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元少女と元少年  作者: まつ
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第四章

SIDE レイ



 歩いている途中から、もうだめかもしれない、と私は思っていた。

 ついに時がきてしまったのだ。

 周りから見えなくなっている私だが、かろうじてまだ、私は“私”を認識していた。透明人間でもたしかにまだ存在していたのだ。

 そんな私もついに“私”を認識できなくなってきていた。

 何故か真っ直ぐ歩けなくて、ふらふらと漂う。視界がぼやけて病室のナンバープレートがうまく見えない。

 消えてしまう。

 もういまさら哀しくなかった。

 でも手に握ったこの鍵だけは、コウに届けたかった。

 あと少し。あと少しでいい。

 この鍵が、私の手をすり抜けませんように。

 それだけを願いながら、私はコウの病室を目指す。

 もうそこまで来たところで、車椅子に納まるコウとそれを押すミドが帰ってきた。本当はコウが帰ってくるまでにそっと鍵を置いていくつもりだったのに……。

 仕方なく、彼らがスライドドアに手間取っている間に、壁をすり抜け病室に入る。

 すぐに病室に入ったコウが何かを感じたように、せわしなく首を動かしている。

 気付かれただろうか。

 いいや、大丈夫。

 私は幽霊。見えるわけがない。

 手が震えてきた。

 私でも“私”が霞んで見える。

 ああ、もう消えてしまう。でも最後にコウの役に立てそうでよかった。

 私の最後の友達で、同じ病で闘う後輩。

 せめて彼女のいまが長く続くといい。

 私はそう願――


   ●


 急にどこからか現れた鍵が、ぽとり、とベッドの上に落ちた。

第四章


   ●


「これどこの鍵だと思う?」

 翌日、コウは病室にやってきたミドにそう尋ねてみた。

「なんだ、それ。どこで拾ったんだよ」

「拾ったんじゃないの。ベッドに置いてあったのよ」

「ベッドに置いてあった? だれの?」

「あたしの」

「だれが?」

「知らないわよ。昨日病室に帰ったときにはもう置いてあったんだから」

「どこの鍵なんだ?」

「……だからそれを訊いてるんじゃないの」

 会話が一回りし、これ以上ミドに訊いても埒が明かないと見切りをつけ、コウは違う人に尋ねてみることにした。

「もういいわ。レッドのとこに連れてって」

 車椅子に腰掛けたコウは、まだ悩み顔をしているミドにそう頼んだ。



「これどこの鍵だと思う?」

 ミドに車椅子を押され、レッドの病室についたコウはレッドに同じ質問をしてみた。

レッドはベッドの上で点滴につながれていた。いつものように額には冷却シートが貼ってある。

「鍵か。どこで見つけたんだ?」

「あたしの部屋。昨日、病室に帰ったら置いてあったの」

「不可解だな。看護師か西方先生に訊いた方が確実なんじゃないか?」

「いやよ。取り上げられちゃうかもしれないじゃない」

 レッドの言うことはもっともだ。

 しかし、病院の関係者に渡してしまっては、たとえどこの鍵なのかわかってもコウが実際に開けにいくことはできなくなるだろう。

「……お前なあ。大事な鍵だったらどうするんだ」

 レッドが呆れたように白い目をする。

「それはちゃんと返すよ」

「ならまあ……」

 レッドはあまり乗り気ではないようだ。

 コウだってこの鍵を悪用しようというわけではない。医療に重要な部屋の鍵だ、なんてことが判明すれば即座に看護師や西方に返すつもりでいる。

「三人いても、思いあたる場所はないかー」

 三人寄れば文殊の知恵、とはいうが全く思い当たる節がない。

 蝉の鳴き声が、病室の中まで響いて夏の暑さを主張してくる。

 考え込んでいる間、蝉の鳴き声だけが聞こえていた。

「なあ、どうせなら病院内を探検してみて、どこの鍵なのか突き止めないか?」

 不意に、そこまで無言だったミドが、急に目を輝かせて言った。

 ――言うと思った。

 コウはミドがそういうであろうことは予想していた。

「それは最後の手段ね。あたし車椅子だし移動とか大変じゃない。まあ押すのはミドだから、苦労するのはミドだけなんだけどね。あたし座ってるだけだし。探すにしても、できるだけ候補は絞ってからのほうがいいわ」

 あらかじめ用意していたセリフを一気にぶつける。

 コウはあまりミドに迷惑ばかりかけたくなかった。手足が鉱石化してしまったので仕方なく車椅子に乗り、ミドに押してもらっているが本当はそれが嫌だった。

 けれどわがままを言って、更にミドに迷惑をかけるわけにはいかない。なので、こんな言い方になってしまうのだ。

「コウに賛成だ」

「……うーん。候補、ねえ。鍵がかかってた部屋なんかあったか?」

 毎日同じ場所にいれば、自然と生活パターンは決まってくる。ここでの生活に完全に慣れてしまったからこそ、普段は行かない場所に見落としていることがあるはずだ。

 そこまで考えたところで、コウはひらめく。

「あ、モリに訊いてみるか」

 知っている患者で、一番ここでの生活歴が浅いのはモリだ。彼女なら、なにか気付いてくれるかもしれない。

「じゃあまたねー」

 ほら、モリのとこいくわよ、とミドに催促して車椅子を押してもらい、レッドの病室を出た。



「これどこの鍵だと思う?」

 モリの病室について、三度その質問を繰り返す。

「鍵ですか。どこにあったの?」

 相変わらずの敬語とタメ口が混ざった喋り方で、聞かれる。

 このやりとりも三度目なので、だんだん答えが雑になるのは仕方ないだろう。

「あたしの病室のベッドの上」

「うーん。この病院に鍵がないと入れない部屋なんてあったですかねえ」

 モリは顎に手をあて、難しい顔をする。

「モリでもだめかー」

 ミドはそう言って腕を組む。

 新規入院患者でも気付いたことがないとなると、これはミドの案を採用し一から探さなければならなくなるかもしれない。

「あっ!」

 そう覚悟を決めつつあったとき、モリがなにか思いついたように大声をあげた。

「あそこだ! 一か所あったじゃないですか!」

「どこどこ?」

「五階のはじっこの!」

 五階といえば、病院の最上階にあたる。そこのはじっこ、というと……。

「あ! 確かにあった気がする!」

 レイに院内を案内してもらったときに、たしかそんな扉があった気がする。あれはきっと屋上に続いているであろう扉だ。

「よし。そうと決まれば行ってみるぞ!」

 三人は五階のはじっこに行ってみることにした。



 エレベーターを使い、三人は五階にやってきた。

 ミドはいつものようにコウの車椅子を押し、モリはその隣を歩き、その扉の前に立った。

「これか」

 本当に鍵がかかっているか、モリはためしにノブをまわしてみた。

「開きませんね。たしかに鍵がかかってるです!」

 その報告を受け、三人は顔を見合わせる。そして頷きあい、コウはモリに鍵を渡した。

「やってみて」

「はいです」

 モリは鍵穴に受け取った鍵を差す。そしてそれをくるりと回すと、カチャッという音が聞こえた。

「開いた!」

「ここの鍵だったのか! 一発正解なんて運いいな、俺ら」

「……でも一体だれが」

 どこ鍵か分かれば、後に残る疑問はそれだ。

 コウとミドとレッドはどこの鍵なのか、見当すらつかなかった。ここの鍵じゃないかといったのはモリだが、もしモリが鍵を持っていたとしたら、モリがコウやミドの病室を直接訪ねていただろう。

 ――まさかこの病院、幽霊でも出るんじゃ……。

 そんな現実味のないことを思ったとき、幽霊という単語に引っかかった。コウが幽霊と言われて思いつく人物といえば。

 ――レイさんが……? いやまさかね。

 馬鹿げた思いつきを瞬時に否定する。レイはこの病院を去った。少なくとも、コウの中ではそんな話になっている。わざわざ戻ってきて鍵を置いていった、なんてとてつもなく可能性は低いだろう。

 どうにも不可解さが残るが、考えたところでそれらしい答えはなにも見つからない。

「はやく屋上に出ようよ!」

 モリがはしゃいだ声で、二人を急かした。

 ミドは車椅子を押し、三人は屋上に出た。

 途端にむっとする空気が全身を包んだ。外に出て数秒なのに、じんわりと汗が滲んでくる。蝉の鳴き声が、その音量を一気に上げる。

 院内では季節を感じることはほとんどないが、世間的にいうと現在はまだ夏だ。

真夏の暑さは、普段快適な空間にいる三人にはきつかった。

屋上から見える外界の景色は、ずっと続く木々と青空のみだった。

期待はしていなかったが、遠くの方に少しくらいは街並みでも見えるかと思ったが、隔離レベルはそんなに甘くなかったようだ。

「わぁ。外だ! やったあ!」

「あっちぃな」

「あっつ……」

 三人がそれぞれに感想を口にする。途端に暑さにやられたコウとミドは、手で顔を仰ぐ。モリはそんな二人を置いてけぼりにして、屋上を走り回っていた。

「若い子は元気ねえ」

「若いっていいなあ」

 コウもミドもまだまだ十代だと思われるが、暑さをものともせず走り回っているモリよりだいぶ老けて見える。まるで、孫を見守る祖父母のようだ。

 風は生ぬるく気持ち悪い。汗はさっきから絶えず、額を背中を伝っている。なにより、日差しに焼かれてしまいそうだ。

 そんな不快な気候にも関わらず、コウは不思議と嫌ではなかった。そしてそれはミドもモリも一緒だった。

 なにしろ、コウをはじめ三人には、ここに来る以前の記憶がない。したがって外で遊んだ記憶もないのだ。

 すっと病院内にこもっていたので、どんなに暑くても「外」というだけで新鮮だった。さすがにモリのように走り回ろうとは思わないが。

 そしてその時、くるくる円を描くように走っていたモリが急停止する。いま出てきたばかりの扉の隣に視線を注いでいる。

「どうした?」

 何とはなしに、ミドが訊く。きっと走りつかれて立ち止まったんだろう、程度にしか思っていたなかった。

「モリ?」

 返事をしないモリを不審に思い、コウは再度呼びかける。

「……あれ、階段ですよね?」

 ぼーっとしながら答えたモリは、見ている方をゆっくり指さす。

 コウとミドはモリが示す方向へ、そろって首を向けた。

「……ほんとだ」

「なんでそんなとこに階段が?」

 ミドの問いに答える者はいない。

 三人が注目しているところにあるものは、たしかに階段だった。そのまま、下に続いていっている。

 ミドとモリはコウを置き去りに、階段に近寄った。

「ちょっと! 置いてかないでよ!」

 抗議するものの、コウの手は鉱石化してしまっているために車椅子のタイヤを操ることはできない。

 二人はすぐにコウの元に戻ってきた。そしてそのままミドは、コウをお姫様抱っこして持ち上げた。

「は? え? なに! 降ろしてよ!」

 空になった車椅子をたたんで、モリが持つ。二人はそのまま、階段に近づいていった。

「降ろしてって言って――」

 再び抗議しようとしていたコウだったが、階段の前について言葉が出なくなる。

 階段は病院の壁に沿って、一直線に伸びていた。そして、それは中庭に続いている。つまり、これを下りれば中庭に行ける。

「これが、中庭への行き方だったんだ」

 レイと探したとき、一階には中庭に通じる扉はなかった。中庭に出られる、と今村から聞いていただけに疑問が残っていた。しかしそのあとすぐにレイが消えてしまったり、ミドとの思い出作りがはじまったりと忙しくしていたために、中庭の謎なんてすっかり忘れていた。

「降りるぞ」

 コウを抱きかかえたミドは、慎重に階段を降り始める。そのあとを、車椅子を持ったモリが続く。

 一段一段ゆっくりと、中庭に近づいていく。地上に降り立つそのときを、コウはミドの胸の中で大人しく待った。

 かさっ……。

 ミドが一歩、中庭に生い茂った草を踏みしめた。遅れて着いたモリが車椅子を地面におろし、広げてくれた。鉱石化が進んでいるコウも車椅子もそれなりに重いはずだが、二人は文句も言わずにここまで運んでくれた。

 ミドはゆっくり車椅子にコウを座らせた。

 二つ並んだ病棟に並行するように中庭の真ん中には砂利石を敷き詰めた道がある。その中央あたりに煉瓦で円形に囲まれた花壇があった。春頃にはきれいな花が咲いていたが、いまは何も生えていない。道以外の場所は芝生になっていて、そこに等間隔に木が植えられている。青々としていて、眩しく感じられた。

「やっとこれた……」

 レイのことを思いだした。ここに直接、レイと二人で来たことはないけれど、なぜかレイとの思い出がよみがえった。

「わぁ! 地面だあ! 草だあ!」

 モリが再び走りまわる。その動きに合わせて、楽しそうに緑の髪が踊っていた。

「よかったな」

 その言葉にミドを見上げると、やさしげな微笑みを浮かべていた。

 思えば、ミドと初めて出会った日。レイを探して病室を飛び出したときも、そのあとに落ち込んで帰ってきたときも、ミドはなにも聞かなかった。もちろんレイと中庭への出かたを探していたことも言っていない。なにも知らないのにここへ連れてきてくれて、何も聞かないまま笑ってくれた。

「ありがとう」

 ミドの気遣いが、とても心に染みた。

 やはり、鍵を届けてくれたのはレイだったのかもしれない。コウがここへ来たがっていたことを覚えていてくれて、中庭に出る方法を探していてくれた。そう思うと、自然と心は温かくなった。

 ――やっぱりレイさんは生きてる。

 消えてなくなってなんかいない。

 訊かれたら話すつもりではいたが、自分からレイとの思い出を話そうとは思わない。レイは生きていると信じているから別につらい思い出というわけではないが、コウにとっては大切な思い出だったから。

 コウにとって、レイはこの病院で出来た初めての友達だった。

 病気にかかったこと自体は不幸だったかもしれない。けれど、レイのようないい人に出会えたのは病気になったからだ。

 レイだけじゃない。なにも知らないままに傍にいてくれるミドもモリも、いまこの場にはいないがレッドも、この病気にかかったからこそ出会えた、かけがえのない友達だ。

 無邪気に遊ぶモリとそれに参加しようと駆け寄って行くミド。

 二人を見て、コウは“コウ”の人生も悪くない、と思った。

「あたしもまぜてよー!」

 コウの声に反応した二人が駆け寄ってくる。

 汗がつうーっと背中を伝っていく。腰から太ももにかけては、車椅子に座っている所為で蒸れて気持ち悪い。

 けれど、もうそんなの気にならなかった。

 ――このままずっと、遊んでいられたらいいのに。

 コウは心からそう願った。病気のことなんか忘れて、思い出作りを続けて、楽しく笑い合っていたい。

 けれど、体をむしばむ病魔がそれを許さなかった。


   ●


 それからまた、三か月経った。もう入院生活も半年が過ぎたことになる。日めくりカレンダーもだいぶ薄くなった。

 季節は秋に移り変わり、病室からは赤や黄に色鮮やかに紅葉した街の木々が見渡せる。病院内の廊下の色紙ももみじや銀杏などに変わっている。そして、気が早いことにもう暖房がつけられていた。

 コウの病気はだいぶ進み、水晶はどんどんその範囲と美しさを増していった。コウの両腕は肘まで、両足はひざまで水晶になってしまった。手足の関節が動かないため、もう自分で出来ることはほとんどなくなっていた。

「痛いとこはない?」

 現在、コウは病室で今村にマッサージされていた。腕が重いので肩こりがひどかった。

「背中と肩が痛いですー……」

 ベッドに座らされ、ずっとマッサージをしてもらっているのだが、あまり状態はよくならない。

「痛み止めの薬、出してもらう?」

 とくになんの治療もされないがここは病院だ。一人だが医者もいる。患者が体の不調を訴えれば、それに見合った薬はちゃんと処方される。

「……遠慮します」

 コウはいま薬を使ってしまうのが怖かった。寿命は一年と言われているので、いまはちょうど半分くらい進行したことになる。が、いま薬で痛みを抑えたら、この先症状がひどくなったときに薬が効きにくくなってしまうかもしれない。そのことを危惧していたのだ。

「我慢できなくなったら言ってね? 対処するから」

 今村はコウをベッドに横たえ、そう言って病室を出て行った。

「はあ……」

 思わずため息が零れた。

 もう車椅子に移動させてもらうのも苦労をかけるようになった。なんといっても鉱石なのでとても重い。看護師と言えど、今村もかなり苦戦しているようだ。運よく近くを通ったほかの看護師に助けを求めることもあった。

 こんな迷惑をかけることになると思わなかった。

 ミドのしたって、モリにしたって、二人は元気に歩いているのに。

「はあ……」

「なんだよ、ため息ばっかりついて。暗いぞ」

 そんな声に顔を上げると、病室の入口にミドがいた。

「そうです。元気だして」

 その後ろからモリも顔を見せる。

 二人はずかずかとコウの病室に入ってくる。もっぱらコウが移動するときはミドかモリに頼んでいるので、文句はない。

「あれ?」

 とそこで、ある変化に気付く。

 昨日までモリの体は植物に覆われていたはずだ。髪には葉がたくさんついていたし、体中につるが巻きついていた。指は一本一本が根のようになり、脆そうにみえた。

 それがいまはどうだろう。

「その体、どうしたの? モリ」

 彼女の体は、至って人間らしいふつうの少女のものに戻っていた。葉っぱなんてついていないし、つるも見当たらない。

 それは完治を思わせるほどだった。

「うちもわかんないです。なんか起きたらこうなってて」

「先生には診てもらった?」

「うん。ここに来る前にちょっと。でもわからないって」

「そっか……。でもよかったね」

 これは本心だ。

 コウやミドも良くなるとは限らないが、モリだけでも良くなったならよかった。

 これを元に研究がもっと進んでくれたらいい。

「そうですかね」

「治ったんならよかっただろ。なんでかわかんないのはもやもやするけど」

 ミドが会話に加わる。

 対するミドは病気がかなり進行していた。ミドの腕は完全に鱗に覆われてしまった。皮膚はもう見えない。足の方も足首あたりまでまばらに鱗が生えているのが見える。もうスリッパが履ける状態ではないので、最近はずっと素足だ。手足の爪は鋭くとがっていて怖い。

前に、ミドがすこし頬をかいただけで出血してしまったり、つかんだ布団を破り使い物にならなくしてしまったことがある。

それからというもの、コウをベッドから車椅子に移動させる役はあまりできなくなってしまった。

「治ったっていうより、引っ込んだって言う方が多分正しいです。嫌な予感がするって言うか……」

 モリはいまの状態があまり嬉しくないようだった。

 コウはこれを自分に置き換えて想像してみる。いま水晶化している個所に肌色の皮膚が戻って来る様子。手は自由に動き、床を自分の足で踏みしめる。

 しあわせだった。

 けれど同時に怖いと思うだろう。

 昨日までひどかったはずの症状が一気になくなったら、なにか悪いことの前兆ではないか、と。こんなに元気でいいんだろうか、と。

 おかしな話だ。

 入院生活が始まったころは、悪くなるのが怖かったはずなのに、いつの間にかいまの姿を受け入れている。

 ともかく、モリのことは慎重にみていよう、と思う。

「まあそんな心配するなって。この病気と闘ってるのは、モリ一人じゃない。例えなにがあっても支えるさ」

「はい……」

 ミドの言葉がコウの心にも染みる。

 そうだ、一人じゃない。

 いまのコウを覚えていてくれるひとが、少なくとも二人はいる。

 それだけで励まされた。

 いや、二人じゃない。いまから会いに行こうとしている人だって、きっと。

「よし、じゃあレッドのとこいくぞ」

 ミドはコウの車椅子を押し始めた。そのあとを浮かない顔のモリが続く。



「入るよ」

 コウがそう言って、モリが横から病室のドアをスライドさせる。

 すると、扉から漏れ出た冷気が三人に襲い掛かる。

「さむっ」

 モリは自分の肩を抱いた。コウとミドも思わず、震えてしまう。

「……すまない。こうすると少し楽なんだ」

 ベッドから弱々しい声が聞こえて来る。

 近寄っていくと、そこには変わり果てたレッドの姿があった。彼の病気は『灼熱病』なので外見はたしかに人間の姿を保っている。しかし全身が赤くなっている。そして全身からなんとなく、蒸気のようなものが出ている気がする。

 こう言ってはなんだが、一目で危ないことが分かった。わかってしまった。

 コウが手を伸ばそうとすると、

「触らないほうがいいぞ……熱いから」

 レッドがそんな忠告をし、コウは大人しくしたがって手をひっこめた。

「いま何度あるんだ?」

「五十度だ。室内はゼロ度にしてある」

 どうりで寒いわけだ。室内は真冬並みになっていたとは。

 けれど、いまはレッドの傍にいるせいかほんのりと温かい。

 モリはレッドと面識がなかったが、この三ヵ月の間に紹介し、仲良くなっていた。二人が最初に会ったとき、レッドはばっさりと、

「なんだその喋り方。きもちわるいぞ」

 と切り捨てていた。

 そんなことを思いだしていた時、

「そろそろやばい。気もおかしくなりそうだ」

 レッドが呟いた。彼の状態からなんとなく予想していた。

 三人はだまってレッドの言葉を聞いていた。

「俺は最初、お前らに会ったとき、俺のほうが全然マシだと思ったんだ。人間の姿は保っていられるし、熱が上がっていくだけって聞いてたからよ」

 コウはレッドに初めて会った時のことを思いだす。

『お前……よく笑えるな。こんな変な病気にかかってるっていうのに。あ……あと敬語きもちわるいからやめてくれ』

 仲良くなりたいと思って、ずっと笑顔でいたコウに向かって、レッドはそう言った。

 最初はたしかにいい印象は受けなかった。それでも、だんだんと彼がべつに突き放そうと思っていたり、わざと冷たくしているわけではないことがわかっていった。

「でも楽しそうに動き回っているお前らの方が……たとえ人間じゃなくなっても、しあわせなのかなって、思ったんだ」

 レッドはそこで言葉を区切った。しゃべるのも辛そうで、見ていて痛々しかった。

「あんまり無理しちゃよくないです」

 気遣ったモリがそう止めるものの、レッドはやめない。

「俺もお前らといっしょに楽しく過ごしたい……。ここでこのまま、終わりたくない……」

 レッドの本音はコウの心に刺さった。

 そして思い出作りにレッドを誘わなかったことを後悔した。いまからでも遅くはない、とコウが口を開こうとしたとき、ミドがコウの肩を掴んだ。

 コウは振り返ってミドを見る。彼はそっと首を横に振った。ここで誘っても、かえって苦しめることになる。無言のうちにそう言われている気がした。

 自分の無力さに、コウは唇をかみしめることしか出来なかった。

 最初は強気で毒舌だったレッドが、いつからか弱音ばかりを吐くようになった。強そうに見えていた体も日に日に弱っていって、見ている方が心が苦しかった。

「そんな風に思えるようになったの、お前らのおかげだ」

 はっと顔を上げる。

「いままでありがとう」

 レッドはそう言って微笑んだ。

 哀しいのに、なんだか救われた気がした。

『俺ずっとこんなのが続くなら、早く発火してくれたほうが楽でいいや』

 苦しんで生きることよりも、楽に死んでしまうことを望んでいたレッドから、そんな言葉を聞けてうれしかった。

「なに言ってんだ。また見舞いにくるから。縁起でもないこと言うなよ」

 涙の予感がする声でミドはそう言うと、コウの車椅子をくるりと操り、病室を出ようとした。

「じゃあな」

 レッドのそんな言葉は、三人とも無視した。



「……こわいです。うちらもいずれ」

「考えるな」

 モリの弱音を、ミドは遮った。

「そん時がきたら考えればいい。いまはいまを楽しむ。そう決めたろうが。それにモリはこのままもっとよくなるかもしれない」

 ミドの声は怒っているようにも、改めて決意を固めているようにも聞こえた。

「……うち、ちょっと中庭に出てます。頭冷やしてくるです」

 モリはそう言い残すと、廊下を走り去っていった。

「ちょっと。きつく言いすぎなんじゃない?」

「……ごめん。つい」

「あたしに言われてもね。あしたにでもちゃんと謝りなよ?」

「わかってる」

 コウとミドはそんな会話をしながら、モリの背中を見送った。いまは独りにしたほうがいいだろう。そう思って。

 しかしその気遣いは裏目にでてしまう。


   ●


 そのとき、二人は食堂にいた。

「ほら。あーん?」

「……」

 両手の使えないコウに、ミドが食事を与えていた。料理はコウが食べたいと言い張った、チャーハンである。

 ミドに食べさせられるのは不本意なコウだが、こうしないとご飯を食べられない。いつもは病室で今村に食べさせてもらっているのだが、薄味の病院食はずっと食べているとさすがに飽きてくるのだった。

 照れつつも口をもぐもぐさせるコウに対し、ミドは至って平静である。

「ミドは! その……恥ずかしくないの?」

 前から思っていたことを訊いてみる。

 ミドはこうしてコウにご飯を食べさせたり、コウを移動させるときにお姫様抱っこしたりと世話を焼いてくれる。

 それはありがたいのだか、コウもミドも年頃の男女だ。二人は恋人ではないし、いつもコウの傍にいてそういう間柄だと勘違いされるのが嫌ではないのか。

 そう言った意味を込めて訊いたつもりだったのだが、

「べつに? 友達が困ってるんだから、これくらい当然だろう」

 そう堂々と言ってのけた。

「あっ……そう。それならまあ……うん」

 拍子抜けしたコウは、よくわからない頷きをしてしまった。

「変なこと言ってないで食え」

 新たにチャーハンを乗せたスプーンを、口の前に差し出すミド。

 そうは言われても妙に気にしてしまうコウだった。まあそう思いつつも、目の前のチャーハンは食べるのだが。

「二人ともっ! 早く来て!」

「急いでくれ!」

 そんな叫びに、コウとミドがそろって食堂の入口を見ると、今村と西方がいた。

「どうしたんですか?」

 ミドが呑気にそう尋ねると、今村と西方はさらに切迫した表情になった。

「モリちゃんが!」

 今村のそんな大声を聞いた途端、二人も事態の深刻さが伝わってきた。

 食べかけの皿を置いて、ミドはコウの車椅子を押して、走った。



「モリっ!!」

「しっかりして!」

 前を走る今村と西方について廊下を駆け、向かった先は中庭だった。エレベーターに乗っている時間が無性に長く感じられ、じれったかった。一旦屋上に出てそれから西方と今村の二人でコウを担ぎ中庭への階段を降りた。その迅速さと丁寧さはさすが医療に携わる者といえた。

 そして中庭についた四人。

 芝生の地面には落ち葉の絨毯が出来ていて、歩くたびにカサカサと音を立てる。

 このまえまでなにも咲いていなかった花壇には、木が生えていた。そこに人が埋まっていた。

「モリ!」

 それはモリだった。

 モリはさっきまでの三倍くらいの大きさになっていた。そして足だったと思われるものは地面に深くささり、根になっている。両腕は左右に広がり、太い枝になっていた。ところどころ、蔓も巻かれている。顔だけはかろうじて人間のそれを保っている。が、髪にはさっきまでの比ではないくらい葉が生い茂っている。むしろ髪の方が見当たらない。

「モリっ!」

 どれだけ呼んでも、彼女の反応はない。気を失っているだけか、あるいは……。

 最悪の可能性を考えてしまって、怖くなり、すぐに否定する。

 さっきまであんなに元気だったのに。

 なにがいけなかったんだろう。

 中庭に出したことだろうか。ひどい状態のレッドに合わせたことだろうか。ミドがきつく言ってしまったからだろうか。

 考えてももう遅い。

「先生、モリを助けてください!!」

「モリを救ってやってくれ!!」

 コウもミドも、近くにいる西方の方をみて叫ぶ。

 西方はここにいる唯一の医者だ。目の前には急激に病気を進行させてしまった患者がいる。それなら彼がモリを救うのは当然だろう。

 ところが西方は、二人にとって信じられないことを言い放った。

「……もう手遅れだ……ぼくにしてやれることは、ない」

「コウちゃん、ミドくん。モリちゃんは、もう……」

 コウはどうしよもない絶望に囚われる。ふと後ろから気配がなくなった。

「ふざけんな! あんた医者だろう! モリを助けてくれよ!!」

 ミドはコウの後ろを離れ、西方に詰め寄った。いまにも襟首をつかみあげんばかりの勢いだ。

「ミド!」

「俺たちにだって、なにもしてくれてねぇじゃんか! 病人を救えなくて何が医者だ! 偉そうにしてんなら、患者の命くらい救ってみせろよ!」

 ミドはついに西方の襟首をつかみあげた。

「ミド! やりすぎよ!」

 コウの制止も、ミドには届かない。

「俺たちが毎日どんな思いをして、毎日過ごしてると思ってる。怖くてたまらないのを、つらくてたらまないのを必死でこらえて、あんたのこと信じて、病気と闘ってんだ!」

 ミドの怒りは止まらない。

 モリがこうなったのも、西方が悪いわけではない。

それはわかっていても、患者が抱えている怒りを医師以外のだれに向けられるだろうか。

「ぼくだって! 毎日毎日、研究を続けてる! 君たちを救いたいから、寝る間も惜しんで、毎日過去の論文をあさったりしてるんだ!」

 理不尽な怒りをぶつけられていた西方も、怒鳴り返す。コウもミドも今村さえ、その光景に驚いていた。

「ぼくだって患者が苦しんでいる姿を指をくわえて見ているだけはつらいんだ! けど、どうしよもないだろう!? 国が総力をあげても薬は一向に開発されない! 目の前で自分の患者たちいなくなる苦しみが、君にわかるのか!?」

 西方の苦しみが一気にコウの胸になだれ込んできた。

 医師は医師なりに苦しんでいた。仮にもここは病院だ。それなのに、入院してきた患者に治療らしい治療はほとんどできない。病魔にむしばまれるだけ(・・)の患者より、目の前で受け持った患者が次々に人間でなくなっていく苦しみの方が深い。

 コウにそんな西方の気持ちはわからない。けれど、苦しんでいるのは医師も患者も同じだということを知った。

「……すいません」

 ミドはすっかり意気消沈し、西方から手を離す。

「モリはどうして、急にこんな風に……?」

 二人の喧嘩が一応収まったところで、コウはそう尋ねた。

「……」

 しかし西方はもうしゃべりたくない、とでもいうように口を閉ざしたままだ。

「もともとモリちゃんは発作を起こしてここに来た。ミドくんの場合は薬が効いてくれたけど、モリちゃんは効かなかった。そしてその弾みのまま、急激に進行してしまったの」

 なにも言わない西方の代わりに今村がそう言う。

「でも、三ヵ月はなにもなかったじゃないですか! それに治ったみたいに見えたのに、なんで急に……こんな……」

「病魔は本当に気まぐれだ。とくにこの『変化病』は進行具合に一貫性がない。だからいつどんな事態が起ころうと、不思議はない。一気によくなった、というもの、ひどい病気には稀にあるんだ。そしてそのまま病魔は一気に加速する」

 コウの叫びに、西方がぽつぽつとそう漏らした。

「さっきはすまない。大人げなかった。……あとは頼む」

 そう言い残すと、疲れたように力なく、とぼとぼと中庭の階段を上っていった。

「先生! 二人とも……モリちゃんをよろしくね」

 今村も西方のあとを追い、階段を上っていった。

 その場には、木になり果てたモリとコウとミドが残された。

「コウ……ミド……」

「モリ!」

「大丈夫か!?」

 モリから微かな反応が返ってきた。

 大丈夫ではないことは、見ただけでもわかっているが、そう声をかけざるを得ない。

「うん……」

 弱々しく力ない返事。けれどちゃんとまだ、生きている証。こんなときになっても、もしかしたら、という思いは捨てられない。

 けれど、本当は心の底でちゃんとわかっている。

 どれだけ西方に怒鳴っても、もうモリが手遅れであること。

 コウとミドはモリの傍に寄った。

……彼女の最後の言葉を聞くために。

「ごめん、なさい……。もう思い出、作れない……」

「なんで謝るんだよ!」

「モリは悪くないわ」

「怖かった……レッドを、みたとき、うちもああなるのか……って、思ったら」

 さきほど、レッドの症状を見て、初めて弱音を吐いたモリ。

 たしかにコウたちがしていた『思い出作り』は生きる希望を持つためにした行動だが、病気を怖がってはいけない、なんて一言も言っていない。

 怖いのは、それこそコウだって同じだ。

 最初にこの病院で目覚めたとき、変化してしまった手を見て不安だった。

 レイがいなくなったのを確認して怖くなった。

 手足がどんどん水晶に変わっていって、思う通りに動かせなくて絶望した。

 ほぼ同時期に入院したミドの変化も一番近くでみて、現実を再確認した。

 ミドは本気でいまのこの時をレアだと思って、思い出作りを楽しんでいただろう。でもコウは少なからず、病魔に対する恐怖を誤魔化すために楽しくある時間を増やしていた。そうしないと、恐怖と絶望に押しつぶされてしまいそうだった。

「でも、ね。こうなって、みたら……案外、諦めってつくもんです……。もうダメだって、わかるから。やっぱり、悪い予感……ってあたるもんです」

 木の幹に浮き出たモリの顔が、微かに緩んだ。

 ――諦めないで、なんて言えない……。

 レッドを見た時も、散々励ましてきた二人だったが、穏やかで安らかな表情をしているモリを目の前にして、言葉が紡げなくなっていた。

「うちは、とっても……嬉しかったです。目を覚ましたら、なにも、覚えてなくて……独りで、よくわかんない……病気にかかってて。そんなとき……に、コウとミドが、現れて……一緒に、思い出を作ろう、って誘ってくれて……」

 コウはモリと最初に出会った時のことを思いだした。

 人懐っこくて、元気いっぱいな子だと思った。敬語とタメ口が混ざった変なしゃべり方をしているのは気になったけれど、モリの性格にはそれがあっているような気がして好感が持てた。

 そして三人で一緒に思い出を作った。

 彼女の笑った顔も、拗ねたような顔も、弱音を吐いたときに苦しそうな顔も、全部覚えている。

「だから、うち、もう怖くない……です。二人のおかげで、悔いなく……木の人生を、歩めるです」

「モリ……」

 コウは顔を上げた。

 横目に映ったミドは、辛そうに唇をかみしめながら顔を背けていた。

「短い間だったけど……ありがとうです。コウ、ミド……」

 モリを包む木がざわざわと音を立て始める。そして、木の幹がモリの顔に浸食し始め、彼女の顔が茶色く木と同化していく。

 そして。

「――だいすき」

 モリの最期の言葉を残して、彼女は完全な木になった。

「モリ……? そんな……」

「くっ……! ちくしょおぉぉぉぉぉぉ」

 コウの鳴き声とミドの叫びが、中庭に響き渡った。

もうモリに二人の声は届かない。

 果たして、思い出を作り続けてきたことは正しかったのか。自分自身にとっては少しでも励みになるかもしれないが、こうして友達が先に離脱した場合、ただ哀しみを増やすだけだったのではないか。

 コウは一気にわからなくなった。

 


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