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(株)三上人材派遣会社 広報担当:左松直老「この前書きおよび本文はフィクションです。実在の人物、団体、国家とは一切関係有りません」
少女が嫌悪感との邂逅と同日。その数時間後、午後七時五十分頃。
ある男は、納得のいく回答を得る為、通常ならば有り得ない場所に居た。
「お引き取り下さい」
「どうして政府から捜査中止命令が来るのですかっ! 我々は、与えられた正当な捜査権の元に――」
「お引き取り下さい」
黒塗り、運転手付きの車で帰宅する寸前だった警察庁長官へ詰め寄ったのはテロリストでも、常軌を逸した凶悪犯でもない。秋築昇、警視長だった。
長官は一言も答えず、無力な男を見ることもなく、黒塗りへ滑り込む。その一連の動作は、周りを固めるあらゆる人間によって成立した。警備部の人間が居て、長官官房の人間が居て、何一つままならない人間がそこにいて、成立した。
警察庁長官には、車外の騒音などまるで聞こえないかのような涼しい顔で、前だけを見据え、何一つ普段と変わりないと言わんばかりに、ただ、
「出せ」
いつも通りの帰宅を演じるだけだった。
「国家公安委員会からの指示です。我々警察庁の人間にも、どうする事も出来ません」
長官官房の監察官はうち捨てられた中年へ言葉をかけてやる。それがせめてもの、身内の情けである。
遠ざかる黒塗りの筺は、楯突いて手に入れられる場所ではない。アレに座るには非情であることもやむなし、権益を追求することもやむなし、地位を守ることもやむなしと、自分とは違う人間が乗るものだと秋築には見送る事しか出来なかった……
国家公安委員会。それは警察庁を管理監督できる立場にあり、そしてその機関の上部組織は政府である。
国家公安委員会は国務大臣一名を委員長に、他五名の委員によって構成されている。主な業務内容は警察庁の管理監督であり、特定の事件に対する命令権限ではない。もちろんそれは警察の政治的公平性、正当性、民主性を確保する為の機関である。
その管理監督機関であるはずの国家公安委員会から、捜査の停止命令を出されるなどと言う事は有ってはならない。それすなわち、政府からの捜査中止命令と同義であり、国民からの捜査中止命令と同義である。
この捜査中止命令は明らかに不当なものである。それでもなお、秋築達刑事部は頭を押さえつけられることとなった。それが現実になって初めて理解した。手合いの大きさを。
よたよたと足取りが定まらない。疲れていた。
秋築はこの一ヶ月間、まともに家に帰ることをしていなかった。
若かりし頃、刑事課に配属されたときの歓迎会でオールバックにして裸踊りをした。それをいたく気に入った年配の課長にずっとそれで居ろと命令された。当然、秋築としてはそれを続けるつもりではいなかったが、何故かオールバックで捜査すると笑顔と信用がついてまわってきた。職業柄、非常に都合がよいし、激高させて言質を得ようと思えば意外に役に立った。それらは宴会芸でたまたま得られただけの効力というには十二分すぎ、以来、刑事部内では張り詰めた空気の中で道化になれたし、外回りでは顔を立てるには都合が良くて続けていた。
だが、その黒々としたオールバックは既に原形をとどめていなかった。
家に帰ろうとも、もう誰も居ない。
ただ一人だった最愛の人は五年前、ガンで先に逝った。帰ってもすぐに呼び出されて飛び出して行くような男には、子供もいなかった。単なる甲斐性無しと言われればそれまで。
夏の蒸し暑い夜、ぼさぼさの頭に、首にかけられたネクタイは邪魔だと緩め、ただ引っかかっているだけ。それは誰が見てもタチの悪い、会社帰り酔っぱらいのおっさんだと思うのだろう。
どうしてか、秋築は家に帰ることを思いついた。
この有様で刑事部に戻るのは捜査員一同の為には良くない事、そして考え事をするなら一度一人になる方が良い。そしてなにより、すべての犯行が『政府、もしくは官庁』指示だった場合、表立って動くことは自分も部下達も危険である、と。
午後九時十七分。近所の駅から徒歩で自宅へ向かう。
足取りは先ほどよりも千鳥に近い。秋築は久方ぶりに飲んだ。
飲んだと言ってもカップ酒を煽った程度で、それでも秋築は酔っぱらう。特徴的な髪型や、老成して恰幅が良いことなどからよく飲むのだろうと勘違いされるが、秋築は酒にはめっぽう弱かった。それなのに飲んだのは、気まぐれと、苛立ちによる。警察官とは思えないような短絡的な理由により飲めない酒を飲んだ。
嫌なことは酒で忘れるに限ると、諸先輩方の誰かが言っていた事を思い出し、電車を降りて最寄りのコンビニでカップ酒を買い、その店先で飲んだ。浴びるように半分くらいは飲んだものの、もう半分はシャツにくれてやった。更に穿いていたスラックスも酒を浴びて濡れており、暑い夜に酒臭いおっさんを誰が見ても、とても警視長などという偉い役職だとは誰も気付かないだろう。
完全にコップ半分で酔っぱらったおっさんは私鉄の高架下で遂に真っ直ぐ歩けなくなった。飲めもしないのに無理をしたせいで頭を高架のコンクリート壁面に預けて斜めに進むという奇行をしていたが、その近隣は人一人歩いていない閑静な住宅街で、いくつか街灯の電球も仕事を放棄していた為、誰に見咎められることもなかった。
ただ、秋築は酔った頭ながら気が付いた。
暗い高架下で誰かとすれ違った事を。
凍える様に、寒い事を。
暗い事を。
倒れていることを。
同日午後九時二十九分。警視庁刑事部部長。秋築昇警視長、五十六歳。
何者かに刺殺される。
秋築昇警視長が警察庁長官へ直談判する半日前、ある男は情報の流れを見いだした。
策謀が巡る。そして男の目的はその思惑を断つことである。なればこそ、男は早急に動かねばならなかった。特別機関の人間ではあるが、生憎と心得があった。最も効率的な運用が出来るならば如何なる手段を用いる事も辞さないという、心得が。
だからこそ、男達は女性専用車両に乗り込んだ。
乗り込むまで男には一切の雑念など無かった。彼等よりも先んじて手を打たねばならないという自負だけを携えて、敢えて乗り込んだつもりだった。
そこで、見覚えのある顔に心奪われるまでは。
夢物語の中の登場人物の様だと見たそのままを伝えると、目を合わさないように隠しながら笑う、あの人に似ていた。
こちらが見ていると気が付くと、同じように目線を外してから顔を背ける癖があの人と同じ、その少女を見つけるまでは。
だがそこは昔の電車内とは景色も音も違い、立場も年齢も、皆何もかもが違いすぎた。
乱立する高層ビル群は旧知の斜陽を遮って。線路は継ぎ目無い長大なレールに敷き変えられ、覚えていた心地よいリズムを失って。摩耗した壮年に。チェロを抱える幼さの残る少女に。
全てを知っているのは世界中で自分達だけだという孤立感を抱え、眼鏡をかけた白髪の男は六人を従えて揺られる事を進む時の中で享受する。進み続ける時間は、それが男にとっての罪の想起に違いないがそれでもなお、男はその時間に酔いしれることにした。
だからこそ眼を伏せる少女に、話しかけることにした。
男の目は人のそれより優れていると自負している。だからこそ、男は少女が隠そうとする拒絶を、すぐに悟る。
どういう理由で忌み嫌われるのか男には良く理解できなかったが、どうしてか少女は逃げたそうな態度に見える。先程、女性との会話中に何か不快な思いをさせたのかと考えたが、別段彼としては思い当たる節はない。
いつも通り丁寧な口調で説明しただけで何一つ不遜な言葉遣いをした覚えもない。
それでも少女はどうにかして逃げようかと思案している様にしか見えなかった。だからこそ、彼は自ずと移動することにした。
出入り口、反対側のポールに手を伸ばして掴まって立ったのだが、その付近にいた女性にまで嫌悪された。
やはり、異物である自覚は持たねばならない様だ。
だが、現在の状況を憂いている暇はない。
男は存在し得ない人間で、この集団は国家としての異物である。その自負を持ち、ここにある事を是としない状況はまさに相応しいのではないかと思えてならない。
彼等は存在しない集団であり、『彼等』の『行い』は全て有り得てはならない事。
故に政府機関は感知できず、同時に干渉される事もない。
法的根拠のない集団だが、存在理由は憲法により批准される。最高権力者はあくまでも国民であり、政府の命令系統に組しない。そして司法、行政、立法の三権は『彼等』の存在を認めることも、知る事も無い。
『彼等』の目的は「国民の利益」であり「国民の幸福」である。いつ如何なる時も国民に還元されるべき利益の為に、いつ如何なる時も国民の安寧と幸福を守る為に、職務を遂行する。
それは「国益を損なう者」を「無かった事」にしようとも。
確信のままに男は少女が降車する際、一つだけ言葉をかけた。
黒い革張りのチェロケースにほとんど剥がれていた金色の印字を見て言った。
あの日、牧瀬の楽器店に置き去りにしたチェロケースに向かって。




