英雄への疑心
斉を救った英雄・田単は斉の宰相となり、将軍として狄討伐のために軍を進めていた。宰相としての地位をもらっている田単であったが居心地の悪い地位だと田単は感じていた。
ある日、田単が淄水を渡った際、一人の老人に出会った。老人は淄水を渡ったばかりで、寒さに震えて動くこともできないでいた。
(可愛そうだ)
田単はこの老人を憐れみ、自分の裘(皮衣)を脱いで老人に着せた。
それを知った斉の襄王は田単を憎んでこう言った。
「田単が人に施しを行うのは、私の国を奪おうとしているためだ。速く手を打たなければ、後に変事を招くことになるだろう」
言い終わった襄王が左右を確認したところ、誰もいなかったが、殿岩(国君が休憩する場所)の下に貫珠の者(珠玉を細工する者。または真珠を採集する者)がいるのを見つけた。
襄王が貫珠の者を招いて問うた。
「汝は私の言を聞いていただろうか?」
貫珠の者が、
「聞きました」
と答えると襄王が、
「汝はどうするべきだと思う?」
と問うた。
貫珠の者はこう答えた。
「王は彼の善を自分の善となさるべきです。王が田単の善を表彰して、『私が民の飢餓を憂いたために彼が民を収養して食事を与えた。私が民の寒冷を憂いたために彼が裘を解いて民に着せた。私は百姓の労を憂いており、田単もまたそれを憂いている。彼は私の意に則っていると言えよう』と発表し、彼に善行がある度に王が嘉すれば、彼の善行は王の善行になりましょう」
王は納得すると田単に牛や酒を下賜した。
数日後、貫珠の者が王に言った。
「王は朝会の日に田単を招き、庭で揖礼を行ってから自らの口で労わるべきです。その後、百姓の中で飢寒の者を集め、收穀(収養)する命令を出してください」
襄王は貫珠の者が進言したとおりにし、群臣の前で田単を労ってから、人を閭里に送って飢寒の民を探させた。
それを聞いた大夫たちは互いに、
「田単が人を愛すのは、王の教えであったのか」
と噂し合った。
また、田単が貂勃を襄王に推挙したことがあった。
襄王には九人の幸臣(寵臣)がおり、九人とも安平君・田単を陥れようとしていたため、襄王にこう言った。
「燕が斉を討伐された際、楚王が淖歯に一万人を率いて斉を助けさせました。今、斉は既に定まり、社稷も安んじおります。使者を送って楚王に感謝の意を伝えるべきでしょう」
襄王が、
「左右(近臣)で誰がふさわしいだろうか?」
と問うと、九人は声をそろえて言った。
「貂勃がふさわしいでしょう」
こうして貂勃が使者として楚に行くことになった。楚は彼を受け入れて礼遇し、数カ月にわたって引き留めた。
すると九人がまた襄王に言った。
「一人の身で万乗(大国)に引き留められますのは、彼が権勢に頼っているからではないでしょうか。貂勃は田単に重んじられていたがために楚も引き留めて礼遇しているのです。そもそも、安平君と王の関係は、君臣でありながら上下の違いがございません。彼の志は不善(謀反)を欲しており、内は百姓を慰撫し、外は戎翟を懐柔し、礼をもって天下の賢士を遇しておられるのです。彼の志が事を成そうとしているのは間違いないでしょう。王はよく考えるべきです」
後日、襄王が、
「宰相・単を呼んで来い」
と命じたこのように単と呼び捨てにするのは尊重していないことを表す。
この襄王の態度を見て恐れた田単は、冠を脱ぎ、徒跣・肉袒(靴を履かず上半身を裸にすること。謝罪の意思を示す)して王の前に進み、退席する時には襄王に死罪を請うた。
五日後、襄王が言った。
「汝が私に対して罪を犯したことはない。汝はただ汝の臣礼を行うと良い。私は私の王礼を行うだけである」
貂勃が楚から帰ると、襄王が酒宴を開いた。
酒がまわった時、襄王は、
「宰相・単を呼べ」
と言った。それを聞いた瞬間、貂勃は席を離れて稽首し、こう問うた。
「上においては、王と周の文王とではどちらが優れておりましょうか?」
「私は及ばない」
襄王の答えに貂勃は頷いた。
「その通りです。私も王が及ばないことを知っています。それでは、下においては王と斉の桓公のどちらが優れていましょうか?」
襄王はやはり、
「私は及ばない」
と答えた。すると貂勃が言っや。
「その通りです。私も王が及ばないことを知っています。しかしながら文王は呂尚を得て太公とし、桓公は管中を得て仲父としました。今、王は安平君を呼び捨てにしましたが、これは亡国の言ではないでしょうか。天地が開闢して民人が生活を始めてから、人臣として功を立てた者の中で安平君に勝る者はおりません。かつて王が王の社稷を守ることができなかったために、燕が軍を興して斉を襲い、王は城陽の山中に逃走することになりました。安平君は人心が安定していない即墨で三里の城と五里の郭(外城)を拠点とし、疲弊した兵七千人を率いて司馬(燕の騎劫)を捕え、千里の斉領を取り戻しました。これは安平君の功績です。もしあの時、城陽(斉王)を棄てて自ら王を称えたとしても、天下で反対する者はいなかったことでしょう。しかしながら彼は道(道理)を計り、義に帰したので、そうしませんでした。だから棧道木閣(山谷等に木を組んで作った道)を築いて王と后を城陽の山中で迎え、王は国に帰り、百姓に臨むことができたのです。今は国が定まり、民も安んじました。ところが王は彼を呼び捨てにしておられます。これは嬰児でも間違いだとわかることです。王はすぐにあの九人を殺して安平君に謝罪されるべきです。そうしなければ、国の危機となりましょう」
反省した襄王は九人を殺してその家族を追放してから安平君に夜邑(または「掖邑」)一万戸を加封した。
「宰相になったところでこの様だ」
彼は咳き込みながら呟いた。斉のために戦ったというのに、この扱いである。
実はこの出征前に不快なことがあった。
田単は出征前に魯仲連に会いに行った。
魯仲連は田単に言った。
「将軍が狄を攻めたとて、降すことはできないでしょう」
田単はむっとして、
「私は即墨の破亡余卒(敗残兵)を率いて万乗(大国)の燕を破り、斉の墟(失地)を恢復したのだ。狄を攻めて降せないはずがないでしょう」
と言って、車に乗って別れも告げずに去った。
「狄を相手する方が斉の連中を相手するより、簡単だ」
しかし狄を攻撃して三カ月経っても攻略できなかった。
そのため斉の小児たちが風刺してこう歌った。
「大冠(武冠)は箕のようであり、脩剣(長剣)が首にかかることだろう(敗戦の責任を負って処刑されることになるだろう)。狄を攻めても下せず、枯骨を重ねて丘を造らん」
こんなはずではと思った田単は魯仲連を訪問し、こう言った。
「先生は私が狄を下せないとおっしゃっておりました。その理由を教えてください」
魯仲連はこう答えた。
「将軍が即墨におられた時は、座れば、蕢(草の籠)を編み、立てば、鍤(農具)を持ち、士卒のためにこう歌っておられました。『逃げてはならない。宗廟が亡ぶ。まだ希望はある。滅ぶかどうかはまだわからない』あの時、将軍には死の心(命を棄てる気持ち)があり、士卒には生の気(命を惜しむ心)がありませんでした。だからこそ、あなたの言を聞いた者は皆、涙をぬぐって臂(腕)を振るい、戦いを望んで燕を破ることができたのです。しかし今の将軍は、東に夜邑の奉(収入)があり、西に淄上の娯(遊楽)があり、黄金を腰に帯びて淄水と澠水の間を行き来しておりますので、生の楽(生きる楽しみ。生を楽しむ心)が生まれて死の心(決死の心)を失っております。だからこそ勝てないと申したのです」
田単にはかつてのような覚悟が足りたいということである。
(処罰することを恐れている自分がいる)
田単は言った。
「先生のおかげで決心することができました」
翌日、田単は自ら城下に臨んで矢石の下に立ち、枹をもって戦鼓を叩いた。その結果、ついに狄人が投降した。
(どれほど疑われようとも私は私の道を歩むだけだ)
かつての好敵手がそれを貫いたように……