誕生
紀元前259年
四十万坑殺。
長平の戦いにおける凄まじい結果に天下は驚いた。
「困ったな」
この結果を聞いた呂不韋は(りょふい)はそう呟いた。
今、公子・異人の価値を高めている段階であり、秦への交渉材料としての価値を高めることで趙での安全を保証しようとしており、この結果によって趙は異人を早々に使おうとするだろう。
(まだ、売り時ではない)
呂不韋はそう考えている。
しかし、現状、趙は追い込まれている。
長平の戦いの後、秦の武安君・白起が軍を三つに分け、一軍を率いる王齕が趙の武安と皮牢を攻めて攻略し、司馬梗が北に向かって太原を平定し、上党の地が全て秦の支配下に入り、白起は今まさにここ趙の都・邯鄲に目指して侵攻を行っているという。
凄まじい結果を出した白起相手に勝てるとは思っていないであろう趙は外交で解決しようとするだろう。
(さて、どうしたものだな)
ここまで敗戦によって追い込まれている趙側で考えてきた。
(ここは思考のあり方を変えるとしよう)
今度は勝者となった秦側で考え始めた。この凄まじい結果によって秦は勝者となったことに喜んでいるのだろうか。それは否であろう。天下は白起の凄まじさに驚嘆しているように秦でも白起への凄まじさに驚嘆していることだろう。
(いや、もっと言えばこの結果をやり過ぎだと考えるのではないか)
特に宰相の范睢はそう思うのではないか。確かにこの勝利は秦が時代の勝者であることを決定づけたことだろう。しかし、この結果に恐怖した諸国の抵抗は更に激しさを増すと秦の政治と戦略を担っている范睢は思うのではないか。
また、この戦果に対する白起へあげる褒美も難しい。もしかしたら宰相のこの地位さえも揺らぐのではないか。
そのような思いは必ず過るだろう。しかし、それを表に出すことはない。四十万坑殺を天下の反感を買うと考えるだろう。人は見たいものしか見ない。自分の悪意を正当化できる大義名分があれば、人はそれに流れるものだ。
(これで行くか)
「応侯(范睢)を説得させることができる人物というものはこの天下で誰がいるか?」
と考え、自分の養っている食客たちに情報を集めさせると、
「魏に蘇代、韓に蘇厲がいるのか」
朗報というべきであった。あの天下に名高い弁士の兄弟がいるのである。
「魏と韓の宮中の大臣を買収して、彼等を動かさせろ」
こうして呂不韋が密かに手を回し、二人は交渉のため秦に入った。
「蘇兄弟が来たか」
范睢は二人に会った。
先ず、蘇厲が口を開いた。
「武安君は邯鄲を囲むつもりでしょうか?」
「そうだ」
すると蘇代が言った。
「趙が滅べば、秦王が天下の王となり、武安君は三公の地位に至ることでしょう。武安君は秦のために戦って勝利し、七十余城を取り、南は鄢・郢と漢中を定め、北は趙括の軍を擒とし、周公・召公・呂望の功も武安君には及ばないでしょう。しかしながら趙が亡び、秦王が天下の王となり、武安君が三公になった時、あなた様はその下にいることができるでしょうか?」
続けて蘇厲が言った。
「あなた様が下になりたくないと思っても、そうせざるを得ないでしょう。秦はかつて韓を攻めて邢丘を囲み(本当は魏)、上党を苦しめました。しかし上党の民は皆、趙に帰順しました。天下が秦の民になることを喜ばなくなって久しくなっております。今、趙を亡ぼしても北地の民は燕に入り、東地の民は斉に入り、南地の民は韓・魏に入りますので、あなた様が得る民はほとんどいません。あなたは戦いをやめて韓と趙に領土を割譲させるべきです。武安君一人の功にすることはないのではないでしょうか?」
「わかった」
范睢は納得して秦の昭襄王に言った。
「秦兵は既に疲労しております、韓と趙に領地を割譲させて講和を許し、士卒を休ませるべきでしょう」
「いいだろう」
秦王は同意し、韓が垣雍を、趙が六城を譲ったら講和することを許可した。
「兵を退けと言われるのですか」
白起を始め、諸将は秦本国の決定に驚いた。
「邯鄲はもはや目の前、趙を滅ぼすことも夢ではないのですよ」
「これほどの好機がまた訪れるまでどれほどの時間がかかるのか」
諸将は抗議の声を上げる中、白起は静かだった。
「宰相は……主上のご意志を理解されていなかったのか……」
こうして秦は各軍が兵を退いた。
しかし、白起と范睢の間で深い溝が生まれることになった。
韓が秦の要請により、垣雍を差し出した中、趙の孝成王は趙郝(または「趙赦」)を秦に派遣して六県を割譲しようとした。
これに虞卿が反対した。
「秦が王を攻められましたが、疲労したから兵を還したのでしょうか。それともまだ余力があって攻撃を続けることができたにも関わらず、王を愛したために攻撃を止めたのでしょうか?」
「秦に余力はない。疲労したから還ったのだろう」
虞卿はこの答えにそう言った。
「秦はその力を使って得ることができない場所を攻め、疲労して帰りました。それにも関わらず、王は秦の力では取ることができない領土を贈ろうとされております。これは秦を助けて自分を攻撃することと同じです。来年も秦が王を攻めにくれば、王を救うものはないでしょう」
孝成王はこれを聞いて、躊躇し始めた。
やがて、かつて秦の宰相を務めたことのある楼緩が来て孝成王に言った。
「虞卿は一を知っていますが二を知らないといましょう。秦と趙が対立を続ければ、天下が喜びます。なぜなら、各国は『強国を利用して弱国に乗じよう』と考えているためです。趙は地を割いて講和すれば、天下は趙に秦の援けがあると疑い、隙に乗じようとは思わなくなりましょう。故に秦を安心させるべきです。そうしなければ、天下は秦の怒りを利用し、趙の疲れに乗じて、趙の地を瓜分(分割)することでしょう。趙が亡べば、秦への対処方法を語ることもできなくなります」
楼緩の言葉を聞いた虞卿は再び孝成王に会って言った。
「彼の計は危険です。趙と秦が講和すれば、天下が趙と親しまなくなり、秦を安心させることはできません。なぜ彼は『天下に趙の弱体をさらすことになる』と言わないのでしょうか。私は領土を与えるなと言いましたが、絶対に与えてはならないというのではありません。秦は王に六城を要求しました。王はこの六城を斉に贈るべきです。斉と秦には深讎がございます」
深讎というのは、『資治通鑑』に注釈を行った胡三省によると斉は宣王と湣王以来、楚と親しくして秦を敵国としており、かつて孟嘗君も諸侯を率いて秦を討伐し、函谷関に至った件のことである。
「王の言に従うのは当然のことでしょう。こうすれば、王は斉に対して領地を失うものの、秦の地を取って補い、天下に趙の能力を示すことができます。王がこの策を宣言すれば、兵が国境を窺う前に秦が自ら重賂を趙に贈って講和を求めましょう。秦の講和に同意すれば、それを聞いた韓・魏が必ず王を重んじます。こうして王は一挙によって三国と親を結び、秦の道を変えることができるのです」
これは斉、韓、魏との関係を結ばせる策である。
孝成王はこれに同意し、虞卿を東に送り、斉と共に秦に対抗する策が練られた。
これを受けて、虞卿が趙に帰る前に秦の使者が趙に到着した。趙に講和を求めるためである。
それを知った楼緩は逃走した。孝成王は虞卿に一城を封じた。
雷鳴が轟く。
そんな夜に一人の男が産まれた。
その名を政という。後の秦の始皇帝である。
産まれたばかりの政を抱え、彼の母である趙姫は呂不韋の元を訪れた。
そして、呂不韋にこう言い放った。
「この子はあんたの子よ」
彼女の言葉に呂不韋はほうと言った。
「本当かどうか見てみるとしよう。近づけて見せろ」
彼の言葉に趙姫は眉を潜める。自分の子だと言えば、動揺すると思ったからである。しかし、呂不韋からすれば、それはそれで悲劇的で素晴らしいとしか思わない。
そうして彼は赤子である政を見た。その時、赤子の目が見開かれ、呂不韋を見た。
その時は呂不韋は胸の高鳴りを覚えた。
(なんという目か)
政の目は冷たい漆黒を思わせる目であった。
(ああ、実にゾクゾクするではないか)
その目に寒気を覚えながら、彼は胸を高鳴らせる。
彼は気づいたのだ。自分を破滅させるのはこの赤子だと。最初は、悲劇の女と言って良い。趙姫によってもたらされるのだと思っていた。しかし、それは違うのだ。この赤子によって自分は破滅するのだ。
(私の子だと趙姫は言ったな)
そんな確証も何もないことに彼は興味はない。だが、そのことをこの子に伝えれば、どうなるだろうか。この冷たい目で更に自分を睨むのだろうか。そう想像した時、なんと甘美な響きであろうかと思った。
(これではまるで……始めて恋を知る初な乙女のようではないか)
呂不韋は今、この政に凄まじいほどの愛情が湧き上がるのを感じる。この愛しき人のためにありとあらゆるものを与えたいと思うほどに、
(私はこの愛しい者に、全てを与えたい。愛を、憎しみを、苦難を、喜びを、富を、名誉を、地位を、国を、この天下を、あなたに私は全てを与えたい)
全てを与え続け、そのありあまる愛情を注ぎ、その愛情を注いだこの愛しき人の手によって、破滅する。
(ああ、なんと胸が高鳴ることか。なんと、甘美なことだろうか)
湧き上がるほどの感情を抑えきれないまま、呂不韋は政を見る。
(私は愛しいあなたのために全てを与えましょう。そして、凄まじき憎しみを、破滅を、この私に下さい。そのために私はあなたの最上の援助者となり、そして、最上の敵となりましょう)
「趙姫よ」
「何よ」
「前、お前のことを品物と言ってしまったことを訂正させてくれ」
そう言うと呂不韋は趙姫を抱きしめる。趙姫は最初は驚いたが、抱きしめられ頬を染める。
「お前は私の最高の人だよ」
「呂不韋様」
趙姫は頬を赤らめ、彼に身を預ける。
(そうだ。趙姫。君は最高の人だ。私の愛しい人の母として……愛しい人の傍に居続けてくれ)
彼女の傍にいれば、愛しき人は更に私を憎むはずだ。
(ですから……)
愛しき人よ。どうかお願いです。私に素晴らしき破滅をお与えください。
呂不韋。最も始皇帝を愛し、憎まれることを望んだ男。




