九
視界に、河と丘が映る。
この、河と、あの、丘は。夕日に照らされた、既視感のあるシルエットに、リズミはごくりと唾を飲み込んだ。丘の上の尖塔の形から、目の前の丘が、先程まで魔物と戦っていた場所、王宮だとすぐに分かる。何故、自分達は、王宮の外に? そうだ、セアは? 急に慌てたリズミは、しかしすぐに、尻餅をついたような格好で、やはり呆然と、影になった王宮を見つめるセアを、自分の傍に見つけた。セアの横には、同じく呆然としているヴェシオが居る。
〈大丈夫か、セア?〉
リズミの言葉に、セアが顔を上げて首を横に振る。だか、おそらく先程の大女の所為なのであろう、セアの衛士用脚絆に血が滲んでいるのが、見えた。怪我の具合は分からないが、とにかく、手当てしなくては。河原で傷を洗おうと、リズミはセアを抱き上げた。
と。
「ちょっと力が足りなかったかな、やっぱり」
リズミの後ろ、叢になった場所がざわざわと揺れると同時に、明るい声が耳を打つ。この、声は。振り向いて初めて、リズミは、背後が森であることに気付いた。この、森は。
「ようこそ、『魔女の森』へ」
リズミの前には、セアの同室者、ジュリアの、明るいが油断の無い笑顔があった。
「私は『動く者』。『森の魔女』の意を汲み、行動することが定め」
不可視のはずのリズミを見たジュリアが、森の奥を指し示す。
「普段は男性は入れないんだけど、今は緊急事態だから」
危険だ。警告が、リズミの脳裏に響く。この森に棲む『森の魔女』達と関わることは、セアにとって危険だ。だが。
「セアの怪我の手当、必要でしょ」
ジュリアの言葉に、頷かざるを得ない。
呆然とした顔のセアを抱き上げたまま、リズミはジュリアを一瞥すると、覚悟を決めて森の中へ入った。
セアの運命がどうであれ、セアを守りたい気持ちに、変わりは、ない。
しばらく歩くと、木々が開ける。
青や黄色の、ぼうっとした不思議な明かりが、リズミの目を射た。
ここにも、二度と来ないと、思っていた。だが。……これも運命だと、いうのだろうか?
「ようこそ」
木の影が、動く。現れたのは、黒いベールと黒いローブを纏った小柄な影。
「我が名は、リネア。この森を『統べる者』」
「統べる、者?」
リズミの腕の中に居たセアが、小さな声を発する。
〈この森の、頭領だ〉
リズミも小さな声で、セアの疑問に答えた。
「よく知ってるわね」
そのリズミの後ろから、ジュリアの声が響く。振り返ると、ヴェシオの手を握ったジュリアの姿が見えた。
「この者は、昔ここへ来たことがあるからな」
ジュリアの言葉に『統べる者』リネアが微笑む。
「ふーん」
ジュリアは驚いたように口を開くと、ヴェシオを広場の真ん中に運んだ。
「諸々の話の前に、セアを治療しなくては」
『統べる者』リネアが、後ろを向く。すぐに、影の中から、濃い色のローブを纏った背の高い女性が進み出た。
「誰?」
「私達の仲間の一人。『視る者』」
リズミより先に、いつの間に傍に現れたジュリアがセアの問いに答える。
「さ、セアを下ろして」
ジュリアにいわれるまま、リズミはセアを、柔らかい苔の上に下ろした。
「セアには魔法が効き難いから、注意して」
ジュリアの言葉に、ローブの女性が頷く。
「ここに飛ばすのに、何人の『視る者』の力が必要だったか」
ぼやくようなジュリアの言葉を、リズミは聞き逃さなかった。ジュリア達が、セアを、助けた? 何の為に? その答えを推測し、リズミはぐっと唇を噛んだ。セアを、運命に巻き込んだ。今すぐ、セアをここから連れ出さねば。焦りに似た考えのままに、セアを抱き上げようとしゃがみ込む。だが。リズミの行動は、ジュリアのきつい視線に遮られた。
セアの傍に跪いた女性の右手が、草の上に腰を下ろしたセアの脚に触れる。すぐにローブの女性は立ち上がり、ジュリアに向かって首を縦に振った。どうやら、セアの怪我は大したことにはなっていないらしい。良かった。リズミはほっと胸を撫で下ろした。
対して、セアは。
「ごめんなさい」
不意に、セアが謝罪する。誰に、謝っている? 訝しむより早く、リズミはジュリアを睨んだ。先程のジュリアの言葉に、セアは自責の念を抱いたのだ。
だが。
「謝ることはない」
ジュリアがセアに何か言う前に、『統べる者』リネアの優しい声が響いた。
「その『力』が、必要なのだから」
やはり。ジュリアに睨まれて動けないので、殊更大仰に息を吐く。そんなリズミを無視し、『統べる者』リネアは広場の真ん中に呆然と立ち尽くすヴェシオの前に立った。
「話の前に、確かめておきたい」
リネアが、ジュリアを手招きする。
「この中で一番力が強いのは、ジュリア、そなただ」
リネアの言葉に、ジュリアはふっと微笑むと、リネアの手招きのままにヴェシオの横に立った。
「この封印が、解けるか?」
ヴェシオの顔下半分を覆う、金糸の刺繍が光る黒布をその節くれ立った指で示しながら、リネアがジュリアに問う。ジュリアは整った眉を顰めると、ヴェシオの顔に掛かった布に細い指を掛けた。すぐに。
「無理です」
布から指を離し、ジュリアが溜め息をつく。
「そなたはどうかな、フワーリズミ?」
全く唐突に、リネアはリズミを指差した。
〈俺か?〉
ヴェシオの顔を覆う布に何らかの強い魔法が掛かっていることは、何となく察していた。だが、それを外せとは。一体何を考えているのだろうか? 首を傾げつつ、リズミは渋々ヴェシオの横に立ち、件の布に手を掛けた。リズミの腕力なら、こんな薄い布ぐらい、軽々と裂くことができる。
だが。
〈……え?〉
破くことも、布をヴェシオの顔から外すことすらできない。リズミは呆然と、その場に固まった。だが。この布に掛かっている『力』には、覚えがある。リズミはごくりと唾を飲み込んだ。女王が身に付けている鮮紅色の『石』の力、だ。
「さて、セア」
呆然とするリズミの横で、リネアは今度はセアを手招きした。
「そなたなら、外せるはず」
「私、が?」
半信半疑のセアの声が、リズミを慌てさせた。ダメだ、セア。来てはいけない。自分の力を、証明しては、いけない。だが、リズミの警告が聞こえなかったのか、セアは脚の怪我を庇ったまま立ち上がり、おもむろにヴェシオの後ろに立った。そして。布を固定していた紐の結び目を、セアはいとも簡単に、解いた。
次の瞬間。ヴェシオの影が、一気に伸びる。
〈はいっ?〉
リズミ達の前には、小さな少年ではなく、少し細いが堂々とした美丈夫が立っていた。
「……あ」
その美丈夫の口が、動く。
「俺、は……?」
「封印が解けたな」
これが、本来のヴェシオ王子。リネアはそう言うと、口の端を上げた。
「これではっきりした。セアが、正規の女王、だ」
「え」
リネアの言葉に、セアとヴェシオが同時に声を上げた。
「そんな」
「嘘よ」
ヴェシオの驚愕に、セアの否定が混じる。
混乱する二人に、リネアは辺りを見回して言った。
「誰か、説明できる者は?」
リネアの言葉に、森中の影が動く。しばらく経ってから、小さな影がセアとヴェシオの前に現れた。
「アン!」
影を見て、セアが驚きの声を上げる。長過ぎるローブを纏ったその少女は確かに、セアが王宮から救った少女。
「彼女は『記す者』」
ジュリアがそっと、セアに告げる。『森の魔女』の使い走りであるポワンが連れて来たのだということも。
「ここに来たばかりだけど、才能が分かったから」
『森の魔女』達の行動を脳裏に記録し、覚え、次の世代に伝えるのが『記す者』の役割。『森の魔女』達の中でも、重要な存在。ジュリアはそう、セアに告げると、セアの右手を取った。ジュリアのもう片方の手は、アンの小さな手を握っている。魔女達は互いに手を繋ぐことで、記憶を共有することができる。アンのもう片方の手はリネアが握り、リネアは、ヴェシオの手に自分の手を重ねている。誰かに奪われる前に急いで、リズミはセアの開いている左手を強く握った。
セアのことを、知りたい。何があっても守る為に。それが、リズミの偽らざる思い。