上党
本日二話目
紀元前263年
秦の武安君・白起が韓を攻めて南陽を取り、太行道を攻めて交通を遮断した頃、楚の頃襄王が重病にかかった。
当時、楚の太子と春申君が人質として秦におり、頃襄王の死期を悟った春申君は范睢に言った。
「楚王の病は恐らく治ることはないと思われます。秦は太子を帰らせるべきです。太子が即位できれば、太子は秦を尊重して仕え、相国に対しても無窮の徳をもたらすことでしょう。秦は與国(同盟国)と親しくして、儲(跡継ぎ)による万乗(大国)の援けを得ることができるのです。太子は帰国しなければ咸陽の布衣(平民)に過ぎません。楚が他の者を国君に立ててしまえば、秦に仕えることがなくなり、秦は與国を失って万乗との和を絶つことになるのです。これは良計ではありません」
范睢が昭襄王に伝えると、彼はこう言った。
「太子の傅(教育官)を先に送り、病状を確認させてこれが戻ってから改めて考えることにしよう」
それを知った春申君は太子に言った。
「秦が太子を留めるのは利を求めたいが故です。しかしながら今の太子の力では秦に利をもたらすことができません。しかも陽文君の二人の子(詳細不明)が楚国内にいます。もし王が大命を卒し(命を落とし)、国内に太子がいなければ、陽文君の子が跡を継ぐことになりますので、太子は宗廟を奉じることができません。秦から逃げて使者と共に国を出るべきです。私が残って死をもって対応しましょう」
太子は楚の使者の御者に姿を変えて関を出た。
春申君は館舍を守り、訪問者が来ても太子は病にかかったと称して帰らせた。
(もう良かろう)
春申君は太子が遠くまで去った頃を見計らって昭襄王に言った。
「楚の太子は既に帰国され、遠くに去っております。私に死を与えてください」
昭襄王は怒って春申君を殺そうとしたが、范睢が止めた。
「彼は人臣として身をもって主を助けました。太子が即位すれば必ずや彼を重用することでしょう。罪を問わず帰国させて楚と親を結ぶべきです」
「良かろう」
昭襄王はこれに従い、春申君は帰国した。その三ヶ月後の秋に頃襄王は死に、太子・完(「太子・熊元」)が即位した。これを楚の考烈王という。
春申君は相(令尹)になり、淮北の地に封じられ、春申君と正式に号した。
紀元前262年
楚は州(地名)を秦に譲って和を結んだ。これによって楚がますます弱くなったと記された。
一方、秦は韓攻略を進めていた。五大夫(官名)・賁が韓を攻めて十城を取り、白起が野王(地名)を占領した。
これによって上党と韓都・新鄭との交通が遮断されることになった。
交通の弁を遮断することで上党一帯を手に入れるという范睢の策である。彼は領土を手に入れる上で必要な要所を取っていき、それによって土地の孤立をもたらせて手に入れるという戦略を取っていた。
今までの戦では常に前の城を取っていくというものであったために取り返しやすくもあったのだが、彼の戦略によって常に取り返されないようにするようになった。
この時、馮亭が上党守を勤めていた。
韓が上党を秦に譲ろうとしていることを知り、馮亭は民と謀って言った。
「都に通じる道が絶たれてしまい、秦兵が日々迫っているのに韓が援けに来ることはできない。上党を挙げて趙に帰順しようではないか。趙が我々を受け入れれば秦は必ずや趙を攻めることだろう。趙が秦兵に攻められれば、必ず韓と親しくする。韓と趙が一つになれば秦に対抗できるだろう」
馮亭は趙に使者を送った。
この行動が戦国史上最も最大の戦を引き起こすことになる。
数日前に趙の孝成王が夢を見た。自分が左右の色が違う服を着て飛龍に乗り、天に昇っていくが、天上に至る前に龍から落ちてしまい、天から落ちた王の目の前に金玉が山のように積まれていたというものである。
翌日、孝成王が筮史・敢(敢は名)を招いて夢を占わせた。敢が言った。
「夢で左右の色が違う服を着たというのは、残(害)を表します。飛龍に乗り、天に昇ったにも関わらず、途中で落ちてしまったのは、気がありながら充実していないことを表します。金玉が山のように積まれているのを見たのは、憂いを表しております」
その三日後、韓の上党守・馮亭が使者を送ってこう伝えた。
「韓は上党を守ることができず、秦に献上しました。しかし上党の吏民は皆、趙を慕って秦に帰順することを喜んでいません。城市邑(大邑)十七を大王に献上することを再拝して願います。吏民をどう遇するかは王しだいでございます」
喜んだ孝成王は平陽君・趙豹を招いてこう問うた。
「馮亭が十七の城市邑を献上した。受け入れるべきだろうか?」
趙豹はこう答えた。
「聖人は無故の利(理由のない利)を甚だしい禍としたものです」
「人が我が徳を慕っているにも関わらず、なぜ無故と申すのか?」
孝成王の問いに趙豹はこう答えた。
「秦が韓地を蚕食(少しずつ蝕むこと)し、中部を絶って交通を遮断することに成功しました。よって秦は座して上党を受け取ることができると思っていましょう。韓が秦に献上しないのは、禍を趙に移したいためです。秦が労を払ったにも関わらず、趙がその利を受け取ろうとしていますが、我が国が強大だとしても弱小の国からこのように利を奪うべきではなく、実際は我が国が弱小なのですから、強大な国から利を奪うのはなおさらふさわしくありません。だから無故と申したのです。受け入れてはなりません。そもそも秦の侵攻は牛田(牛が耕す田地。必ず収穫があることの喩え)のようであり、水路(渭水から黄河・洛水に通じる水路)を使い、食糧を運びながら蚕食しています。上乗倍戦の者(優れた戦車を使い、戦闘力が他国の倍もある国。四方を敵に囲まれて戦に慣れた韓)が土地を上国(秦)に裂き、その地には秦の政治が既に行き届かせていますので、秦を難(敵)とするべきではありません。だから受け入れてはならないのです」
しかし孝成王は、
「百万の軍を発して攻撃しようとも、年を越えながら一城も得られないこともあるにも関わらず、此度、十七の城市邑が我が国に贈られたのだ。これは大利というべきであろう」
と言って聞き入れないと、趙豹は退出した。その後、孝成王は平原君と趙禹を招いて意見を聞いた。
趙禹が言った。
「百万の軍を発して攻撃しようとも、年を越えながら一城も得られないこともあるにも関わらず、今、座して十七の城市邑を受け取ることになりました。これは大利というべきであり、失ってはなりません」
この時、平原君は兄・恵文王の言葉を思い出していた。
『お前はどうも人に頼られると安請け合いするところがある。これからお前も国家の重責を担う。慎重に、慎重に行動を行うように……それが兄としてお前に残せる言葉だ。良いな』
(このようなことを思って兄上は言葉を残されたのではないか)
平原君は思う。
(だが、上党の民が秦を嫌い趙に助けを求めていることは本当だ)
その助けを求める声を無下にすることが果たして正しいことだろうか。
(兄上、私は助けを求める声が手があるというのならば、それを受け取るべきだと考えます)
「右に同じく」
平原君がそう言うと孝成王は「善し」と言って彼を派遣し、上党の地を受け取ることを決定する。
この決定により、秦と趙の間で戦国史上最大の惨劇であり、戦である長平の戦いが勃発することになり、趙は大打撃を受けることとなり、長平の戦いの後に孝成王は趙豹の計を聞かなかったことを後悔したという。
『資治通鑑』に注釈を咥えた胡三省は注釈内でこう述べている。
「秦には天下を併呑する野心があったため、趙が上党を受け入れずに秦がそれを得ていれば、秦は上党を拠点にして趙を攻めたことだろう。趙の禍は上党を受け入れたことではなく、趙括を用いたことが原因である」
彼は南宋の人であることから彼の時代までこの趙の決定を巡る議論があったと考えるべきであり、この時の孝成王の決定を支持した平原君や趙禹を擁護する声があったことがわかる。
話しを戻す。
上党に到着した平原君は馮亭にこう伝えた。
「私は我が国の使者を勤める臣・勝である。我が国の君が私を送って命を伝えさせた。太守(馮亭。前漢の景帝の時代に初めて「太守」という名称ができるため、正しくは「守」)に万戸の都(邑)三か所を封じ、県令に千戸の都三か所を封じて、それぞれ世々代々侯の爵位を与えよう。吏民は皆、爵位三級を増やす。吏民が互いに安んじたため、皆に六金を下賜する」
馮亭は趙の使者に会わず、涙を流してこう言った。
「私には三つの不義を犯すことはできない。国主のために地を守り、命をかけて堅守することができなかった。これが一つ目の不義だ。秦に割譲されるはずだったにも関わらず、国主の令を聴かなかった。これが二つ目の不義だ。その上、国主の地を売って食(俸禄)にしてしまえば、三つ目の不義になってしまう」
その後、彼は趙から華陵君に封じられたが、その後、趙括と共に秦と戦って長平で戦死することになり、馮氏の宗族は分散した。
ある者は潞(上党の地名)に留まり、ある者は趙に住んだ。趙にいた者は官人や帥将になり、その子が代の相になったという。
秦が六国を滅ぼすと、馮亭の後代に当たる馮無擇、馮去疾、馮劫が秦の将相になり、後の前漢の文帝の時代では、馮唐という者が名声を知られることになる。この馮唐は代相の子にあたる。
更に前漢の後期ではその子孫の中に名将・馮奉世が現れることになる。
趙は兵を発して上党を支配下に置き、同時に廉頗を派遣して長平に駐軍させた。
数多の運命が交わることになる長平の戦いが始まる。