桜沢一族の戦い 1
なにかの物音を聞き、杏里は目を覚ます。
自らの傍らに寝ているはずのノールへ視線を移すと、姿が見えないことに気づいた。
「ノールかな?」
なんとなく、ノールが起きたのだろうと思い、杏里は二度寝しようとした。
「杏里」
近くから呼びかける声が響いた。
「な、なに?」
寝呆けた顔で杏里は瞬時に起きる。
ベッドの傍には、ノールではなくルインの姿があった。
「もう、ノールはクロノスへ行った。次は私たちが腹を括る番。さあ、早く支度をしなさい」
「………?」
なぜか部屋にルインがいて、しかも意味の分からないことを話している。
それだけで杏里が思考停止するのは仕方がなかった。
「杏里、大変なの! ノールがクロノスへ戦いに行ったの!」
先程とは打って変わり、ルインは焦った様子で伝える。
ルインは杏里の扱い方が分かっていた。
強く頼る表現だと杏里は即座に理解し、対応する気質があった。
「そんな……どうして、クロノスへ!」
一瞬で理解した杏里はベッドから起き上がる。
「焦らないで、よく聞いて。これからクロノスとの戦いになる。お願い、杏里。貴方の正義の力が必要なの」
「わ、分かっているよ。ボクは落ち着いているよ」
杏里は焦りながら支度を整えようとしている。
「私は綾香を呼んでくるから、杏里は30分くらいで支度を整えてほしいの。綾香もまだ寝ているからさ」
ルインが話している途中で、急いでいる杏里は上半身に着ていたパジャマを脱いだ。
「杏里、貴方も年頃なのだからブラくらいはつけ……あっと、そうだった、男の子だったか」
杏里の女性らしい体つきや華奢でしなやかな肢体から、ルインは見た目で勘違いしてしまう。
「とりあえず、30分。分かったね?」
それだけ言うと、ルインは寝室を出ていった。
「い、今の時間は?」
杏里は時計を見る。
時刻は朝の8時丁度。
「ボクが……ボクがなんとかしないと」
着替えや髪のセットを短時間で終わらせ、杏里は冷蔵庫を開けて朝ご飯になる物を急いで食べる。
「杏里」
部屋の扉を開き、ルインが室内へ入ってきた。
時間は指定した通り、丁度30分。
「準備は整ったようね。流石は杏里だわ。貴方を頼って本当に良かった」
「今はそんなことよりもクロノスへ!」
「はいはい、じゃあクロノスへ空間転移するよ」
どこか悠長としている。
杏里を焦らせていてもルインはなるべく時間をかけ、クロノスに行こうとしていた。
隣にいる綾香もまだ眠そうな感じで、あまり戦いに出向くようには見えない。
ルインは二人に対して、全く真逆の対応をしていた。
杏里には必死で戦わないと不味いと伝えた。
だが、綾香にはノールは複数の味方と一緒に乗り込んだから自分たちの役割は適当に後詰めとして戦うだけだと。
別にルインはノールを救う気がさらさらない。
信頼していても、桜沢一族的にはいるよりもいない方がいいのだから。
R一族一派が壊滅してから良いとこ取りで横から手柄を掻っ攫おうとしていた。
「では、空間転移を発動するわ」
瞬時にルインたちが見る風景が切り替わる。
ルインたちも他の者同様にクロノス郊外へ現われた。
ルインたちの目に映ったものは、崩壊し燃え広がりながら黒煙を上げるクロノスの街。
想像を絶する戦いが行われたのは、一目見て明らかだった。
「そんな……ノール!」
目の前の光景からいてもたってもいられなくなり、杏里は全力でクロノスの街を走っていく。
腰につけたサイドパックから、トンファーを手にし、杏里は最初から戦闘態勢へ移行する。
「杏里くん、ちょっと待って!」
全力で走っていく杏里に綾香は驚き、引き留めようとした。
「はいはい。待ちなさい、綾香」
駆け出そうとした綾香の肩を掴み、動きを止めさせた。
「杏里、まだノールがどこにいるのか伝えていないのに。そんなことよりも、杏里は大丈夫。あの子の力を信じてあげなさい。貴方は杏里のお姉さんでしょう?」
「それでもこんな光景を見たら誰だって……」
「杏里は、私たちとは別行動をするの。この光景を見れば分かる通り、私たちの方が勝っている。私たちは攻め込む側。防御をする側ではない。ノールも普通に生きているでしょうよ」
「そういえば……そうね」
「そうよ、だからあの子みたいに頑張って急ぐ必要もないの」
二人は杏里とは異なり、別の方向へ向かう。
そちらは宮殿へ向かう道。
杏里は宮殿へ向かうルートとは別の方に走っていた。
崩れた建物の外壁に背を預け、アーティは一人佇んでいた。
そこは杏里が走っていく先にある、一つの通り。
身体の至るところが傷つき、血にまみれ、アーティにはもう戦える力はない。
アーティの周囲には複数の死体があった。
クロノスの構成員たちの死体。
その中に、アーティとともに戦い、命を落としたミネウスの姿もあった。
お互いにスキル・ポテンシャルを扱えなかった二人はツーマンセルで戦場を戦い抜き、互いに互いを護り合い、そしてともに死のうとしている。
「オレも……ここまでか」
ぽつりと、アーティはつぶやき、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出す。
煙草の箱はぐしゃぐしゃになっており、取り出しにくそうに一本掴み取った。
煙草を口元へ運ぼうとしたが、その前に手元から煙草は落ちる。
「はあ……」
煙草すら持てなくなった自らの手を見つめていたが、地面に手を置き、アーティは目を閉じかけた。
「アーティ」
何者かがアーティの名を呼んだ。
アーティは力なく目を開き、顔を上げた。
目の前には、剣を手にしたリュウの姿があった。
「リュウ」
アーティの声に生気が漲る。
「無事だったんだな、良かった」
「良かった……だと?」
リュウは不審な者を見る目つきでアーティを眺めている。
「助けに来たんだ、お前をな」
「オレを? アーティ、オレはな」
「これは奇跡だ。奇跡は諦めない奴にしか起こらない。これで、次はテリーだな。オレとお前だ。もう一度、奇跡を起こせるさ」
「聞けよ、アーティ。オレはお前と、この場にいる理由が違うんだ。オレは元々クロノスの構成員の一人なんだ」
「なんだ、それがどうしたんだよ」
「どうしたって……」
「オレとお前となら、テリーが救える。あいつはあれでも女の子だからな。強え男たちが救ってやるんだ。なんかさ、ほら、物語みたいで格好良いだろう」
「アーティ」
リュウは持っていた剣をアーティの首筋につける。
「ここから逃げろ、アーティ。オレはお前を殺したくない」
「ああ……そうか。お前はオレをR派なんかだと思っているのか。ここまで来るための、あいつらは単なる踏み台さ」
「………」
静かにリュウは話を聞いている。
「お前とテリーを救うためなら、オレはなんだってやる。でも、オレは誰にも組するつもりはない。お前と、テリーがいるからな。三人で馬鹿をやっていたあの時のままさ」
「………」
「スロートで魔導剣士をしていた時を思い出してな。ああ、あの頃を思い出すと懐かしいな。あの頃もお互い助け合ってきたが、それは今でもそうだ。オレはそう思っているし、そうしてやりたい。オレがお前もテリーも救うのは当たり前だろ」
再び、アーティはポケットにしまい込んだ煙草の箱を取り出す。
ぐしゃぐしゃの煙草の箱から、震える手でなんとか一本掴み取り、アーティは口元へ運ぶ。
「火は……あるか?」
「ああ」
リュウは空間転移を発動させ、手元にライターを出現させた。
それで、アーティがくわえる煙草に火をつけようとした。
だが、アーティの口元から煙草が、ぽとりと落ちた。
「煙草が……美味いな」
弱々しくアーティは語る。
目を閉じ、煙草を持っていた手も地面についている。
死にかけていると、リュウは悟った。
瀕死のアーティは意識が混濁して、記憶の中でのできごとを語っていた。
「アーティ……」
首筋から剣を退かし、リュウはアーティの肩に手を置き揺らす。
「テリー、リュウ、悪い……オレはもう駄目みたいだ」
閉じた目から、涙が零れる。
「おい、アーティ!」
アーティはなにも答えない。
「どうしてこんなことに……」
リュウは顔を手で押さえる。
この場へリュウは一人で来たわけではない。
当然、他の構成員も周囲に潜んでいる。
リュウを味方だと思っていても、クロノスはR一族一派の者たちに襲撃を受け、リュウがともに行動をしていた者もそこに含まれている。
構成員たちから今まで通りの信頼を得るためには、リュウはアーティを殺害する他ない。
しかし、リュウが取った行動はそうではなかった。
「エクス発動」
顔を手で押さえたまま、最上級回復魔法のエクスを発動した。
「ん?」
すっと、アーティは立ち上がった。
あれ程に弱り切り死にかけていたアーティも最上級回復魔法により、一瞬で回復した。
「そうだ、ミネウ……」
アーティはミネウスの名を呼ぼうとした時、リュウに気づく。
「リュウ、無事だったのか。助けに来たぞ」
「それは、さっきも言ったろ」
リュウは頭を抱え、泣いていた。
「あー、やっちまった! オレはクロノスを裏切ってしまった! どうすればいいんだ、一体どうすれば……」
「どうするって、お前これからテリーを救いに行くんだろ? オレとお前ならやれるさ、簡単なことだ」
「馬鹿野郎、オレは生まれも育ちもこのクロノスの街だ。オレは親も兄弟も皆クロノスの構成員だ。どうすればいいのかもうオレには分からない」
「そんなこと知るか」
アーティはリュウの腕を掴み、一気に立ち上がらせる。
「分からないのなら、オレの言うことを聞け。先ずはテリーだ。分かったな?」
「お前は凄いな、人の話を聞こうとしない。お前のそういうところは好きだけど、今は嫌いだ。第一、この辺りにはクロノスの構成員だらけだぞ。オレと魔力が少なくなったお前だけじゃ、とても生きていけない」
「周囲?」
アーティは腕を組む。
「この辺に他の連中の気配はしないぞ」
「はっ?」
リュウは周囲を確認する。
元々、誰がどこに潜んでいるのか分かるリュウは確かに構成員がいたはずの方向を眺める。
アーティの言う通り、そこから気配は感じられなかった。
「多分あっちの方からかなりヤバい気配が近づいてきているから、全員そっちに行ったんじゃないかな?」
通りの方を指差し、アーティは適当に答えた。
「一体なにが……」
リュウもその通りの方を見たら、見覚えのある人物が走ってきていた。
そこには杏里の姿があった。
「杏里、お前一体どうやってここに」
「アーティさん、リュウさん。無事だったんですね」
杏里は異質な非常に禍々しいオーラをまとっていた。
露骨な程に悪意ある魔力のオーラを放っているのは、今でも戦っているはずのノールから少しでも自らに目を逸らさせるため。
それが功を奏したのか、杏里の身体中に血の跡があり、相当数の敵をトンファーで打ち殺してきたのが見て取れる。
「なんか、雰囲気変わったな」
白い歯が見えるくらいにやつきながら、アーティは語る。
「そっちこそ」
「なんてことだ……」
リュウは杏里が辿ってきた道を見て、驚愕している。
アーティばかりに気を取られているうちに、杏里が他の構成員たちを血祭りにあげていた。
「仲間たちが……」
「元仲間だろ? 事前に杏里が先手を打ってくれて良かったな。オレも知り合いを相手にするのは、ちょっと気が引ける」
「皆、済まん。憎いR一族一派に苦しめられながら死んだと思うと涙が出る。オレを許してくれ」
リュウは顔に手を当て、涙を流す。
「R一族のおかげで自らを正義の一員だと思い込みながら死ねたんだから良いだろ別に」
「本当にお前……アーティじゃなかったら殴り殺しているところだ」
歯に衣着せぬ物言いで、ズバズバ語るアーティにリュウは腹の底から怒りが沸いた。
「先陣はボクに任せてください。二人はサポートをお願いします」
「ああ、頼むよ。その代わり、後ろはオレたちに任せろ」
アーティは語る。
魔力切れを起こし、本来なら立っているのもやっとだが、自らを奮い立たせる。
なによりも先陣を任せろ発言が許せなかった。
自らとミネウスでここまで踏破したからこそ体力を多く残せて辿り着けただけだろとも思っている。
「アーティ」
察したリュウがアーティの腕を掴む。
アーティへと魔力が流れ込んできた。
「助けるんだよな、テリーを」
リュウは腕で涙を拭う。
「当たり前だ、そこにいるのは単なる露払いだ」
「あの、聞こえているんですけど」
とりあえず、三人はテリーがいる場所へと向かう。
そこにタルワールもいるため、ノールも向かうはずだとリュウが提案したためだった。