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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第六章 決定的一撃
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小石

 最初は結構弄ろうと思った范睢でしたが、実際に動かそうとすると上手く動かなかったので、従来の感じで行くことにしました。

 閼與の戦いの結果は秦の宮中を騒然とさせた。今まで連戦連勝と言っても良かっただけにこの敗戦は衝撃であった。しかも総大将が戦死するという大敗である。


 この戦いで副将を勤めていた王翦おうせんへの責任追及がされたが、彼からもたらされた戦の詳細を聞き、宰相・魏冄ぎぜん白起はくきの意見を促すと、


「裁きはいらないでしょう」


 と述べて王翦が被害を最小限に食い止めた功績によって処罰するべきではないとした。


「ふむ、良かろう」


 こうして王翦は不問とされた。


「さて、次のことを考えなければならんな」


 敗北による動揺を早く抑え、今後のことを考えなければならない。


(ちょっとした油断が全てを台無しにしてしまうものだ。小さな小石にも気をつけなければならない)


 確かに彼の言ったとおりであった。その小石に彼は躓くことになる。













 魏の使者の一団が斉に入った。使者の代表は須賈しゅかといい、その一団の中に范雎はんしょという男がいた。


 彼は魏の人で、字をしゅくという。諸侯を遊説して魏に仕えようとしたが、家が貧しいために資金がなく、そこでまず魏の中大夫・須賈に仕えたのであった。


 しかし斉に留まって数カ月が経ったが、彼等は何の結果も残すことはできなかった。范雎もなんとか斉の臣下たちの間を駆け回っていてもである。


(秦とのつながり故か)


 魏と結ぼうとしないのは、斉が秦に対して遠慮があるためであろう。


「秦は強大か」


 しかし、秦にも隙がある。趙に大敗を喫したばかりであるのと、あれほどの軍と法を持ちながらも決定打に欠ける戦をしているように彼は思えるのである。


「私が宰相ならば……」


 そこまで呟き、彼は自嘲した。斉の重臣たちを説得できない自分がそのようなことを考えることが愚かだと感じたためである。


 そんなある日、彼の元に斉の使者を名乗る男がやって来た。


「王は汝の弁舌を大いに気に入られ、汝に褒美を取らせる」


(斉王が……)


 自分の弁を直接聞いたわけではないのに、優れているとしてくれたことに彼は喜んだ。


(だが、本当にそれだけであろうか)


 何か意図があると考えるべきであろう。


(秦への遠慮があるが、魏とのつながりも欲しいといったところか……)


 自分の弁舌など興味はないだろうと思い直した彼は斉の襄王じょうおうが下賜した金十斤と牛・酒を辞退した。


 確かに彼の予想通りではあった。


 実は彼が斉の重臣たちの間を渡り歩いていた時、ある重臣の客に蘇厲それいがいた。その彼が、


「中々の弁舌を持った人ですね」


 と言ったことで、范雎のことが襄王の元に伝わった。襄王は秦への遠慮をしつつも魏へのつながりを繋げておきたいというあやふやな意思によって彼に金などを与えたのである。










「とんでもない真似をしたな」


 范睢が戻ってくると須賈が彼に詰め寄った。


「どういうことでしょうか?」


「貴様、斉から礼物をもらっただろう」


 斉との交渉が上手くいっていないことから彼は范睢が魏の陰事(機密)を斉に漏らしたために礼物を贈られたと思い、激怒したのである。


「そのようなことはございません。しっかりと断りました」


「受け取っていないだと……」


 無実であることを訴えた范雎であったが、逆に須賈このことから斉との関係を更に疑った。疑われないため断ったのだと思ったのである。


「取り敢えず、受け取れ」


 こう言ったのは今回の交渉で何の成果が無いのは問題があるという判断からである。


「ただし、金は返せ良いな」


 金は受け取ると問題だと感じたためであろう。


 こうして一旦、受け取らせてから暫くして魏に帰国すると須賈は魏の宰相で魏の公子でもある魏斉ぎせいに范雎の一件を報告した。

 

 報告を聞いた魏斉は激怒し、部下に命じて范睢を捕らえさせた。


「無実でございます。魏の秘密を斉に漏らしてなどいません」


 范雎の訴えに対して、魏斉は聞かずに部下に彼を笞打たせた。強打された范睢は脅(肋骨)を折り、歯が抜け落ちた。


(こんなところで死ぬなど……)


 必死に耐えた彼であったが、ついに気絶した。


 魏斉は気絶した彼を部下に命じて、簀(竹の蓆)で包ませてそのまま厠に置き、酒宴で酔った客に小便をかけさせた。後人に対して妄りに発言しないように戒めるための見せしめに近いものであった。


「おのれ、おのれ……」


 これを受けている途中で目覚めた范雎はこの現状に激怒した。しかし、身動きが取れない。


「くそ、必ず、必ずやこの屈辱は晴らすぞ」


 范睢は死にたくなる屈辱に必死に耐えた。やがて人がこなくなると厠を掃除する守者(看守)がやって来た。


 彼は簀に包まれたまま守者に言った。


「あなたが私を逃がしてくれましたならば、必ずやこの恩義を返しましょう」

 

 こんなところにいることは聞かされていたが、まだ生きていたのかと驚いた守者は范睢の状況に同情した。そこで彼は魏斉に謁見すると簀に巻いた死人を棄てることを願い出た。

 

 酔っていた魏斉はこれに同意した。


「感謝する」

 

 范睢は助けてくれた守者に礼を言うと逃げ出した。

 

 暫くして後悔した酔いがさめた魏斉は范睢を探させたが、范睢は知り合いの鄭安平ていあんぺいの元に逃れており、范睢は改名して張禄と名乗ったため、見つけることはできなかった。


「まあ良い。生きていようとも何ができようか。あのような小石にな」


 小石であろうとも人が躓くことができることを彼は知らない。













 体の傷が癒された頃、秦の謁者(官名。国君の近侍)・王稽おうけいが魏を訪れた。斉に魏が接触したという情報から魏へ脅しをかける意味がある。

 

 そんな彼に鄭安平は卒(役夫)を装って王稽に侍った。

 

 王稽が鄭安平に問うた。


「魏の賢人で共に西游(秦に行く)することを望む者はいないだろうか?」


 彼は今の秦の状況に不満を抱いていた。

 

 鄭安平はそれを聞いて、友人を助けることができると想い言った。


「私の里中に張禄という者がいます。彼はあなた様にお会いになって天下の事を語りたいと思っておりますが、彼には仇がいますので、昼の間は出ることができません」

 

 王稽は頷き、


「夜になった時に連れてきなさい」

 

 と命じた。その夜、鄭安平と張禄が王稽に会いに行った。

 

 傷だらけの范睢に驚いた王稽であったが、彼の話しを聞くと、


(才覚がある)


 彼の賢才を認めてこう言った。


「先生は三亭の南(もしくは「三亭岡」)で私をお待ちください」

 

 范睢と王稽は時間を決めて別れた。

 

 王稽が魏の安釐王あんきおうに別れを告げて去ってから三亭の南で范雎を車に乗せて秦に入った。

 

 湖関まで来た時、西から東に向かってくる車騎が見えた。


「あれは‥…」


 王稽が緊張する姿に范雎が問うた。


「向こうから来るのは誰ですか?」

 

「秦の宰相・穰侯・魏冉ぎぜんが東行して県邑を巡視しているのです」

 

(秦の宰相……)


 范雎が言った。


「秦の宰相と言えば、秦の政権を専らにしており、諸侯の客を入れるのを嫌っていると聞いてます。私は辱めを受けることになりましょう。車の中に隠れています」

 

 やがて魏冉が接近し、王稽を見ると彼を慰労した。そして、車を止めてこう言った。


「関東に変化はあっただろうか?」

 

 王稽は緊張しながらも、


「ありません」


 と答えた。

 

 魏冉はそれに違和感を覚えたのか。


「謁君が諸侯の客子(説客)と一緒にいるということはないだろうか。彼等は無益であり、人の国を乱すだけであるぞ」

 

 内心、驚きながらも王稽は、


「そのようなことはありません」


 と答えた。


「そうか……」

 

 魏冉は違和感を覚えつつそのまま離れていった。


 彼が離れてから范雎が言った。


「どうも宰相は智士であるものの何かを発見するのは遅いようです。先ほどは車中に人がいると疑ったにも関わらず、探すのを忘れています」

 

 范雎は車を降りて、


「彼は必ずや後悔して戻ってくるでしょう」


 と言ってから十余里を走り去った。

 

 暫くして魏冉が引き返してきた。そして、車の中を捜索して説客がいないことを確認してからやっと納得した。


 彼の運命が躓いた瞬間であった。


 王稽と范雎は秦都・咸陽に入った。


 王稽が秦の昭襄王しょうじょうおうに使者の任務の報告をしてからこう言った。


「魏に張禄という人物がおり、天下の辯士です。彼が『秦は累卵(卵を積み上げたように不安定な状態)の危機にある。私を得れば安定できるが、文書で伝えるわけにはいかない。直接会って話をしたい』と申していましたので、車に乗せて連れてきました」

 

 しかし昭襄王は王稽の言を信じず、范睢を館舍に住ませ、粗末な食事を与えて待機させた。こうして一年余が経つことになった。



 

 

 


 


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