表舞台へ
大変遅くなりました。
斉軍を完膚なきまでにたたきつぶした楽毅は一気に斉の都・臨淄を落とすことにした。
彼は事前に用意していた斉の地図から臨淄への道を皆に伝えた。
「斉都を落とすぞ」
その言葉に劇辛が止めた。
「斉は大国で燕は小国なのです。今回、諸侯の助けによって斉軍を破ることができましたが、この機に乗じて周辺の城を取り、自国を大きくすることこそ長久の利となりましょう。それにも関わらず、城邑を通り過ぎるだけで攻撃せず、深入りすることを目的にすれば、斉に損失を与えられないばかりか、燕にとっても利益がなく、深い怨みを結ぶだけになりましょう。これでは必ずや後悔することになります」
この意見に楽毅は首を振った。
「斉王は戦の功績を誇って驕慢になり、下の者と謀ることができず、賢良を排斥して諂諛を信任している。しかも政令が暴虐であるため、百姓に怨まれている。今、斉軍は既に壊滅したのだ。この機に乗じて深く攻め入れば、斉の民は必ずや叛して、内から禍乱が生まれることだろう。そうなれば斉を奪うことができる。もしこの機に乗じなければ、斉王にかつての非を悔いる時間を与えることになり、もし過ちを改めて下の者を大切にし、民を撫恤するようになれば、斉を図るのが難しくなってしまうではないか」
そのことを証明したのは我らが王。燕の昭王ではないか。
(これは復讐戦なのだ。ただ勝てば良いわけではない)
これを考えることができないから昭王は自分を招いたのだろう。楽毅は騎兵を編成し、後の軍はそのまま前進させ、自分は騎兵を率いて臨淄に向かった。
楽毅は進軍を続け、斉の都・臨淄の近くまで来た。ここまで邪魔を受けなかったのは楽毅が警戒の死角となる道を選んできたからである。
「流石に斉都に近づけば、私たちの存在はわかってしまうな」
馬で駆けながら臨淄の門の上の兵が叫ぼうとするのを見て、楽毅はそう言った。その瞬間、その兵の頭が吹っ飛んだ。
「お見事」
紀昌の腕前を褒めた。
「城門が閉まる前に突っ込むぞ」
燕軍の騎兵隊は一気に城門の中に突入した。
臨淄は阿鼻叫喚となった。突然、燕兵が現れたのである。それはもう大混乱となった。
「臨淄の民は多いと聞いていたが、これほどとはな」
楽毅は前方の民の多さに辟易しつつ、その間を掻い潜って斉の王宮を目指す。
王宮に乗り込んだが、そこに斉の湣王の姿はなかった。
「逃げ足の速い王だ」
楽毅はそう呟いた。
「どうなさいますか?」
劇辛がそう問いかけると、彼はこう答えた。
「取り敢えずは本軍と伝令を密にして、ここと燕との間の土地を先ず、確保する。斉王が逃走したことに関して、民を残して逃げたと宣伝させよ」
取り敢えずは兵糧の確保をしっかりと行う。斉の全土を切り取る必要があるのである。
(最終的に斉王が頼るのは楚だろう)
そうなれば楚との戦いになるだろう。その戦いのことも考えなければならない。
「私たちは宝物・祭器を得るぞ」
彼の指示に従い、兵たちは斉の宝物・祭器を探し出して、持ち出した。楽毅はこれらを燕に輸送させた。これは国を滅ぼすという行為を天下に知らしめる行為である。
「次は周辺を切り取る。それから一気に斉の全土を切り取るぞ」
そう言って、楽毅は地図を取り出し、諸将に指示を出した。
その中に安平があった。
臨淄の市掾(市を管理する小官)・田単は燕軍の襲来を聞いてから、慌てて故郷の安平に戻っていた。
「ごほ、ごほ、叔父上方。燕軍は強いです。きっとここまで手を伸ばすことでしょう。いつでも動ける用意をしてください」
慌てながら言う田単に皆、笑いながら言った。
「燕は斉の前に何もできなかった国だ。諸国の兵を率いているとはいえ、何ができようか」
と笑って、彼の言葉に従わなかった。
「叔父上方……ごほ、ごほ」
田単は子供の頃から不治の病に犯されており、体が弱かった。故に田単は弱気な人である印象が親戚たちには強かった。
それから合従軍が斉軍を破り、更には臨淄まで圧倒言う間に手に入れた燕軍のことを聞くと安平の人々は驚き、恐れて慌てて逃げる準備を始めた。
田単たちの宗人たちも同じように準備を始めた。
「叔父上方。馬車の車轊(馬車の車輪の中央で、車軸が出っ張った部分のこと)に鉄籠(鉄の覆い)をつけるべきです」
「そうか……」
先に田単の言うことが当たったため、親戚たちは彼に従った。
やがて燕軍が楽毅の指示により、安平を襲った。
人々は争って安兵の城門に奔ったが、馬車の轊がぶつかり合って折れてしまった。車が破損して動けなくなった者はことごとく燕軍に捕えられてしまった。
田単の親戚たちだけは鉄籠のおかげで車輪が破損することなく、脱出することができた。
「どこに逃げるのか」
次の問題はそれである。
「ごほ、即墨に……逃げましょう。即墨は守りやすい城ですし、すぐには落とされることはないでしょう」
「そうか。良し、田単に従おう」
こうして彼等は即墨へと逃げた。
一方、燕は安平を始め、数多の城を同時進行で陥落させていき、ついに田単らがいる即墨へと侵攻を始めた。
「燕軍は凄い勢いで斉の城を落としているそうだ」
「ここも落とされるのではないか?」
民衆が不満に思うなか、燕軍が来ると即墨大夫は出陣してそのまま戦死してしまった。
「なんという愚かな」
田単はそう呟いた。
そうではないか。即墨大夫は不安がる民衆を見捨てて、自分だけ斉のために戦ったとばかりに死んだ。
(偽善というべきだ)
歴代の即墨大夫たちが大層悲しむことだろう。田単はそう思った。即墨と言えば、斉のどこよりも善政を敷かれた場所であった。
(だからこそ、ここなら大丈夫だと思ったのだが……)
しかし、ここ以外のところのほとんどを燕は陥落させていっている。
「斉は滅ぶのか」
昨日までは誰もが思っていなかったことである。しかし、今、現実のものになろうとしている。
「どうする」
「我らの指導者がいない」
「一体どうしたら」
民衆が集まり、不安がりながら相談していた。
しかし、誰も燕に降伏するとは言わなかった。
(皆、怖いのだろう。降伏すると言ってしまえば、斉の民では無くなる。そのことが……)
その時、田単の肩を掴んだ男がいた。
「彼がいる」
男はそう言った。
「安平での出来事は皆、知っているだろう。あの時、田単の宗人だけが鉄籠のおかげで無事だった。彼の言葉に従ったからだ。このことから彼には物事を予見する才がある。きっと智謀も多くて兵法を習熟しているに違いない」
男の言葉に田単はぎょっとする。そして、慌てて顔を見ようとすると、
「そうだ。田単が将になるべきだ」
「田単の言葉には神意があるに違いない」
民衆は一斉に田単の名を挙げた。するとそれに合わせるように男が言った。
「皆、田単を中心に燕と戦うではないか」
「そうだ。そうだ」
「田単、田単」
更に男は煽る。
「田単の言葉に従えば、斉は滅びない。そうだろう」
「そうだ」
民衆は先程までの不安がっていた姿から一転した様子になった。
「待ってください。私は所詮、一介の小役人に過ぎません」
田単は熱狂する民衆に、そう言ったが誰も聞かない。そう自分の肩に手を載せている男以外は、
「そう言うなよ。皆、望んでいるのだからな」
「あなたは……」
男の左手はなかった。そのため右手を口元に持っていき、指を立てた。
「まあ、俺のことなんて良いじゃないか」
男……盗跖は言った。
彼が煽った結果、田単は歴史の表舞台へと登ることとなった。




