卒業式の前に
もうすぐ2月が終わる。卒業式の日が近づいてくる。
慣れ親しんだいろいろなものと、サヨナラする季節。
4年間過ごした大学を卒業することよりも、社会に出ることの不安よりも、友達と離れることよりも。ほかのどんなことよりも、ずっとずっと心にかかることがある。
中学生の時に初めて同じクラスになって、高校も同じで、偶然にも大学まで同じところに通っていたヒロキ。家が近くて、なんとなく一緒に帰ったりすることが多くて、でも、あの、つきあってるとかそういうんじゃなくて、そう、絶対そういうんじゃなくて、
・・・うまく言えないな。
学校からの帰り道におしゃべりしたり、ちょっとお腹が空いたからってファストフードのお店に寄り道したり、テキストの貸し借りをしたり、友達と喧嘩したときには慰めてもらったり、お互いに勉強や就職活動の悩みなんかを愚痴ったり。
そういう時間はわたしにとってものすごく大切で、楽しくて、でも卒業しちゃったらもうそういう時間を持てないんだろうなあって思ったら、自分の中に大きな穴があいたようなものすごく寂しい気持ちになる。
気がつけばため息ばかりついている。
ヒロキは3月から、地元を離れて東京で就職することが決まっている。飛行機で1時間もあれば着くんだから、二度と会えないほどの距離じゃないけれど、もう一緒に帰ったり、ちょっとした空き時間にお茶を飲みながら冗談を言い合ったりできないんだなあって。
はあ。
友達には、そんなに好きなら付き合っちゃえばいいじゃない、なんて言われるけれど、別にわたし、ヒロキのことなんか全然好きじゃないんだもの。あんなやつ、全然、ほんとに男って感じしないし、いつもヨレヨレの服ばっかり着て、すぐ忘れ物しちゃうし、わたしが起こしに行ってあげないと1限の授業は寝坊ばっかりで、ほっとけなくて、だから・・・
あー、もう、いらいらする。なんでわたしが、ヒロキなんかのことでこんな気持ちにならなくちゃいけないんだろう。
春休みの午後、大学には人影もまばら。余計に寂しい気持ちになってくる。
ひとり、校舎前の自販機の前で飲み終わった紙コップを握りつぶす。勢いでそれをゴミ箱に投げ込んでみたけれど、コントロールが悪くて外れちゃう。
「へたくそ!ゴミ、散らかすなよ」
校舎から出てきたヒロキが、わたしの投げた紙コップを拾い上げてゴミ箱に捨ててくれる。珍しくスーツなんか着ちゃって、なによ、ちょっとカッコいいじゃない。
「お、遅かったじゃない!30分は待ったよ、寒いのにさあ」
「なんだよ、先に帰っててくれていいって言っただろ。世話になった教授のとこに挨拶に行ってたんだ」
先に帰っていい・・・って、ヒロキはわたしと帰る時間が楽しみじゃないのかな。もうこんな時間、あと何回もあるわけじゃないのに。
「せっかく、待っててあげたのに」
鼻の奥がツンと痛くなる。なんだろう、急に涙がこぼれそうになって、びっくりして唇を噛んで我慢する。顔を見られたくなくて、ヒロキの前を早足で歩く。
「あはは、それはどうも。怒るなよ、ほら、あの店に寄って帰ろう。おごるからさ」
追いかけてきたヒロキが、わたしの頭をぽんぽんと叩く。隣に並んだら、いつの間にかわたしのほうがずっと小さくなっていた。中学を卒業するころまではヒロキのほうが背が低くて、いつも馬鹿にしてたのに。
あの店っていうのは、いつも帰り道に寄るハンバーガーのチェーン店。2階の窓際の席が気に入っていて、ふたりで行くときはいつも同じ席に座る。
「じゃあ買ってくる。コーヒーと、あと何がいい?」
「ポテトのMが食べたい」
「おまえポテト好きだよな。そんなもんばっかり食ってたらデブになるぞ」
「うるさいなあ、ヒロキがガリガリ過ぎるだけでしょ」
「ちょ、俺はガリガリじゃないぞ!筋肉で引き締まってるだけだからな。なんなら脱いで見せようか」
ヒロキが真顔でネクタイをゆるめ、シャツのボタンを外そうとする。わたしは焦って思わず立ち上がった。
「こ、こんなとこで何やってんのよ!やめなよ!」
「ひひ、こんなとこで脱ぐわけないだろ。チイって何でも真にうけるから面白いよな」
「馬鹿、馬鹿!!さっさと買ってきてよ!!」
ヒロキの背中をバシバシ叩く。笑いながらレジに向かうヒロキの後ろ姿を見て、もしかしたらふたりでこの店に来るのも今日が最後かもしれないな、なんて思ってまた悲しくなる。
この店の2階からはすぐ下の商店街が見下ろせる。学生の多い街だから、お店もやっぱり10代とか20代の子向けのお店が多くて、雑貨屋さんも洋服屋さんも見て回るだけですごく楽しい。
友達と一緒に買い物に行くより、ヒロキと一緒に行く方が多かったな。洋服とか靴とか買う時に、どっちがいいか迷ったらヒロキはパッと決めてくれる。いつも『チイにはこっちが似合う』ってきっぱり言ってくれる。わたしもヒロキのものをよく選んであげた。放っておいたら無駄に高いものとか買おうとするんだもの。『おまえは俺のお母さんかよ』とか言われたこともあったっけ。
リクルートスーツだって、卒業式に着る袴だって一緒に選んでくれたのに。もう、あんなこともできなくなるのかな。
窓の外の景色が涙でぼやけてしまう。あわててハンカチで目をおさえる。
「春休みだからかな、ちょっと混んでた・・・って、えっ、どうした!?」
コーヒーとポテトを二人分買ってヒロキが戻ってきた。大きな手が、わたしの手からハンカチを奪い取る。
「ほんとに泣いてんのかよ。また友達と喧嘩でもしたのか?」
「違う、そんなに喧嘩ばっかりしてないし」
「じゃ、どうしたんだよ」
心配そうに見つめるヒロキの目。ハンカチを返してくれた後、その手がわたしの頭の上にのせられる。体温が伝わってきて、そこだけほんわかと温かい。
「もうすぐ、卒業だから。みんなばらばらになって、寂しいなって、思ってた」
「なんだ、そんなことか」
「ヒロキも、行っちゃうでしょ?遠くに」
「え?ああ、でも東京なんてすぐそこだろ」
「そうだけど、でも遠いもん」
「なに?そんなに俺と離れるのが寂しいの?」
違う。そうだけど、違うと思いたい。言葉に詰まって、またわたしの目からはぼろぼろと涙がこぼれ出す。
「わわわ、ちょ、泣くなって。俺が泣かしてるみたいに見えるだろ」
「だって・・・涙が出てくるんだから、しょうがないじゃない・・・」
「わかった、そしたらちょっと面白い話をしてやろう」
ヒロキがコホンと咳払いをする。わたしの頭をゆっくり撫でながらヒロキは続けた。
「俺さ、卒業したらできるだけ早く結婚しようと思うんだ」
目の前が暗くなる。ヒロキの恋愛の話なんてこれまで一回も聞いたこと無かった。友達の噂でも、ヒロキに彼女がいるなんてチラッとも出てこなかった。なのに、結婚?
相手はどんな子なの、とか、いつからそんな相手がいたの、とか聞きたいことは山ほどあった。でもわたしは動揺を押し殺して平静を装う。
「ふうん。それで?」
「いや、待てよ。そうじゃないだろ。相手の子はどんな子なのかとか、興味ないのかよ」
「別に」
ヒロキはちょっと傷ついたような顔をして、自分の頭を抱えて呻き声をあげた。
「うう・・・なんだこれ。ダメなのかなあ、おかしいなあ」
「なにやってんのよ。聞いてるから続けなさいよ」
深いため息のあと、ヒロキは再び姿勢を正して、なぜかネクタイを締め直して話し始めた。
「その子は、すごく俺のことをよくわかっていてくれる子なんだ」
「そう。よかったじゃない」
わたしよりもヒロキのことをわかってる女の子なんているのだろうか。言葉がどうしてもぶっきらぼうになる。ヒロキは笑う。
「怒るなって」
「怒ってない!!」
窓の外に視線をやる。午後の日差しは優しくて、もうそこまで春が来ているのを感じさせるのに、わたしの心の中はブリザードが吹き荒れている。
「まあ、聞いてくれよ。その子は特別に美人とかじゃないし、可愛くもないし、どんくさいし、歌は下手くそだし、愛想も悪くて言葉づかいもめちゃくちゃなんだけど」
「なにそれ、そんな子のどこがいいのよ」
「でもさ、一緒にいて安心できるっていうかさ。俺、そいつがいないとダメなんだよな」
「わたしだってヒロキがいないとダメなんだから!!」
テーブルを思い切り叩いた。なんだかもう、ヒロキの相手の子に猛烈に腹が立ってきて、悔しくて、悲しくて、何か考えるよりも先に言葉が口から出ていた。
まわりに座っているほかのお客さんがジロジロとこっちを見てる。恥ずかしい。
ヒロキは、にやにや笑ってる。
「あはは、やきもち焼いた?」
「なにがおかしいのよ・・・」
「おまえ、どんだけ鈍感なんだよ。っていうか、俺が今日なんのためにスーツ着てきたと思ってるんだよ」
「はあ?」
ポケットの中をごそごそと探って、小さな紙袋を出してわたしに渡した。開けてみろというので袋の中をのぞいてみると、中には小さな銀色のリングが入っていた。いつか、雑貨屋さんで見た1000円のおもちゃのリング。
「今すぐじゃなくてもいいから、俺と結婚してほしいなって思って」
さっきとは違う涙が溢れてきた。顔も体も全身が熱くなって、言葉が見つからなくて、ただヒロキの顔とか頭をバシバシ叩いた。
「痛い、痛い!だってさ、卒業したら毎日は会えなくなるだろ?俺、チイに毎日会いたいもん。好きとかアイシテルとか、そんなのわかんねえけど、でもずっと一緒にいたいから」
「なによ、付き合ってもないのに、結婚とか、おかしくない?」
しゃくりあげながらわたしが言うと、ヒロキはちょっと驚いたような顔をした。
「ええっ、俺は付き合ってると思ってたんだけど・・・違うの?まさか、俺じゃ嫌なの?」
「嫌じゃ、ない・・・」
「じゃあ、俺のお嫁さんになってくれる?」
「うん・・・うん・・・」
ヒロキがテーブル越しにわたしを抱き締める。長い腕は思ったよりずっとかたくて、筋肉で引き締まってるっていうのは嘘じゃないかもしれないな、なんて思った。
「俺、今からおまえんちの親に挨拶に行く。だから、その後さあ」
「その後?」
「その・・・俺の部屋に来ないか」
顔を真っ赤にして言うヒロキの言葉に、わたしはしっかりと頷いた。もっと深くヒロキの腕の中に包まれたいと思っていた。そしてヒロキがどうしたいのかも、ちゃんと伝わってきた。
窓の外から差し込む日差しは、さっきよりもずっと眩しく感じられた。
(おわり)