燕の昭王
斉が燕軍に占領され、三邑のみとなってから二年後に聊が陥落し、二邑になってから三年経った。
「ここまでの間、斉には燕軍への反乱が起きていない」
田単は落胆したように言った。恐るべきことだからである。
「つまりは斉の民が燕の治世に不満がないということだ」
燕の、燕の大将である楽毅の治世は斉の治世より優っている。そういう感覚が生まれつつあるのだ。
そして、三年前から田単が守る即墨の地は包囲を受けていない。莒も同じである。
「今が逆転の機会ではないのか」
盗跖がそう言ったが、田単は首を振った。
「このまま軍を出したところで、この城から九里離れた営塁からの軍が城を取るか。もしくは軍と戦うだろう。しかもそこで持久戦を取れば、その間に他の燕軍が動いて包囲し、そのまま打ち破るだろう」
または野戦に出た途端に戦わないという手も使うかもしれない。守りを固めた城をこちらが取れなければ、補給ができず、民衆から物資を取れば、それこそ民心は離れていくだろう。
「恐らく、それが楽毅の策だ」
包囲を解くように指示を出したのは楽毅である。各地の平定が済んで、未だに陥落しない邑の包囲を解くよう燕軍に指示を出して、監視のための営塁を築かせる。そして、懐柔を行うためにこう命じている。
「城中の民が出て来ても捕えず、困窮している者がいれば、これを救済せよ。民を旧業に就かせて新民(燕に帰順した民)を安定させよ」
この話しを聞いた時、田単は震えた。
「なんという自信であろうか」
そうではないか。それほどのことをやっても何の問題も起こさせないという政治手腕の自負が楽毅にはある。
田単は涙を流した。
「今まで斉が築き上げたものの全てが燕軍に勝るものがない。そのことを今まさに私たちは突きつけられているのだ」
悔しい。小役人として何の恥じることなく職務を行ってきたつもりの田単であったが、それが否定されているように感じる。
「悔しいものだな。今、私たち斉は政治的努力を怠ったと突きつけられている気がする」
それを見た盗跖は、
「あんたみたいに悔しいと思える群臣がこの国にいなかっただからここまでの状況になったのではないか?」
と言った。盗賊として世の中にそっぽを向いて生きてきた男の言葉である。
「そのとおりだ」
田単はその言葉を真正面から受け止めた。斉はそのために滅びかけている。
「それでも滅びていない。そのことだけが希望だ」
「まだ勝てると?」
「そろそろ楽毅と燕王の間に不信感が沸くはずだ。勝てるとすれば、そこに隙があるはずだ」
「それはどうかな?」
盗跖の言葉に田単は眉をひそめた。
確かにこの時、田単が予想した事態が起きた。
燕国内で、後二邑となったにも関わらず、斉の完全攻略ができていない楽毅を讒言する者が現れた。ある者が燕の昭王に言った。
「楽毅の智謀は常人を越えており、斉を攻めて一呼吸する間に七十余城を落とされました。今、二城を落とさないのは、力がないから攻略できないのではございません。三年も攻撃しないのは、久しく兵威を用いて斉人を服従させ、南面して王を称すつもりだからでしょう。既に斉人が服したにも関わらず、まだ実行しないのは、その妻子が燕にいるためです。しかし斉には美女が多いため、やがて妻子を忘れることでしょう。王はよく考えるべきです」
「そうか」
と言って、昭王は盛大な酒宴の席を設けてから、讒言した者を招いた。そして、その彼にこう言った。
「先王が国を挙げて賢者を礼遇したのは、土地を貪って子孫に残したかったからではない。しかし先王の位を継承した者(子之)は徳が薄く、命に堪えることができなかったため、国人も従わなくなった」
(本当は私こそがであるがな)
そう思いながら昭王は続ける。
「無道な斉は国の乱に乗じて先王を害した。私は即位してから骨に達するほど心痛し、広く群臣を請うて、外からも賓客を招き、仇に報いることができる者を求め、功を成した者と共にこの国を治めたいと願った」
(そして、彼が現れた)
「今、楽毅将軍は自ら私のために斉を破り、その宗廟を破壊し、旧仇に報いてくれた。斉は元々彼が有するべきであり、燕が得るべき地ではない。彼が斉を有して燕と並ぶ列国(諸侯)となり、友好を結んで諸侯の難を防ぐことができるというのならば、それは我が国の福であり、私の願いである。汝はなぜ敢えてそのようなことを話すのか」
激情を顕にした昭王は剣を抜くやいなや、そのまま讒言した者を斬った。
「これ以降、楽毅将軍への讒言を行う者あれば、この剣で斬る」
その凄まじき、彼の気迫に群臣たちは拝礼する。
その後、昭王は楽毅の妻に王后の服を下賜し、楽毅の子にも公子の服を下賜した。更に輅車(国君の車)・乗馬(馬車を牽く四頭の馬)と輅車に続く属車百輌を準備し、国相を派遣して楽毅に届けさせた。
「楽毅よ。斉王になれ」
昭王の言葉が楽毅に届けられた。
「なんとありがたいお言葉か」
楽毅は声を震わす。あまりにも大きな感動が襲ったためである。
「しかし、そのような命は受けることができません」
楽毅は辞退し、拝謝してから命を懸けて忠誠を誓うことを書き記して、昭王の元に送った。
この話しは一気に斉全体に広まり、斉の人々は楽毅の義に敬服し、諸侯も楽毅の信を恐れ、燕を侵そうとする国がなくなった。
田単もこの話しを聞くと、感嘆した。
「ただただ感嘆するしかない」
「そうだな。楽毅という男がこれほどの信義があるとは」
盗跖の言葉に田単は首を振る。
「いや、それだけではない。私は燕王という人にも感嘆した。これほどの王がこの世にいるとは思わなかった」
遠方の地で功績を挙げていく将軍に対して、長い歴史を見れば、疑心暗鬼に陥る者のなんと多いことか。それにも関わらず、大きな信頼を楽毅に寄せ、それどころか王になれという。そんな王がいるだろうか。
「私は楽毅という男の凄まじさのみを見ていた。本当に凄まじい人は他にもいたのだ」
田単は敗北を確信した。
ある日の夜。昭王は床から立ち上がろうとした瞬間、体の力が抜ける感覚を覚えた。そのまま倒れ込んだ。
「体が動かん」
息も荒くなっていく。
「後、少しだというのに」
やっと斉を滅ぼせるというのに、今、自分は……
「天とはかくも悲劇をお望みなのだろうな」
そこに二人の男が現れた。髪の長い二人で一方は黄色い服を着ている。
「汝の天命は既につきている」
男の一人がそう言った。
「そうか……」
男たちが何者かと昭王は尋ねなかった。
「私の命が尽きる前に楽毅へ。言伝を頼めるだろうか?」
困惑したように黄色い服の男、いや青年と言った方が良いかもしれない。その彼が一方の男を見た。見られた男は頷いた。
「良かろう。聞こう」
「感謝する。では、こう伝えて欲しい」
昭王は息も絶え絶えで、言った。
「王になれ、これが私のできる最大の恩返しである。と」
「承知した」
そういうと二人の男はふっと消えた。
(私はどれだけあの時、死んでいった者たちに意味を与えることができただろうか?)
燕の昭王は息を引き取った。