その5
知らない部屋。
知らない時間。
知らない人。
これは、いったい何だ。
☆
今更だけれども、エレベーターのドアは自動で開くのだな、と思う。
スライドしていくドアの向こう側には、スライドしていく雲が、結構なスピードで渦を巻いている。
「展望台?」
見える範囲はガラス張りの、やり過ぎかという位、天井までガラス張りの展望台。
床は鏡のように磨かれていて、一歩踏み出すと、はっきりと自分の影が映り込む。
「なにこれ、気持ち悪い」
おかしくなりそうなスペース。
エレベーターは、二人が下りたのを確認すると、チンと機械的な音を立てて仕事を終えた。
再び、何の表示もなくなるドア。
「なかなか、面白い世界だと思いませんか」
すっと。
脇から前へ進む。
「赤裸々に全てをさらけ出すのには、もってこいのスペースですね」
くるっと、こちらを向く。
「何言ってるの。おかしいんじゃないの」
ガラスの天井と鏡の床は、太陽が出たら居られないくらいのフライパン状態を作り出すのだろうけれど、曇っている空は、そんな熱量をどこにも与えずに。
「だから、居場所はありますかって、さっき聞いたんです」
雲は流れているのに、外の音は聞こえない。
「なのに、答えてくれないなんて、不親切ですよね」
髪が、ふわっと舞う。
「ドキドキしますか?」
服の襟に、手をかける。
「ドキドキ、しますか?」
ボタンを、一つ一つ外していく。
「こんなに開放的な世界は、どこにもないです。たった二人きり。誰も、何も見ていない世界。ここが、あなたの家でなくて、どこだって言うんですか」
何だ、この子。
さっきとはまるで別人で。
何を言っているのか、よくわからない。
「家の中で、一人で、気兼ねなく、過ごす。誰かがいるって意識するから、遠慮する」
上から、順番に、ボタンを外していく。
「誰かって思うからダメなんです。一人だって思えばいいんです」
一番下まで、ボタンを外し終えて。
「一人になればいいんです。一つに、なればいいんです」
自由になった服が、落ちる。
「ドキドキして、くれていますか?」
ボタンを外した手が、迫ってくる。
「逃げないんですか」
☆
ちらちらと、ガラスが濡れる。
濡れているのは、鏡かもしれない。
よくわからない。
何がちらちらして、何で濡れているのかもわからない。
水みたいに。
ネバネバしている。
絡み合って、糸を引く。
気持ち悪い。
「逃げないんですか」
耳元で、囁く声がする。
「逃げないんですね」
笑っているように。
「逃げなかったんですよ」
そうだ。チャンスはいくらでもあった。
「逃げられなかったんじゃないんです」
出ていこうとも、置いていくこともできたはず。
「逃がさなかったんです」
また、粘っこい音がする。
「逃がそうとしなかったんです」
耳の奥が、塞がれていく。
「っふ」
体が震えて。
「ここが、居場所ですから」
風が、抜けていく。
☆
鏡の上で滑りそうになりながら、恐る恐る、端まで歩いていった。
ガラスはとても透明で、でもそこにガラスがあるということはわかるくらいには濁っていて。
流れる雲の下。
地面はとても遠く、じゃぁ、今僕が足を付けているこの鏡は何だ。
僕が足を付けているところが地面じゃないのか。
ガラスの壁は地面にはなりえない。
たとえどこまでも透けていたとしても。
「あなたは、誰」
向き合って、問いかける。
「今更、ですね。誰かもわからない、何者かもわからないのに、同じ部屋にいて、同じものを食べて、一緒に逃げ出して」
確かにそうだ。
「一緒に逃げる必要なんてなかったんです。だって、逃げる手間が倍に増えて、誰かに見つかるリスクが増えて、失敗する確率が上がるわけですから」
そう。
一人の方が気楽だった。
きっと。
「なのに、一人で逃げ出さなかった」
どうして。
「どうして?なんて、わからないから」
わからないから。
「わからないから、こうやって、埋めてあげるんです。何かで」
☆
「わけ、わからない」
「わかりませんか」
「わからないということじゃなくて、君が、なんとなく真ん中あたりでかかわっているようなことは感じるけど。そうじゃなくて」
「どうしてあなたなのか」
「どうして僕なのか」
必要性がない。
帰り道に、わざわざ車で、誘拐する意味がない。
「必要ないからですかね」
必要ない?
「居場所がない人は、必要がないですから、その人に、必要を分けてあげたくなったんです」
「食事のように?」
「食事のように」
なんだよ、それって。
「必要のシェアです。慈善活動です。趣味ですね」
だから。
「だから、誘拐された時にも、あんなに余裕があったのか。朝からシャワー浴びたり」
「あなたの寝顔をずっと眺めていたり」
「カートが入ってきた時にも逃げ出そうとしないで」
「あなたがシャワーから出てくるのをずっと待っていたり」
「あのドアだって」
「タイミングを見計らって、電流が流れるようにスイッチを押して」
「どうして」
「どうして?理由がほしいですか?」
理由。
僕である理由。
必要性がないって、さっき言われた。
だから、理由もない。
「だから」
「余裕がない顔をしていますよ」
すっと、目がほしくなる。
「楽しいですね」




