血湧き肉踊れ
遅くなりました。
「何故ここにおられるのですか?」
田単は盗跖とふたりっきりになるとそう問いかけた。
「まあ、理由は色々あるんだが……」
彼は自分がここにいる理由を話した。
その理由としては田単に命を助けられた時に三割引きで仕事を引き受けたため、バツが悪いというものである。
「律儀ですね」
「盗賊というのはな。律儀な方がまとまるんだよ」
田単は苦笑しながらも彼の言葉を頷いた。
「そうですか……」
「それで仕事の依頼は三割引きにするぜ。暗殺でもなんでもな」
彼の言う暗殺の対象は燕の楽毅のことであろう。
「暗殺はないですね」
田単は首を振った。
「なぜだ。今回の燕軍でもっとも恐れるべき存在は楽毅であろう?」
盗跖はここに来るまでに仕入れた情報を話し始めた。
楽毅による斉攻略は順調に進み、斉の本軍を撃破したことで、燕の昭王は喜び、自ら済水まで来て楽毅を慰労した。
そこで論功行賞を行い、酒宴を開いて将兵をねぎらった。そして、楽毅を昌国君に封じた。昌国とは「国を昌大(盛大)にする」という意味である。
「楽毅へのこの褒賞によってますます楽毅への兵たちの心服は進んでいるというそうだ。こいつを中心で斉を攻略しようとしている間はこれをなんとかするのは難しいだろう」
また、楽毅を暗殺したほうが良いという理由として彼はこのような話しをした。
現在、楽毅は諸軍を各方面に進出させ、左軍には膠水を渡って膠東、東莱(旧莱国)に進ませ、右軍には黄河、済水に沿って阿(東阿)、鄄に進ませ、後軍は北海に沿って千乗を按撫させている。
そして、楽毅が率いる中軍は臨淄に駐留して斉都を安定させている。
その間に楽毅は晝邑(または「畫邑」。斉西南の近邑)の王蠋(または「王歜」)が賢人だと聞き、軍中に命令して晝邑の周辺三十里に立ち入ることを禁止させた。
その後、人を送って王蠋を招いた。しかし、王蠋はこれを辞退した。
自分の尊敬する楽毅の招きに応じなかったことに不満に思った使者は、
「来なければ晝邑を屠する(皆殺しにする)だろう」
と言った。すると王蠋は、
「忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫に嫁がないものだ。斉王が私の諫言を用いなかったために私は退いて野を耕していた。国が破れて主が亡ぼうとしているにも関わらず、私も生き続けることはできません。しかも燕は兵(武器。武力)によって脅迫しております。不義によって生き永らえるくらいならば、死んだ方がましというもの」
王蠋は樹で首を吊って死んだ。
楽毅はこれを知るとその使者を斬ったという。
その後、楽毅は改めて、燕軍を整えて略奪を禁止にし、斉の逸民(隠れた賢士)を探して礼遇するようにして、斉領での賦税を軽減し、暴令を除いて旧政(以前の制度)に戻した。
そのため斉の人々はこぞって燕軍に下った。
更に楽毅は斉の桓公と管仲を臨淄郊外で祀り、賢者の閭を表彰し、晝邑に王蠋の墓を造った。
それによってますます燕に下る斉人は増えていき、斉人で燕から食邑を封じられた者は二十余君、燕都・薊で爵位を与えられた者は百余人に上り、ここまで六カ月の間で斉の七十余城が燕に降り、全て燕の郡県になった。
「だが、先の王蠋の件でわかるように燕軍には楽毅ほどの傑物は他にはいない。この者さえ殺せれば、燕軍は瓦解するのではないか?」
確かにここまで楽毅の軍略、政略に支えられて、燕は斉を飲み込もうとしている。その彼を失えば、燕の斉侵略は立ちいかなくなるのではないかということである。
「しかし、楽毅を暗殺などすれば、楽毅を慕う者たちの怒りを買いかねない」
それにそのような手を使ってろくなことにはならないだろう。
「なら、依頼の内容はどうする?」
盗跖がそう問いかけると、
「そうですね……」
彼は少し考えると言った。
「燕に勝つという依頼でどうでしょう?」
「燕に勝つねぇ。勝算はあるのかい?」
「さあ、今はなんとも言えません。ただ……」
田単はどこかを見つめ、
「斉の民が燕の民になりたくないと願うのであれば……戦わなければなりません」
「変な理屈だな」
「そうでしょうか……ごほ、ごほ。そうでなければ、斉の先人たちに申し訳が立たないでしょう」
田単は咳込みながらそう言った。
「そうかい。まあ良いぜ。その依頼引き受けてやる」
(こいつへの協力で少しは孟嘗君の鼻を明かしてやる)
盗跖の本当の目的はそこにある。
翌日、斉軍が田単のいる即墨を襲った。田単にとっては初陣である。
「盗跖殿。あなたの手下は何人いるのですか?」
自分を担ぎ上げる時に仕込みをしていた手下たちがいたはずである。
「二十人ぐらいさ」
「そうですか。では、その皆さんには伝令の役割を担ってもらいます」
「わかった。指示を出しておこう」
「伝令で伝える際のあなた方の流儀で構いません。しっかりと指示が伝わるようにしてください」
田単は自分が初陣。しかも兵を統率するということにおいてもっとも問題なのは自分の思ったとおりに兵を動かせないということであると思っている。しかも即墨の兵はほとんど戦の経験のないものたちばかりである。
それを盗跖の手下たちで補おうと考えたのである。
盗跖は主に学のない者たちを率いるそんな彼等がわかりやすく内容が理解させる言葉選びは彼等が適任だろう。
そこからは田単は怒涛の対応に追われた。なにせ相手は勢いに乗る燕軍、こちらは戦の経験のない者たちばかり、苦戦は必至であった。
「ごほ、ごほ。東門が崩れそうです。そこに援軍を。西門はなんとか耐えてください」
田単は盗跖の手下たちを使いながら対応していく。手下たちは盗跖に鍛えられただけに足が早く。そのため伝令に速さが伴っていた。故に崩れそうなところの対応を素早く行うことができていた。
「ごほ、ごほ」
(辛い。こんな戦が続くのか)
「おい」
盗跖は田単に話しかけた。
「おめぇ笑みを浮かべているぞ」
その指摘に田単は自分の頬を触った。
「本当ですね。私は笑っている」
こんな状況に関わらずである。
「盗跖殿。私は不治の病を持っている。それに付き合いながら生きてきました。それは実に無気力であったように思えます」
いつもいつか訪れる死を恐れている日々。
「生きて、何かを成したいと思いながらそれでもどこかで諦めていた」
目の前で戦塵が舞う中、田単は笑う。
「でも、この危機的状況の中、死が近づこうとしているにも関わらず」
田単は笑った。
「私の体はとても熱いのです。そうです。まさに言葉にするのであれば、血湧き肉躍るようです」
彼は言った。
「ああ、楽しいなあ」
(今、私は本当の意味で生きている)
生きている喜びを今まさに田単は感じていたのである。
「はっ、悪くないな」
絶望の時に絶望しているだけのやつよりも笑い飛ばすようなやつの方が一緒に戦うのなら良い。
「おめぇにはこの天下第一の大泥棒が力を貸すんだ。そう簡単にくたばるなよ」
田単とそれを影で支える盗跖によって援軍の猛攻は退けられた。
それは負けっぱなしの斉全体では小さな勝利ではあった。確かに勝利を収めたのである。
だが、戦勝にわく即墨にある知らせが届いた。
斉の湣王が殺されたというものである。