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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第一章 戦国開幕
13/186

列士

 趙の烈公れつこうはとても音楽を愛する人物であり、彼は相国・公仲連こうちゅうれんに問うた。


「私が気に入った者に貴(尊貴)を与えることができるだろうか?」

 

 公仲連は言った。


「富を与えることは構いませんが、貴を与えるのは相応しくありません」

 

 烈侯は、


「わかった。鄭の歌者である槍と石(槍と石は歌手の名)の二人に田(土地)を下賜することにしよう。一人に万畒だ」


 と言った後に代に向かった。しかし公仲連は、


「わかりました」


 と言うだけで土地を与えようとはしなかった。

 

 一カ月後、代に行っていた烈公が戻ると彼は歌者の田地について問うた。公仲連は、


「今、土地を選んでおります。まだいい場所が見つかっていないのです」


 と答えた。暫くして烈公がまた状況を確認した。しかしながら公仲連は土地を与えようとすることはなく、次第に病と称して入朝しなくなった。

 

 この頃、番吾君(番吾は地名。趙の属領の主と思われるが不明)が代から来て公仲連に言った。


「国君は善政を行いたいと思っておりますが、どうすればいいのかわかりません。あなたが趙の相になって既に四年が経ちましたが、優秀な士を進めたことがありますか?」

 

 公仲連が


「まだです」


 と答えると、番吾君は牛畜、荀欣、徐越の三人を推薦した。

 

 公仲連は早速三人を推挙するために入朝した。公仲連を見た烈公がまた問うた。


「歌者の田はどうなっている?」

 

「人を送って善い土地を選ばせているところです」


 と相変わらず、そう言った。

 

 登用された三人が烈公と話をした。

 

 まず牛畜は烈公に仁義を語り、王道によって行いを正すように勧めた。それによって烈公の態度が温厚寛和になった。

 

 翌日には、荀欣が人材を選んで賢人を抜擢するように勧めた。すると烈公は能力に応じて官員を任命するようになっや。

 

 三日目には徐越が倹約について語り、功績や徳行をよく考察するように勧めた。

 

 三人の教えは全て道理にかなっており、喜んだ烈公は人を送って公仲連にこう伝えた。


「歌者に田を与えるのは中止する」

 

 烈公は牛畜を師に、荀欣を中尉に、徐越を内史(首都の長官)に任命し、公仲連に衣服二襲(「襲」は衣服の量詞で「そろい」の意味)を与えた。






 紀元前400年


 魏、韓、趙が楚を攻めて桑丘に至った。未だに喪に服している楚の悼王とうおうは鄭に援護を求めた。


 鄭はこれを受け、韓の陽翟を包囲した。


 韓は丁度、韓の景公けいこうが病に倒れており、鄭相手にろくに相手ができなかった。その後、景公は世を去り、子の烈公れつこうが立った。


 一方、趙では、烈公が世を去り、弟の武公ぶこうが立った。


 これらのことにより、三カ国の楚への圧力は長く続くことはなかった。


 紀元前399年


 楚に苛立ちを覚える状況が生まれた。楚のために韓を攻めた鄭が楚に謝礼として土地を求めてきたのである。


 楚の群臣たちは渡す必要なしと主張したが、悼王は、


「鄭が我らのために韓を攻めたのは事実である。これに報いるべきだ」


 と言って、かつて鄭から奪った楡関の地を鄭に返すことにした。しかしながら鄭はこれに調子を良くしたのか更に楚へ土地を求めた。


「一度、受けた恩は返した。一度返した以上の恩を返す必要はない」


 紀元前398年


 楚は鄭に侵攻した。楚の勢いを恐れた鄭は、宰相であった子陽しようの首を差し出して、こう言った。


「この者が我が国と貴国の間を裂こうとしましたので、誅殺致しました」


 事実は違う。


 子陽という人物は剛毅で刑罰を好み、人を捕えたら決して赦そうとしないほど厳しい人物であった。


 ある日、舎人(門客)の一人が弓を折ってしまった。舎人はその罪のよって誅殺されることを恐れた。そこで丁度良いことに、猘犬(狂犬)が騒ぎを起こしたため、その隙を突いて彼は子陽を殺してしたのである。


 このうまい具合に死んでくれた宰相を利用して、鄭は楚の侵攻を止めさせようと考えたのである。


「あいわかった。これからも両国の関係がより良いものであることを願う」


 そう言って、悼王は軍を退却させた。









 聶政じょうせいという人物が軹邑・深井里で住んでいた。


 彼はかつて人を殺したことがあったため、仇を避けて母、姉と共に斉に入り、屠殺業に従事していた。

 

 そんな彼の元に一人の客が来た。


 当時、韓の烈公の元では、二人の大臣が対立していた。一人は濮陽出身の厳仲子げんちゅうし厳遂げんすい。仲子は字)といい。もう一人は韓の宰相である俠累きょうるいという。


 二人は昔から対立しており、それが議論などによる対立ならば、まだ良かったのだが、俠累側が兵を用いるようになったために厳仲子は害されることを恐れて逃亡した。


 しかしながら彼とてこのままでは気がすまないため、各地を巡って俠累に報いることができる者を探し始めた。

 

 そんな彼が斉に来た時、斉のある人が、


「聶政は勇敢な士ですが、仇を避けて屠者の中に隠れております」


 と教えてくれた。

 

 そこで厳仲子は聶政の家を尋ねることにし、何回も往復してから酒宴を開き、自ら聶政の母にも杯を捧げ、酒が回ると厳仲子自ら黄金百溢を贈って聶政の母の長寿を祝うなど聶政の家族をもてなした。

 

 聶政はあまりの厚遇に驚いて固く辞退した。しかし厳仲子は決して譲ろうとはしなかった。

 

「私は幸いにも老母が健在です。貧しい家ではございますが、狗屠を生業としてここに住み、旦夕(朝夕)には甘毳(美食)を得て親を養っております。親を養うだけならば、充分な備えがありますので、あなた様の賜を受け取るわけにはいきません」

 

 すると厳仲子は人払いをして聶政にこう言った。


「私には仇とする者がおり、これに報いるために諸侯の国々を周遊して参りました。斉に来て、あなたが義を重んじていると聞きましたので、こうして百金を進め、夫人の麤糲(食糧。雑穀)の費にでもしていただこうと思っているのです。喜んでいただければ充分です。他に望むことはございません」

 

 聶政はため息をつき、


「私が志を落として身を辱め、市井に住んで屠者になりましたのは、ただ老母を養いたいと思うためです。老母が健在である以上、私の身を誰かに委ねるわけにはいきません」

 

 と言って彼は厳仲子の礼物を固辞した。厳仲子は仕方なく、賓主の礼を尽くして去った。

 

 それから月日が経ち、聶政の母が世を去った。

 

 葬儀が終わって喪服を脱いだ聶政は言った。


「私は市井の人に過ぎず、刀を奮って屠殺を行ってきた。しかし、厳仲子様は諸侯の卿相という地位におられながら、千里の距離も厭わず、車騎を走らせて私と交わりを結むことを望まれた。私はあの方に対して浅鮮(情義が浅いこと)であり、大功を立てて報いることもできていない。厳仲子様が母の長寿を祝うために贈った百金は受け取らなかったものの、厳仲子があのようにしたのは私をよく理解しているためである。賢者が怨みに報いるため自ら窮僻の人(僻地の貧者)と親しくしたにも関わらず、この私が黙っていていいはずがない。それに、以前私を必要とした時は、私は老母を理由に断った。しかし老母は既に天年(天寿)を終えた。私は己を知る者に用いられるべきであろう」

 

 こうして聶政は西の濮陽(衛地)に向かい、厳仲子に会うと言った。


「かつてあなた様の要求を辞退しましたのは、親がいたからです。しかし今、不幸にも母は天年を終えました。あなた様が仇に報いようとしている相手は誰でしょうか。仲子の事に携わらせてください」

 

 厳仲子は喜び言った。


「私が仇としているのは俠累です。俠累は韓君の季父(叔父)にあたり、宗族も盛んでございます。至る所に兵を置いて警備しておりますので、人を送って刺殺したくても手が出せないでいるのです。今回、幸いにも私の元に来ていただけました。車騎壮士を増やして足下の輔翼(補佐)とさせてください」

 

 すると聶政は首を振って言った。


「韓と衛(濮陽)は遠くありません。今から人の相を殺しに参るとはいえ、その相は国君の親族です。こちらの人を増やすべきではありません。人が多ければ得失(考え方が増える等の意味がある)が生まれ、得失が生まれれば語(計画)が漏れ、語が漏れれば韓は国を挙げてあなた様を仇讎とみなすことになりますので、危険です」

 

 聶政は一人で韓に向かうことにした。

 

 剣を手にした聶政が韓の宮中に堂々と入った。俠累はその時、官府に座っていた。そして、その周りでは剣や戟を持った多数の衛侍が守っていた。


 しかし聶政は躊躇することなく俠累が官府にいるのを知ると直進した。あまりにも堂々と登っていくために兵たちは何かの使者だろうと勘違いした。そして、聶政は難なく階段を登って俠累に近づくとそのまま俠累を刺した。

 

 俠累が殺されて周りの兵達が混乱に陥ると、聶政は大声を挙げながら数十人を殺した。その後、自分の剣で顔の皮を剥ぎ、目をくりぬき、腹を裂いて腸を出した。


 その後、聶政は息が絶えた。

 

 韓は宰相を暗殺した聶政の死体を市に晒し、刺客の身元を報せた者に千金の褒賞を与えると宣言した。しかしながら顔の皮が剥がれてしまっているために顔を確認できないため、誰も彼の身元を知る者はいなかった。

 

 聶政には榮という姉がいた。姉は事件を知り、身元が分からない死体が晒されていると聞くと、


「それは私の弟かもしれません。確か厳仲子様が弟のことをよく理解していたようでした」


 と言うと、すぐに韓に入って市に向かった。

 

 果たして、死体は弟のものであった。例え顔の皮が剥がされても姉である自分には一目同然であった。姉は死体に伏せて哀哭し、言った。


「これは軹邑・深井里の聶政です」

 

 それを聞いた市にいた人々が言った。


「彼は我が国の相に暴虐を行った。国君は千金を懸けて姓名を知ろうとしている。夫人はそれを知らないのでしょうか。なぜ敢えて名乗り出るのですか?」


 もしかすればあなたにも難が及ぶだろうという心配しての言葉である。

 

 姉は頷きながら言った。


「そのことは知っています。弟が自ら辱めを受けて自分の身を市販(市井)の中に置いておりましたのは、老母が健在で私がまだ嫁いでいなかったからです。しかし既に親は天年によって世を去り、私も夫に嫁ぎました。厳仲子様が困汚(賎しい環境)の中で私の弟を探し出し、交わりを結んで厚く遇しましたので、弟には他に選択がなかったのです。士は己を知る者のために死ぬものですから。しかし姉である私がいるため、弟は自ら刑を重くして死に、他の者に追及が及ばないようにしたのです。しかし私には、自分の身を誅されることを恐れて賢弟の名を埋没させるようなことはできません」

 

 姉の言葉は市の人々を驚かせた。そして、姉は天に向かって三回叫ぶと、櫛を抜き聶政の横で自害した。

 

 この事件は瞬く間に天下の至るところに伝わり、人々はこう評価した。


「聶政だけが優れていたのではない。その姉も烈女であった。もしも聶政が姉のことをよく理解しており、姉が濡忍(耐え忍ぶこと)の志(意思)をもたず、屍を曝す苦難を避けず、千里の険を越えてでもその名を明らかにし、姉と弟が一緒に死ぬことになると知っていれば、厳仲子に身を委ねようとはしなかっただろう。厳仲子も人を知り、士を得ることができたと言えるだろう」










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