
皮肉交じりにそう言うと政はさっきの子供を指して、
「あれが欲しい」
と言った。
「それならあそこの連中に言いな。あの子供は私の所有物ではないからな」
尉繚はそう言って立ち去ろうとしたが、政が服を引っ張る。
「あなたがあれを手に入れる上でも最も相応しい」
政の口からそのような言葉が出てきた。そして、彼はそのまま拝礼を行った。それを見た尉繚はさっきまでの礼儀知らずな子供という印象ではなく、もっと別の印象を持った。
(欲しいもののためならば、目的のためならば、なんでもやる)
目の前の子供にそのような印象を彼は持った。
「もしやり遂げてくれるのであれば、私はあなたを殺さない」
政はそう呟いた。
(子供に寒気を覚えることがあるとは……)
今のは子供の冗談ではない、脅しであると尉繚は感じた。こんな子供に殺される。そんなことは思わない。だが、一度だけ思ってしまった。
(こいつは今、言ったことを成そうとする。それもどんな手を使ってでもだ)
尉繚はふっと笑い。
「良かろう、取ってきてやろう」
「感謝する」
政は拝礼を続けた。
(今のこの礼儀でも、なんでも目的のためならば、やるか。まあそんなやつに使われるというのもまあ、悪くない)
尉繚は命じられた内容を吟味しながら交渉の手順を組み立て始めた。
約束通り、尉繚は動いた。彼は盗跖の元に訪れると自分が盗跖のことを知っていることを話した。そして、平原君の食客であるから、告げ口してこれから行おうとている盗みをできなくしてやると言った。
盗跖によって殺されかねないことを言っているが、彼は続けてある人が先ほどの宴で評判になった子供を欲しがっている。もしその子供を譲ってくれるのであれば、告げ口をしないことを伝えた。
「そんなことが信じられると?」
「信じてもらう必要はない。いや信じるべきではない。なぜならば、私の後をつけている者がいる」
その言葉に盗跖は眉をひそめて手下に確認を指示を出した。すると確かに尉繚が自分たちの元に訪れてからこちらを見ている者がいた。
「殺しますか?」
手下がそう言ったが盗跖は首を振った。
ここで問題はなぜ、目の前の男がつけられているのかである。一つ考えられるのは自分たちのことを既に平原君に伝えており、尉繚が殺すとそれを証拠に踏み込んで来るつもりであるというもの。
(この男はそれほどの忠義心を持っている?)
いやそのような手を平原君が自分たちを捕らえる上で使うだろうか。
「いやあ、私は食客の中では嫌われておりましてね」
尉繚はそのように言った。
(この男が自分たちと繋がっていると思っているための監視)
男の言葉を信じるのであればそういうことも考えられる。
(どれが本当で、嘘なのか)
どちらにしても目の前の男をこの場で殺すのも監視をしているらしき男を殺すのも難しい。
(大胆かつ慎重……今の盗跖の評判だ。さて、どうする)
「それで欲しがっている方というのはどういう方かしら」
「秦の王子だ」
正確に言えば、まだ政は王子とは言えないがそのことは敢えて言わなかった。そのことは盗跖も理解した。
「いいでしょう。あの子を連れて行きなさい」
「悪いな」
「どの口が……あの子は特別なの。とてもね」
その言葉を聞き流しながら尉繚は子供を連れて行った。そして、政の元に連れて行くと政は喜び、子供にあれをやってみよなど様々なことを命じて子供はその度に答えて、演技や歌、踊りなどを披露した。
政はきゃっきゃと笑う。
「そう言えば、お前の名は聞いていなかったな。なんと言うんだ?」
「旃」
子供はそう答えた。後世においては優旃と表記される人物である。優とは当時の芸人、俳優という意味がある。
「お前は宴で吐血してから死んだふりをしたが、あれはどのようにやったのだ?」
「あれは吐血した後に死んだ方の真似をしただけです」
旃はそのように答えた。
(そんな概念のものではなかったが……)
尉繚は首をかしげながら部屋から出た。この時の彼は知らなかったが、後に彼は旃をある策に用いることになるのだが、それは少し先のお話……