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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第六章 決定的一撃

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虞卿

 長平の戦いによる大勝利は宰相である范睢はんしょのおかげであると思い、更に親しみを覚えている秦の昭襄王しょうじょうおうは彼のために仇を討ちたいと思っていた。


 一臣下のためにここまで考える彼の范睢への絶大の信頼を感じるがそのために政治を道具にしているとも言える。


 昭襄王は范睢の仇である魏斉ぎせい平原君へいげんくんの家に隠れたと知ると平原君に書を送りつけた。


 その書の内容は以下のとおりである。


「私は君の高義を聞き、君と布衣の友(国君の地位とは関係ない庶民のような友)の交わりを結びたいと思っている。幸いにも君が私を訪ねてくれるというのならば、私は君と十日間の酒宴を開くだろう」


 平原君はこの時、長平の戦いの敗戦によって宰相職を辞職していたが、それでも趙の重臣である。趙がズタボロになってしまった軍の立て直しが至急に問題である以上、秦との戦いは避けたい。


 そのため平原君は秦に入ることにした。


「よくぞ来てくれた」


 昭襄王は平原君を快く迎え入れ、数日にわたって酒を共に飲んだ。


 彼は平原君に言った。


「昔、周の文王ぶんおう呂尚りょしょうを得て太公とし、斉の桓公かんこう管夷吾かんいごを得て仲父とした。今、范睢も私の叔父というべき方であり、その叔父の仇があなたの家にいる。人を使ってその頭を取ってきてもらいたい。それができないようならば、私はあなたを関から出すことはないぞ」


 まさか一臣下のためにこのような手を使ってくるとは思っていなかった平原君であったが、


(助けを求めた者を無下にするわけにはいかない)


 平原君は言った。


「貴い位に登ろうとも卑賎だった頃の友と交わるのは、卑賎だった頃を忘れないためです。富を得ようともも貧困だった頃の友と交わるのは、貧困だった頃を忘れないためです。魏斉は私の友です。たとえ家にいたとしても渡せません。私の家にいないのですから、なおさら渡すことはできません」


「愚かなことだ」


 昭襄王はそう呟くと酒を飲んだ。


 平原君への直接の交渉が無理と見ると、趙に書を送ってこう伝えた。


「今、平原君は秦におり、我が国の宰相の仇である魏斉は平原君の家にいる。王は速やかに使者に命じてその頭を送ってこい。もし拒否するようならば、兵を挙げて趙を討つだろう。また、王の弟が関から出ることもない」


 この書に驚き、恐れた趙の孝成王こうせいおうは士卒を送って平原君の家を包囲した。


 その包囲を受ける前に危急を知った魏斉は夜の間に逃走し、現在の趙の宰相・虞卿ぐけいに会い、孝成王の説得を願った。


「王の説得は難しいでしょう」


 虞卿は趙王を説得できないと判断すると、彼は宰相の印綬を返上して魏斉と共に逃走した。自分の得た高位を簡単に手放したこの男の侠は凄まじいものがある。もしくはそこまでしてでも魏斉を助けようと思うほどに魏斉に良い面があったかということかもしれない。秦に対抗するという意味での動きとは思えない。


 二人は間道を通って奔ったが、二人を受け入れる諸国はなく、魏都・大梁に入った。


「信陵君を通じて、楚に逃れましょう」


 虞卿は信陵君を通じて楚に行くことにして、魏斉を連れて信陵君の元を訪れた。


「虞卿が魏斉を連れてきた?」


「あの傲慢なやつを?」


 信陵君は家臣からの報告を受けて眉をひそめた。


 彼は現在、疎まれている立場であった。また、魏斉のことは昔から知っており、前々から傲慢なやつだと思っていた。


(あいつは好きではないし)


(ここで下手に関わると秦と魏の戦いを招くかもしれない)


 魏斉個人への嫌悪感と外交的に考えて、彼はここで決断をせず、魏斉を連れてきたという虞卿という人物に興味を覚えた。


「虞卿とはどういう人物だ」


 と、信陵君は周りの者に問うた。


 すると食客の一人である侯嬴こうえいが言った。


「他人はなかなか自分を理解してくれないものですが、自分が他人を理解するというのも難しいものですなあ」


「先生、それはどういうことでしょう」


 信陵君がそう言うと侯嬴は答えた。


「虞卿という人物は、もともと貧困で躡屩檐簦(草鞋を履いて笠をかぶること)という姿で、諸国を巡っておりました。しかし、一度、趙王に謁見すれば、白璧一双と黄金百鎰を賜り、二度謁見すると上卿となり、三度謁見すると宰相の印を与えられ、万戸侯に封じられました。天下は彼が何者かを争って知ろうとしました」


 ありえないような出世を持って栄光を掴んだ人である。


「そんな彼に魏斉が助けを求めますと、虞卿は自らの尊貴な爵位も俸禄も重視せず、相印を解き、万戸侯を棄てて、魏斉と共に逃走しました。その彼が今、公子(信陵君)を頼っております。ところが公子は『虞卿とはどのような人物だ』と問われました。ですから他人はなかなか自分を理解してくれないものですが、自分が他人を理解するのも難しいものだと私は申したのです」


「そのような人であったか」


 自分の地位を助けを求めた者のためにあっさりと投げ出してまで助けようとする。信陵君はそんな彼のためならば、助けようと思って、郊外まで迎えに行った。


「魏斉殿はどこぞにおられる?」


 しかし、郊外には虞卿しかいなかった。


「気づいた時にはおりませんでした」


「そうですか……」


 その頃、魏斉は信陵君が会うのを渋っていると知って、野原を歩いていた。


「何が天下に名高い信陵君か。どれほどの名声を持っていようとも、結局は自分の身が可愛いだけだ」


 と、憤慨して彼は自剄した。


 その後、その遺体は信陵君と虞卿は見つけた。


「彼の遺体は私が回収します、これ以上、あなた様にも魏にも迷惑はかけれませんので」


 虞卿は頭を下げて、魏斉の遺体を趙へ運んでいった。


「他人を知るのは難しいか」


「自分が嫌になる」


 信陵君は天を仰いだ。


 魏斉の遺体が趙に戻ると孝成王は首を斬って、秦に送った。秦はやっと平原君を釈放した。


 これでほっとした趙であったが、それから数ヵ月後、秦の五大夫・王陵おうりょうが兵を率いて趙の都・邯鄲に向けて侵攻した。


「秦め。まさに虎狼の国だな」


 平原君は、辺境へ送られている廉頗れんぱを呼び戻すことを願い、許可された。


 一方、秦はこの時、本来派遣されるはずであった白起はくきが病と称して参加しなかった。


 邯鄲を中心、数多の者たちの思惑が絡み合っていく。



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