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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第一章 戦国開幕
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新時代開幕

戦国時代が舞台です。よろしくお願いします。

 紀元前1046年に商王朝を打倒して周王朝は建国された。


 周は都・鎬京の近くに血縁関係のある諸侯を起き、辺境には商王朝を打ち倒すことに協力した諸侯に治めさせた。このように血縁関係を中心に関節的な天下の統治制度である封建制をもって統治を行った。


 時が流れて、周の幽王ゆうおうが犬戎によって都・鎬京を落とされて、殺害されたことでこの封建制の崩壊が始まった。


 諸侯は周の平王へいおうを洛邑(後の洛陽)で擁立したが、諸侯の助けを借りて再建された周王朝に諸侯をまとめる力はもはやなく、名目的な存在となってしまった。周王朝の弱体し、諸侯が強大化になったことで封建制は崩壊した。


 この崩壊した秩序の再構築を目指す考えから、覇者による周王の代わりに秩序を保つ代理人を立てるというやり方で、秩序の再構築が図られたりとされたが、その限界を自覚して別の制度による秩序を築こうとする考え方によって新たな秩序の構築へと移行する時代が春秋時代であった。


 そして、戦国時代に至るともはや周王朝の権威など気にせず、各国がそれぞれ力を付け、王号を名乗り、自らが秩序の担い手となることを目指すようになった。


 天下を得るという夢に向かって、国々が争う本当の乱世の始まりと言えるかもしれない。


 紀元前451年


 衛の敬公けいこう子思しし(孔子の孫)に問うた。


「道は大きすぎて明らかにするのが難しいから、私には実行できない。そこで術(策略。方法)を学びたいと思うがどうであろうか?」

 

 道というのは万物の法則・道理を指し、術は実用的な方法・策略を意味する。

 

 子思は首を振った。


「それは違います。道を体得した者は安逸となり窮することはございませんが、術に任せる者は労しようとも功を立てることができません。古の道を篤くした君子は、生(生きること。長寿)すら喜びとしなかったため、利によって動かされることもございませんでした。また、死すら禁(禁忌すること。嫌うこと)としなかったため、害を恐れることもございませんでした。死生の分(道理)が明らかで、利害の変(変化)に通じましたので、天下を脛の毛と交換できるといわれても、道を体得した君子は志(心)を動かすことがなかったのです。聖人と共にいれば、窮士にも貧賎を忘れさせ、王公にも富貴を削らせることができます。道を学ばず術を学ぼうというのは誤りでございます」

 

 敬公は納得して、


「善し」


 と言った。結局は何もしなかった。この敬公と子思の話は、世の中が実利的な考え方を求め始めていることを伝えるものである。


 秦の左庶長が楚の南鄭に侵攻し、奪取するとここに城を築いた。


 紀元前441年


 周の貞定王が死んだことで、周で内争が起きた。

 

 先ず、長子・去疾が立ち、これを周の哀王あいおうとなったが、哀王は在位三カ月で弟の叔に襲われ、彼によって殺害されてしまった。叔が自立し、周の思王しおうとなった。

 

 この思王も在位五ヶ月で弟の嵬に襲われ、思王は殺害されてしまい、嵬が自立した。これを周の考王こうおうという。

 

 この年、秦の南鄭が叛した。

 

 しかし、南鄭は楚に付かず、蜀についた。


 一方、南鄭を失っている楚は紀元前447年に蔡を紀元前445年に杞を滅ぼすなど、領土を増やしつつ、その武威を振るっていた。


 紀元前426年

 

 考王が死に、子の威烈王が立った。

 

 考王の時代、彼は弟・揭を河南に封じて周公の官職を継承させた。これを西周の桓公という。


 敬王の時代に王城から成周に遷都して東周と称したため、王城は西周とよばれるようになった。桓公は王城を都としたため、西周の桓公と呼ばれる。


 考王がわざわざこのようにしたのは、彼は兄弟間の争いを経て王位を手にしたため、自分の地位を安定させるために弟の居場所を確立する必要があったためである。


 そこで河南の地を封じ、国を分けて統治することにしたのである。

 

  ただでさえ、弱体化している周王朝の統治を二つに分かれたことで、ますます周王朝の弱体化は激しいものとなった。


 更には、この西周公によって、周王朝における権力は支配されていくようになったのである。


 儒教においても曾参そうしんが病に倒れてしまっていた。彼は曾元そうげんと曾華(二人とも曾参の子)が傍に控えていると曾参は言った。


「私には顔回がんかいのような才がないため、汝等に何を教えればいいだろう。私は無能だが、君子は益に務めるものであり、君子は周りの人のためになるように努力しなければならないのだ。華(花)が多ければ逆に実が少なくなるものだ。これは天(自然の道理)である。言が多い者ほど往々にして行いは少ないものだ。これが人(通常の人の態度、様子)である。飛ぶ鳥は山を低いと感じ、山頂に巣を作る。魚鱉すっぽんは淵を浅いと感じて、淵の底に穴を掘る。しかし空を高く飛ぶ鳥や淵の奥深くに住む魚鱉でも捕まってしまうのは、餌を貪ろうとするためだ。君子が利を貪らず、身を害すことがなければ、辱めを招く恐れもない。官員が功績を誇り、怠惰になって病が少し良くなっただけで安心し、怠け惰ることで禍を産み、妻子のために孝心を失う、この四者に対してよく注意をはらって、いつも初心を忘れず慎重でいなければならない。『詩(大雅・蕩)』には『誰もが善い始めを持っているが、最後までそれを保つのは難しいものだ』とある。これを忘れてはならない」


 彼はそう言い残して、世を去った。


 儒教もますます弱体化の様相を見せていた。



 

 


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