1-7 ここにいる理由3
1/17 スノウの心情追加
ーーそれは1つの情景。
冷ややかで氷めいた愚か者の、過去の記憶。
あやふやで、ぼけてて、とっても冷たく、とっても暗い。
彼の周りに咲くのは、彼岸の花を連想させるほどの熱烈で暴力的な赤。凍りついた人間が、趣味の悪い芸術作品となって村全体を飾っている。これがパーティーなら音楽の1つでも聞こえてくるのだろう。だが、この村はたった今、人間の生活音すら失った。
何故こうなったのか。何故自分は生きていたのか。前後の記憶は忘却され、この場面だけが曖昧に再生される。
靄のかかった記憶。
永遠に感じた一瞬。
血に濡れた母さんと、その最後の言葉。
「誰かのために生きなさい。……そうすれば、きっとーー」
最後まで言い終えることなく、母さんは動かなくなる。永遠の眠りについてもなお、オレを安心させようと微笑みながら。
時計の針は凍り、愚か者はこの瞬間にしか生きる意味を見出せなくなる。
これは、この結果をもたらしたオレへの呪いなのだろう。
母さん。
貴方は、オレに何を言おうとしたんですか。
何を、伝えようとーー
「…フ、イ…フ。おい、リーフ」
聞き慣れた図太い声が、意識を曖昧な夢から現実に引き戻す。自分の内側から外の世界に焦点を合わせる。
ああ。また、沈んでいた。
右隣に座るブラウンさんが、少し不安げにこちらの顔を見ていた。
「どうした? 急に呆けたりして」
「すいません。ちょっと」
右手を頭に当て、深く息を吐く。精神的な疲れが押し寄せてきたのか、額には少しだけ汗が滲んでいた。
「仕方ないでしょう。彼は今日、1日中この街を歩き回っていたわけですからな」
右斜め前に座る、鎧を着た男が声を発する。
背丈は2メートル弱。足から顔まで完全に武装。それは普通でない筈なのに、恥ずかしく思うどころか逆に誇りに思っているような佇まいだ。
彼はアゼル・エメラルド・2級ハンター。昨日、シンボルの局内ですれ違ったハンターだ。
「……………………」
そして何故なのか、オレの目の前に座る彼の弟子はずっと静かにお茶を飲んでいる。
彼女はヌワラ・グリレッジ・5級ハンター。
短く纏まった黒髪に無表情な顔。全身を覆う濃い緑のマントが彼女の存在感を目立たせている。
いや、存在感だけでいったらこの席に座る者全員が異質だった。
昼間から軽く酔っているタンクトップの偉丈夫。夏が近いというのに長袖長ズボン、更には灰色のコートをその上に羽織る愚か者。同じく、全身をマントで隠している暑そうな格好をした無言の女性。そして、全身に鎧を纏った男。
メリコイル・南区・『コイルの里』の食堂の一角は最早、通る人全員の目を釘付けにするほど圧倒的な存在感を放っていた。
時は30分前に遡る。
ガーネット兄弟と別れて飛行船で南区に戻ったオレは、同じ依頼を受けた3組目のハンターとの待ち合
わせ場所に向かっていた。
『午後2時、メリコイル・南区・コイルの里に伺う。』
昨夜のメールには確かにそうあった。しかし、時間になっても一向にハンターは来る気配がない。そこで中に入り一旦自室に戻ろうとした時、既に3組目のハンターと合流していたブラウンさんに呼び止められたのだった。
ブラウンさんとアゼル・エメラルドは同期のハンターで、新人時代から共に肩を並べてきた旧知の仲、と先程説明を受けた。
ならば、この人は先生とも面識があるのだろうか? 鎧の下に隠された素顔は? 鎧は重くないのだろうか? などと疑問を頭に並べる。
昨日、ルーネはこの人が有名人だと言っていたが、オレはこの鎧姿以外に何もアゼル・エメラルドについて知らないのだ。
「ところで、オリーブは元気ですかな? 君やコーラスとは稀に仕事で会いますが、如何せんあの職人気質はメール1つよこしませんからな」
コーラス、と彼の口から先生の名前が出る。やはり知り合いだったようだ。しかし、それと同時に出た名前には驚いた。
オリーブーーオリーブ・タンザナイト。
オレを育ててくれた人の一人。オレが育った家の家主。そして、彫り師の名家『タンザナイト』の現当主。
もしハンターにならなかったら、と考えた時に彫り師が浮かんだのは彼の影響に他ならない。
「オリーブの野郎か? 残念ながら大元気さ。つい最近も、こいつの武器をせっせと造ってたんだぜ」
そう言って、ブラウンさんはオレを親指で差す。見せてやれ、と言いたいのだろう。
オレはウェストポーチから携帯水晶を取り出してアゼル・エメラルドの目の前に出す。
「どうぞ」
「おお、これは」
鎧の下から感嘆の声が漏れる。興味をなさそうに話を聞いていたヌワラ・グリレッジも、チラッ、と水晶の方を見る。
それは紋章を刻みやすい水晶という素材。その欠点である強い衝撃に『硬化の紋章』で補強を加えてある。内部要素は『識別』『吸収』『蓄積』『共鳴』『形状記憶』『形成』『譲渡』の計7層。ミリ単位で刻まれた紋章は、水晶の内と表面をビッシリと埋め尽くしている。
何が商売上がったりだ。これは同業者はおろか、人形ですら真似出来ないほどの神業なのだ。
「相変わらず気持ち悪いくらい精密な技術ですな」
「だろ? 俺も本当に同じ人間かって疑っちまうぜ」
「ま、元気そうで何より」
昔を思い出したのか、ブラウンさんもアゼルさんも口を閉ざす。
あの人、先生とブラウンさん以外にもちゃんとした友人がいたんだな……。本人に言ったら殴られるであろう事を心の中で思う。
基本的にメールで仕事のやり取りをするオリーブさんは、食事の時と寝る時以外は工房から出てこない。オレが生活をする上で、彼の家に先生とブラウンさん以外の人が来た所を見たことがなかった。
「これ、返すよ」
起用に掴みながら、アゼルさんがオレに携帯水晶を返す。
不意に、目が合う。
彼はオレの目をただまっすぐと見ている。
「君は、本当にミキの……」
ドクン。
心臓の音が脳に届く。
ミキ・ブラックマンーー今は亡き、オレの母親。
「はい」
懐かしくも寂れた響きが、歪曲した精神を軋ませる。ギシギシと矮小な愚か者を締め付けて離さない。
「そうか。……うん」
彼は勝手に何かを納得する。オレには彼の心が覗けるわけもなく、その断片すら分かるはずもない。
「君は、正しく育ったのだね」
「オレが、正しい?」
鎧の隙間から見える彼の目は、優しくオレを見ていた。断片は分からずとも、これだけははっきりと分かる。
ああ、成る程。この人も先生と同じ暖かい目をするんだ。
『だが君は、卑しくも紋章を体に宿した氷の悪魔だ。人間の、敵だ。』
レト・ガーネットの言葉が頭で再生される。
氷の悪魔ーー『氷の紋章』を体に宿した悪魔。この世界が生み出した最悪にして災厄。
生まれながら紋章が体に刻まれた生物、それを、この世界では魔獣と呼ぶ。
人が紋章を持って生まれてくることはあり得ない。もしそんなことがあったのなら、それはもう人ではないのだ。
人の皮を被った魔獣ーー『悪魔』と呼ぶしかない。
オリーブさんも、ブラウンさんも、先生もそう。オレを一人の人間として育てた。あの惨劇を目にしながら、悪魔に正しさがあると信じてしまったのだ。
彼らの行いは全くもって愚かだ。
そして、悪魔を救ったその行いを愚かと切り捨てるオレ自身は、やはり最も愚かしいと思う。ハンターになりいくら人にのために生きようとも、そこは変わらない。
「オレは、正しくなんかーー」
「リーフ。そういえばよ」
突然の話題転換。オレと180度声のトーンが違うブラウンさんが、話を遮るように口を開く。
「言い忘れてたんだが、もうルーネの策、オレが説明しちまったんだわ」
「……え?」
ブラウンさんとアゼル・エメラルドが知り合いであったこと。そして懐かしい母の名前に気をとられ、オレは本来の目的を完全に忘れていたらしかった。
冷たく凍結した血を平熱まで戻す。自分の過去について考えると、ノータイムでネガティブな思考に陥ってしまうのはオレの悪い癖だった。
これは、そんなオレを見かねたブラウンさんなりの助け船なのだろう。おかげで淀んだ思考をリセット出来た。
そして、リセットした頭でまた思考する。
「オレ、ここにいる意味なくないですか?」
「まあそんなこと言うなって。同じ依頼を受けているハンターとコミュニケーションを取るのは良いことじゃねえか」
「よく言いますな。君はこの依頼を受けていないのだから、彼が説明するのが筋でしょうに。昔っから君の悪癖は治らない」
「悪癖ってお前なあ……。言っとくが、お前はその悪癖に助けられたことがあるんだからな」
「はて、何のことやら。君に助けられるなぞ末代までの恥。私がそんなヘマをするはずがないではないですか」
「ハッ、言いやがったなこの野郎! よし、いいだろう。その末代までの恥って奴を思い出させてやるよ! そう。あれは確か、パクタンのドーランドを拠点に活動していた時のことだ」
「おお、懐かしきドーランド! まだチームで活動していた時のことですな!」
隣の偉丈夫達が昔話に花を咲かせ始める。昔なじみとの久しぶりに会ったのだ。弾む話もあるというものだろう。
取りあえず、冷め切ったお茶を左手で飲む。
しかし、ブラウンさんが言っていたようにコミュニケーションを取るにしても、この話に混ざるのはなあ……。
彼らは『第3世代』と呼ばれる第3~4次未開領域開拓時代に生きたハンター。昔話をしようと言うのであれば、それこそ冒険小説の1つでも出来上がってしまうほど規模が大きい。こうなった場合オレが飽きるほど長話になることは、飲みの席で先生とブラウンさんから痛いほど学んでいる。
となると、選択肢は2つしかない。自室に戻るか、目の前の無表情なハンター、ヌワラ・グリレッジに話しかけるかだが……。
ズズッ、とヌワラ・グリレッジはお茶を啜る。無表情ながら、まるで観察するかのようにこちらを見ている。
オレの顔に何かついているのだろうか。
そう話しかけようとした瞬間、
「あなた、思いの外、ナーバスなのね」
「……………」
彼女から発せられた無機質な声に、呆気に取られる。
オレがここに来た時から彼女は無言を貫いていた訳だが、いざ口を開けたと思えばオレをナーバスと言う。怪奇の2字が即座に頭に浮かんだ。
「私、共感覚持ち、なの。それで、先生とあなた、の会話を聞いて、」
「あー、ヌワラさん? ちょっと待って欲しい」
話が急展開すぎる。ナイーブの次は共感覚? もはやどの方向に話が飛んでいくのか予想出来ない。
「ヌワラ、でいい。敬称も、敬語も、私には必要、ない」
この人、本当にマイペースすぎやしないか? 自己中心的という訳ではないのだが、どうにもやりずらい。
「……じゃあ、ヌワラ。共感覚っていうのは、その、あれか? 白黒の文字に色がついて見えたり、味を感じたりするっていう」
「そう。私の、場合は、人が発した言葉、に、色がついて見える、の。嬉しければ、桜色。悲しければ、青色。自分を、責めていれば、黒色。さっき、先生と話して、いる時のあなた、は、青と、黒の混じった、声を、出してた。だから、ナイーブ」
「…………!」
眉唾な話にほんのりと真実味が宿る。考えて見れば彼女も2級ハンターの弟子。オレや先生も特異な能力を持っているのだから、同じように彼女が持っていても驚くことではないのかもしれない。
隣をチラリと見る。2人はまだ昔話を続けているようで、こちらの話が聞こえた様子はない。
「ブラウンさんやヌワラの先生と違って、昔話は好きじゃないんだ」
「そう……。あなたはもっと、強い人、だと、思ってたから、意外、だった」
「以外? オレとヌワラは初対面のはずだが?」
「同世代で、あなたのこと、知らない、人はいない。良い意味で、も、悪い意味で、も」
知らない人はいない、か。シオン・アメジストにもレト・ガーネットにも同じようなことを言われた気がするが、出回っている話は割合的に『悪い意味で』の方が高いはずだ。
どれだけ功績を上げようとも、どれだけ人のために生きようとも、『悪魔』のレッテルが剥がれる訳ではない。ハンターになって真っ先に学んだことだ。
彼女がまた、こちらを観察するように見ている。青い言葉を発さないように、スッと息を吸ってから口を開く。
「オレの何を知っているのか知らないけど、オレは強くなんか、ない。ヌワラの言ったようにオレはナーバスで、小心者の、ハンターだ」
意図せず彼女のような歯切れの悪い言葉を出してしまう。前言撤回、青い言葉はどうも隠せそうにない。
一生ついて回る忌名。それを割り切ることも受け入れることも出来ず胸の中で燻らせている。燻らせ過ぎて、冷え切りすぎて、それが今の自分を形作っていると自覚しているからこそ自分自身に嫌気がさす。
「じゃあ、不思議な話、だね」
ポツリ、と首を傾げてヌワラ・グリレッジは呟く。
「あなたは、傷つくと分かって、いて、それでも、ハンターを、やっているように、見える。周りから、理不尽に、憎悪、を、向けられている、はず、なのに」
無自覚に彼女は確信をつく。
生きる意味。
自分の在り方。
これまで何度も自分に問いかけてきた。明確な答えは今も出ていない。
「ねえ。あなたは何で、ハンターを、やってる、の?」
頭の中にノイズが走る。
罵倒の言葉。凍った人間。侮蔑の眼差し。赤い花。止まった父。母の最後。
幼少期の記憶とぼやけた悪夢がドロドロに溶け合い、2つの影が出来上がる。
消えろ消えろとオレを呪う。
人のために生きろと言う。
オレはーー
「あなたは、何のために、ここにいる、の?」
花を見ていると何だか穏やかな気持ちになる。私に花を愛でる趣味はないけれど、それでも一般人並みの感性はまだ持ち合わせているのだと実感することが出来る。まあ人が大勢いることへの不快感で、得られた穏やかさは相殺されているわけなのだが。
ここはメリコイル・西区・『ガーデン・ビスマス』の噴水前。昨日訪れた場所よりもちょっと奥に進んだ場所だ。
案内板を見た感じ、この庭園のメインは更に奥にあるモザイカルチャーというものらしい。『モザイカルチャーは植物を立体的に使ったアートです』と、丁寧に説明文が書かれていた。
うん、説明文だけじゃ何を言っているのかサッパリ分からない。
正直に言うと、見てみたいという気持ちはある。あるのだが、これより先は更に人の数が増えるだろう。比例して、私の精神的苦痛も増える。ここで引き返すのが賢き者のする選択である。
人目を避けるようにしながら元来た道を戻る。
果たして、私は時間を有意義に使えているのだろうか? ルーネさん達とは別に、私も何か行動した方がいいのではないだろうか?
愚か者さん達とチームを組んでからそんなことを考えるようになった。彼らはハンターという職についており、未開の地を探索できる限られた人間だ。『祈願の指輪』の情報を集めるには彼らの力が必要不可欠な訳だが、おんぶに抱っこというのは気が引ける。
少なくとも、彼らは私のために動いてくれているのだから。
しかし、今の私に出来ることと言えば探偵さんの作戦に協力することくらい。いっそ、そういうものだと割り切れば楽になるのだろうが……
「ハァ……」
環境が変わって、色々な問題が出てきて、ジェノの1件が終わってから頭が付いていかない。
赤い頭巾を深く被る。
もう小さくなったアイスのコーンを1口で食べながら、昨日と同じ花壇の前に座り込む。
人通りが多く華やかな噴水前の花壇よりも、ここの方が私にとっては好みだった。
「あれ、あなた……」
不意に、隣から聞き覚えのある声が聞こえる。
「ああ、やっぱり! 昨日もここに来てくれた子よね!」
庭師の老婆、ミスアンノウンがにこやかに微笑みながらこちらを見ていた。正直もう会うことはないと思ていたので、素直に驚く。
「どう? 旅行は楽しめてるかしら?」
「……ええ、まあ」
ミスアンノウンの微笑みに、私は苦虫を噛み潰したような表情で返す。
アイス屋といいこの人といい、何故こうも私を見つけてしまうのだろう? 心の底から運命を呪いたくなる。もう呪いすぎて、運命の方は私を見放しているのだろうが。
「フフ、うれしいねぇ。私みたいな土いじりが仕事の人間はね、そう言ってもらえるのが一番うれしいのさ」
何の疑いもなく、ミスアンノウンは私が旅行を楽しんでいると思っているらしい。物申そうかとも思ったが、昨日私が蒔いてしまった種だ。下手に訂正して墓穴を掘るよりはこのまま何も言わない方がいいだろう。
「となり、いいかい?」
こちらの反応を待たず、ミスアンノウンは自然に私の隣に座ってくる。
……いや、いいさ。今更そんなことで動じたりしない。
「ふぅ。こんなに暑いと、休憩しなきゃ干からびちゃうわ」
「その割には元気そうですね」
「そうなのよね。私、昔から元気なだけがとりえなの」
肩にかけたタオルで汗を拭いながら、ミスアンノウンは答える。じゃあ私の隣に座る必要はないではないだろうか。私のことはほっといて、元気に土いじりを続行していただきたい。
「そういえば、今日もお友達とは一緒じゃないのかい?」
「お友達?」
一瞬意味を理解出来ず、疑問符を口に出す。そういえば昨日、蛮族さんのことを友達と言っていたのだった。我ながらゾッとする嘘をついたものだ。
「ああ、友達ですか。彼は朝から何処かへ行ってしまったので、今は私1人ですよ」
「じゃあ1人で観光ってわけね。噴水前の花はもう見たかい? 昨日言ったかもしれないけど、あそこは私の担当でね、人通りの多い所だから気を使って植えたんだよ」
自慢げにミスアンノウンは語る。私の感想を素直に言うならば、人が多すぎてゆっくり花を見れず気分を害した、だ。
しかし、馬鹿正直に私個人の感想を語る必要はないだろう。普通の人は花を評価する時に、周りの人間をチェック項目に入れないから。
ここは少しだけ私の意見を交えつつ、在り来たりな感想を言うことにする。
「噴水前には行きました。その……何と言うか、華やかさがあって良いと思いましたよ。ただどちらかというと、私はここの方が好きです」
人が少なくて日陰がある。ただそれだけの理由だ。
ミスアンノウンは私の思った通り意外そうな顔をした。だが、またすぐに笑顔に戻る。先程までの勢いのある笑顔とは違い、柔らかく、何かを思い返しているような笑顔。
「そうかい。じゃあ、スノウちゃんは私と同じね」
「同じ?」
「うん。私もこっちの方が好きなのよ。さっき、気を使って植えたって言ったでしょ? あそこは噴水がメインだからね、それに見合う華やかな花を無理矢理見繕ったのよ。やぁね、まるで噴水が特別なものみたい」
ミスアンノウンは目前の花壇に視線を落とす。それに釣られて私も花壇を見ると、スノードロップの花が凛として咲いていた。
「この世に特別なものなんて1つもないの。ここに来るとね、噴水も、動物も、花も、人も、全て等しく自然の1部なのだと実感する事ができる。地味だけど歪さが無く、とっても調和の取れた場所。ありのままの、自然を感じられる場所。だから私はここが好きなんだろうねえ」
感慨も、感嘆も、全く私には浮かばなかった。けれど、彼女の言っている意味はちゃんと理解できた。
きっと、この人は世話をする花1輪1輪に愛を注いでいるのだ。だからどの花も輝いて見える。噴水前の前の花も、ここに植えられている花も、私にとっては等しく美しい。
私もミスアンノウンも、口を閉ざして花を見る。風が優しく花を揺らす。
何故だろう。今この瞬間だけは時間がゆっくりと流れてるように感じる。
ああ。きっと、目の前の花達のせいだ。なにせ、私は生まれて初めて、花に見とれているのだから。
私が切り捨ててきたもの。視界にすら入れなかったもの。でも、今はそれに気がつけただけでいいと思う。
普通に他人と話して、普通に花を愛でて、普通に笑う。そういう生き方も悪くないと、やっと思えたのだ。
静寂が2人の間に流れる。その間、ずっと花を見ていた。ぼんやりと花を見ている時間が、とても心地よかった。
けれど、終わりは突然やっくる。
「あ、またここにいたんですね! 祭りの準備も全然終わってないのに、休憩は駄目ですよ!」
いつの間にか私達の目の前に知らない女が立っていた。年齢は30代前後。スラリと伸びた黒髪に、小さく開かれた目。柔らかな口調が自然と警戒心を下げさせる。
「ちょっとお話してただけよ。ね、スノウちゃん」
「………………」
半ば強制的に、が抜けている気がする。
「ほら、困ってますよ」
目の前の女は少し呆れた顔をしつつ、気を取り直すように私の方を見る。
「私はシーリア・アンバー。彼女と同じここの庭師よ。よろしくね」
シーリアと名乗った女は私に微笑む。アイス屋やミスアンノウンと違い、良い意味で社交的な人だった。一方的に言葉というボールを投げてこない。
「シーリアちゃんも一緒に休みましょう。涼しいわよ、ここ」
「人前でちゃん付けは止めください。困ります」
不満と微笑みを交えながらミスアンノウンに訴える。
普段からこういうやり取りをしているのだろう。ミスアンノウンは悪戯をする子供のような笑みを浮かべている。
「あら、ごめんなさいね。お祭りの運営係さん」
「いい加減怒りますよ。早く戻らないとイルドさんに怒られちゃいます」
「はいはい」
イルドという知らない名前が出るが、深くは追求しない。
2人の会話から察するに、ここでは近々お祭りがあるらしい。その準備から逃げてきたミスアンノウンについては、うん。何も言わない。
『また』と言っていたということは、ミスアンノウンはこの手の常習犯ということだ。そういう人に何を言っても無駄なことは、もう学習している。
お祭りの運営係さんがミスアンノウンの手を引っ張って離れていく。ミスアンノウンには年上としてのプライドが無いらしく、手を引っ張られながらも反対の手でこちらに手を振っている。会って2日しか経っていない他人に自然な笑顔を見せながら。
私は母様の子だ。母様のように美しく、優しく、聡明であるべきなのだ。
けれど私を美しいと言うにはまだまだ子供で、優しいと言うには他人を拒絶し過ぎていて、聡明と言うには何もかもが足らなさすぎる。
あまりに欠けすぎていて、作りかけの人形のように不完全。
そしてそれを良しとする程、私は怠惰ではない。
他人を拒絶せず、受け入れる。
やっと前を向けた私は、まずそこから始めるべきだろう。不快感を飲み込んで、ゆっくりと。
だからとりあえずは、
「名前、ちゃんと聞かなくちゃ」
遠のいていくミスアンノウンを見ながら、そんな結論に達した。