恩讎
秦が韓と魏に兵を向けようとしていることに対して、魏の安釐王は須賈を使者にして秦に派遣した。兵を向けられないようにするためである。
そのためにも秦の宰相と交渉をしなければならない。
(確か秦の宰相は張禄という魏人だとか……)
聞いたことのない男であるが魏の人間であるのならば、いけるかもしれない。
そう思いながら彼は秦に入った。
須賈が来たと知った范睢はわざと敝衣(破れた古い服)を着て、歩いて須賈が住む客館に行った。
彼を見た須賈は驚き、
「范叔(叔は范睢の字)か?」
と問いかけた。范雎は内心、苦笑しながら「はい」と答えた。すると須賈は笑った。
「范叔は秦で遊説しているのか?」
「いいえ。私は以前、魏の宰相より罪を得てここまで逃げてきました。遊説などできませんよ」
「そうか。それでは、今は何をやっているのだ?」
少し悲しそうにしながら須賈は聞いた。
范雎は、
「人の庸賃(使用人)をしています」
と答えた。
(憐れだ)
須賈は彼は憐れに思えて客館に留めて共に座り、飲食をふるまった。
「范叔はいつもそのように寒そうな姿をしているのか」
須賈はそう言うと一着の綈袍(繒袍。綿の服)を取り出して范睢に与えた。
「ありがとうございます」
范睢は静かに感謝の言葉を述べた。須賈が問うた。
「秦の宰相である張君のことは汝も知っているであろう。彼は秦王に寵信されており、天下の事は全て彼が決めていると聞いた。私の事がうまくいくかどうかも張君しだいである。汝に彼と親しい客(知り合い)がいないだろうか?」
すると范雎が答えた。
「主人翁(范睢の主人)がよく知っているので私でも謁見できます。私があなた様を張君に会せましょう」
「本当か」
須賈は喜んだが、あることを思い出した。
「私の馬は病にかかり、車軸も折れてしまっている。これでは外出できない」
「では、あなた様のために主人翁から大車駟馬を借りてきましょう」
「おお感謝するぞ」
范雎は大車駟馬を準備してそのまま須賈を車に乗せて自ら御者になった。
二人が秦の相府に到着すると、府中の人々が范睢を避けた。
(なんだ?)
その様子を見た須賈は不思議に思った。
相舍の門についた時、范睢が須賈に言った。
「ここで私を待っていてください。私が先に入って宰相に報告しましょう」
「おお頼むぞ」
須賈は門の前で待った。しかし長い間待っても誰も出てこない。
そこで門下(門衛)に聞いた。
「范叔が出てこないが、なぜか?」
門下は、
「范叔という者はいない」
と答えたため須賈は驚き、
「先ほど私を馬車に乗せてここに連れてきて、門を入った男だぞ」
と言うと門下は答えた。
「あの方は我が国の宰相・張君ですよ」
須賈はあまりにも驚き、慌てて肉袒膝行(上半身を裸にして膝で歩くこと)し、門下を通して謝罪を請うた。
そこで范雎は帷帳を張り、多くの侍者を集めてから須賈を接見した。
須賈は頓首して死罪を謝り、こう言った。
「あなた様が自らの能力で青雲の上に至ったとは思いもよりませんでした。私は今後、天下の書を読まず、天下の事に参画することもございません。私には湯鑊(煮殺すこと。死刑)の罪がございますが、どうか胡貉の地に捨ててください。生も死もあなた次第でございます」
范雎は静かに、
「汝にはいくつの罪があるだろうか?」
と聞くと須賈は震えながら答えた。
「私の髪を抜いて罪を数えてもまだ足りないくらいです」
その答えに范雎は苦笑すると、
「汝には三つの罪がある。昔、楚の昭王の時代、申包胥が楚のために呉軍を退けたため、楚王は彼に荊(楚)の五千戸を封じた。しかし彼は辞退した。彼の丘墓(先祖の墓陵)が荊にあったためだ(先祖の墓陵が楚にあったから呉軍を退けたのであって、封地が目的だったのではない)。今、私の先人の丘墓も魏にある。しかし汝は私が魏に対して外心を持ち、斉と通じていると疑い、魏斉に讒言した。これが一つ目の罪だ。魏斉が私を厠に捨てて辱めた時、それを止めなかった。これが二つ目の罪だ。酔って私に小便を浴びせた時、汝は忍びないと思わなかった。これが三つ目の罪だ。しかし汝が死から免れられるのは、私にこの綈袍を贈り、わずかでも故人の意(旧知としての情)が残っていたためだ。だから汝の命は助けてやることにする」
「感謝致しますぅ」
須賈は范雎に謝意を述べた。
その後、范雎は宴席を設けて諸侯の賓客を集め、自分と賓客は堂の上に座って御馳走を食べるが、須賈は堂下に座らせて、彼に莝(切り刻んだ藁)や豆(どちらも馬の餌)を与え、二人の黥徒(刺青の刑に処された囚人)が須賈をはさんで馬のように食べさせた。
范睢が須賈に言った。
「魏王にこう伝えよ。速やかに魏斉の頭を斬って持って来い。逆らえば、大梁を屠す(皆殺しにする)だろう。と」
「し、承知しました」
帰国した須賈がこの件を魏斉に報告すると魏斉は趙に逃走して平原君の家に隠れた。
一報、范雎は秦で宰相になってから、王稽が言った。
「事象には予期できないことが三つあるといい、手の打ちようがない事も三つあるという。ある日突然、宮車が晏駕するかもしれません(「宮車晏駕」とは国君の車がいつも通りに出発しないという意味で、国君の死去を指す)。これが予期できないことの一つ目です。あなたが突然、館舍を捨てる(死ぬという意味)ことになるかもしれません。これが二つ目です。使者(王稽)が突然、溝壑を埋める(これも死ぬという意味)ことになるかもしれません。これが三つ目です。ある日突然、宮車が晏駕した時、あなたが私に対して後悔したとしても(王が死んでしまった時、まだ王稽の恩に報いていなかったことを後悔しても)、どうしようもございません。あなたが突然、館舍を捨てることになった時、あなたが私に対して後悔してもどうしようもありません。使者が突然、溝壑を埋めることになった時、あなたが私に対して後悔してもどうしようもありません」
納得した范雎が昭襄王に進言した。
「王稽の忠がなければ、私は函谷関に入ることはできず、大王の賢聖がなければ、私がこのように尊貴な位に就くこともできませんでした。今、私の官は宰相に上り、爵も列侯に位置しています。しかし王稽の官はまだ謁者のままでございます。これは私を国に入れた彼の本意ではありません」
昭襄王は王稽を召して河東守に任命し、三年間は上計(政治、経済に関する報告)を免除した。
范睢はもうひとりの恩人である鄭安平も推挙した。昭襄王は彼を将軍に任命した。
このように范雎は家の財物を投じて困窮していた時に自分を助けた者に恩返しをし、たとえ一飯の恩を受けただけでも必ず報いた。逆に少しでも怨みがある者には必ず復讐を行った。