八
掃除をし、王子と取り留めも無い話――但し、王子は喋れないのでセアが一方的に二言三言話すだけだが――をして、一日が終わる。こんな日々を、何日続けただろうか。今日も、セアとリズミはせっせと、使われそうにない謁見の間を掃除していた。
今日は何故か王子が現れないので、掃除はさくさくと進む。女王自身が外に出て親政をしようとしないのだから、謁見の間など無用の長物。それなのにセアは真面目に掃除に勤しんでいる。呆れながらも、それでも毎日、リズミはセアに付き合った。どんな仕事でも、セアが満足していれば、それで良い。
と。
一階の、女王の椅子に近い側にあるステンドグラスを磨いていたセアの手が、不意に止まる。どうした? そう、リズミが尋ねる前に、セアは女王の椅子の方へと耳を向けた。
「泣き声が、聞こえる」
セアの言葉に、耳を澄ます。だが、リズミの耳には、泣き声など全く聞こえない。ただ、どこからか入ってくる隙間風の音が、聞こえるだけ。よしんば風の音ではなく本当に泣き声だったとしても、セアを危険に近づけるわけにはいかない。ここは、女王の居室のすぐ近くなのだから。
だが。
〈風の音さ〉
事も無げにそう言ったリズミの言葉を押しのけるように、セアは埃っぽい女王の椅子の側に立ち、耳を澄ませる。すぐに何かを見つけたらしく、セアの身体は、女王の椅子の横向こう、古いタペストリーが作る陰の方へと向かっていた。
〈おいおい〉
溜め息をつくより早く、追いかける。セアが他人を見捨てておけない性格なのは、今に始まったことではない。しかし、である。何があるか予想もつかないのに突っ走るのは悪い癖だ。
〈……お〉
セアを追ってタペストリーの陰に入ったリズミは、その場所に扉があることに驚いた。いや、ここは謁見の間なのだから、女王の居室と謁見の間とを繋ぐ出入り口があること自体はおかしくはない。だが、汚れた木壁と区別がつかない、こんな見窄らしい扉が、その出入り口であるとは。リズミは正直肩を竦めた。
だが。
〈ちょっと待て、セア〉
その見窄らしい扉を開けようとするセアを、慌てて止める。
セアはリズミの方を見、首を横に振った。
「この先から、聞こえてくるの」
おそらく泣き声のことを言っているのであろうセアが、もう一度、首を横に振る。だが、リズミには全く聞こえない泣き声の為に、セアが苦労するのは、馬鹿げている。リズミはセアを止める為に、扉とセアの間にその身をねじ込んだ。
と。
リズミの何かに反応したのか、音も無く、扉が開く。リズミにしか分からないほど微かな、漂って来た血の匂いに、リズミの全身が総毛立った。
この先に、行ってはいけない。無意識に、扉の向こうに行こうとしたセアの右腕を掴む。だがセアは、リズミの方を見て首を横に振ると、扉の先に見える階段に足を掛けた。仕方が無い。何度目かの溜め息を吐いてから、セアの後ろにぴったりと付き従って階段を下りる。階段を下りきった先には、細い光の漏れる隙間が、あった。
その隙間の、先には。
〈うっ〉
目にした光景よりも先に、濃い血の匂いに、目眩がする。リズミは慌てて、頽れたセアの身体を静かに支えた。リズミの目に映るのは、深紅の色。裸にされた娘達が鞭打たれて倒れる光景と、呻き。そして鞭を持ち、興奮で顔を赤くした、エナ女王。
「リズミ、これ……」
セアの言葉に、リズミはセアの口を塞ぐ。セアを連れて、戻らねば。頭ではそう、思っているのに、身体が思うように動かない。
動けないリズミの前で、エナ女王が今度はナイフを手にする。倒れている娘の一人――その娘は、セアの前に謁見の場の掃除担当だった娘に似ていた――の髪を鷲掴みにすると、エナ女王はその娘の首にナイフを突き立てた。
狭い空間に、娘の絶叫が響く。娘の首から噴き出した血を、エナ女王は美味しそうに吸い始めた。娘の血には、若返りの効果があるという噂がある。ただの取るに足らない噂だが、エナ女王は信じているらしい。血に濡れた口許が、艶冶に綻んだ。
と。
恍惚としたエナ女王の視線が、リズミ達の方を向く。気付かれた。そう思う間も無く、リズミは呆然とするセアを抱き上げ、階段を駆け上がった。
「ユイット! アハト!」
甲高い声が、背後からリズミを襲う。謁見の間に出た瞬間、リズミとセアは大女の影二つに挟まれた。その一つには、街でお目にかかったことがある。こいつら、女王の眷属だったのか。リズミはセアを床に置くと、殊更慎重に身体を構えた。この大女には、刃物が効かない。殴るしか、無い。そう考えるなり、リズミは、前方から飛びかかって来た大女に力一杯の拳を振り下ろした。予想通り、手応えがある。
「リズミ!」
セアの声が耳を打つ前に、後ろの大女にも、横殴りの拳を浴びせる。しかしながら。……いかんせん、一対二だ。リズミが不利であることは、目に見えている。だが、それでも、セアは、セアだけは守り通さねばならない。
と。
「リズミ!」
再びのセアの声が、耳を打つ。大女の一人の腕の中で、セアが一生懸命手足をばたつかせているではないか。いつの間に。舌打ちする間も無く、セアを捕らえている大女に突進する。だが、もう一体の大女が、リズミの進路を塞いだ。大女と一対一で、力の押し合いをする。だが、焦るリズミの目の端に、もう一体の大女がセアを見窄らしい扉の方が連れて行く様子が映った瞬間、リズミは焦りのままに対峙している大女から身体を離した。セアを、連れて行かせるわけにはいかない、だが、大女二体に対抗する方法が、分からない。
次の瞬間。セアの手から、何かが落ちる。前にルームメイトのジュリアがくれた、シャトルだ。リズミがそう理解する前に、セアを捕まえていた大女から絶叫が上がった。更に。リズミと大女の間で、光が爆発する。
「ヴェシオ王子!」
セアの叫びに振り返ると、リズミの後ろに古い傷が目立つ腕が、見えた。ヴェシオ王子が魔法を使ったのだ。それを理解するのに少し時間が掛かる。だが。
〈これなら〉
大女二体は怯んでいるだけだが、この時間を持て余す程リズミはバカではない。一瞬で、床に尻餅をついたセアを片腕だけで抱き上げる。そしてそのまま取って返すと、怒りの形相を見せた大女が襲い掛かっているヴェシオ王子の小柄な身体を、ギリギリのところで抱き上げた。セアの為に身の危険を顧みず魔法を使ってくれたのだ。そのヴェシオ王子を助けなかったら、後でセアに何と言われるか。
それはともかく。
あとは、逃げるだけだ。リズミがそう思った正にその時。
〈え?〉
一瞬で、視界が反転する。
とにかく、セアだけは守らねば。リズミは反射的に、セアをぎゅっと抱き締めた。