考える時間
「ノールさん、着きましたよ」
背負っているノールにジャスティンは呼びかける。
屋敷の扉を開き、ジャスティンはノールの自室へと向かう。
ノールに部屋の場所を教えてもらいながら屋敷内を進み、ノールの自室へと辿り着いた。
室内へ入ると、アウトレットソファーに横たわるジーニアスとそのソファーに座り、ジーニアスを見ている杏里の姿があった。
「ノール、ジャスティン君……」
杏里が二人の名を呼ぶ。
杏里は会合に着ていた服装のままで、とても女子力が高く可愛らしい。
「あっ、おかえり」
ジャスティンに背負われたノールが杏里に呼びかける。
「ノールだよね、ジーニアス君に酷いことしたの」
「ボクを殺そうとしてきたから意識を失わさせるくらいするよ……」
「ノールを殺しに来たの? ジーニアス君が? ノールがそんなに弱っているのにもなにか原因があるの?」
杏里は立ち上がり、二人に近づく。
「ジャスティン君、あとはボクに任せて」
ジャスティンの背後へ行き、杏里はノールをお姫様抱っこした。
「杏里さん」
「ジャスティン君。お願い、言わないで」
ジャスティンが杏里にも先程あったできごとを伝えようとしたのをノールが遮った。
「そうですか……分かりました。では、僕は城へ戻ります」
一度、軽く頭を下げ、ジャスティンは部屋を出ていく。
「ノール、今のは?」
「ボクが弱っているのは、ゲマと戦ったから。あの人がスロート、ラミング、ロイゼンの三ヶ国を巻き込んだ広域戦争の首謀者だったの」
「ええっ、あの人が? 嘘だよね?」
杏里は驚きが隠せない。
ノールはそれ程でもなかったが、杏里はゲマと交流があったらしい。
二人とも正義という観点で馬が合っていた。
ただし、血みどろに塗れた恐るべき正義という観点ではあるが。
「嘘ではないから、こんなことを言っているの。ボクは本当に今生きていることが不思議としか思えないくらいにあの人は強かった」
「ノール……」
優しくささやきながら、杏里はノールに寄り添う。
杏里からノールへと魔力が流れ込んでいく。
「もう大丈夫だよ、ノール。ボクの魔力を分けてあげるね」
潤い満たされるような感覚を、ノールは身体に感じた。
身体に魔力が満ち溢れていくのを実感し、ノールは魔力切れによる苦痛を感じなくなる。
水人のため、体温の感じないノールだったが仄かに温かさを実感した気がした。
「ありがとう、杏里くん」
「ごめんね」
「ん?」
「魔力切れになりかかっているのをすぐに気づいてやれなかった」
「いいの。君はいつもボクがなにも言わなくとも支えてくれるから」
「ノール、ジーニアス君は意識を失っているんだよね?」
「ボクの水人能力で低体温にさせて意識を奪っただけだから、ボクが能力を解けば何事もなかったように意識は戻るよ」
「そっか、良かった」
安心したのか、杏里は頬笑む。
だが、頬笑んだのも束の間。
杏里はノールの顔を傍で見たことで気づいてしまった。
ノールの表情は強張り、表情がないに等しい。
ノールはもう一杯一杯で、目の前の一つのできごと以外にはほとんどなにも対応できない状態。
ミールの死。
クァールとならなくてはならない運命。
目前まで迫った杏里たちとの別れ。
その全てがノールから表情の機微を喪失させていた。
「ノール……」
仮死状態に陥っていたジーニアスばかりに気を取られていた杏里は申し訳ない気持ちになった。
本当に救わなくてはならない者は自らの手の内にいた。
杏里はノールをお姫様だっこしたまま、寝室へ向かう。
寝室のベッドの隣に立つと、ノールをベッドへ放り投げた。
「えっ、なんなの?」
てっきり、ノールは普通に気遣いながら寝かされるものだと考えていた。
一応、頭の位置に枕があり、寝かされたのには間違いないが。
それから杏里はノールの問いかけに答えもせず、ノールのお腹辺りに馬乗りになる。
「脱げ」
らしくない口調で語り、杏里はノールの顔に右手をつけ、枕に押しつけた。
「へえ、したいんだ? 見ての通り、そんな気分じゃ……」
ノールが言いかけた時、杏里はノールの顔から手を退かし、ノールの顔スレスレのところへ手を振り下ろした。
「暴力を振るわれたいの?」
「………」
ノールは静かになった。
暴力を振るわれそうだからではない。
杏里の顔を見てしまったから。
言葉とは裏腹に、杏里は悲しく辛そうな表情をしていた。
本当はこのような形で行為などしたくはないのが見て取れる。
ああ、ボクのためなのか。
そう受け取ったからノールは静かにしていた。
「服、破くよ」
杏里はノールの水人衣装の襟元付近を両手で掴む。
一気に胸元辺りまで破かれたところで、ノールの水人衣装自体が消える。
すぐに元通りになるとはいえ、流石にノールも破かれたくはなかった。
杏里もノールが水人衣装を消すのは分かっていたようで、ノールの隣に座るとノールの下着を穿いでいく。
裸にされたノールが抵抗を示さないのを確認してから、杏里も服を脱いでいく。
これから少しの間は杏里と行為のことだけを考えていられるとノールは思い、少しだけ気分が和らぐのを感じた。
翌朝、ノールは目を覚ます。
時刻は八時過ぎ、ノールにとっては少し遅れた起床。
ノールは裸だった。
色々なことが積み重なり過ぎて最初はする気などなかったが、結局深夜過ぎまで二人は行為を続けていた。
杏里と抱き合う間に得られるリラックスした状態、安らぎ、快楽を手放したくなく杏里が疲れ果ててからもノールは求めてしまっていた。
ノールの眠る傍らに少しやつれた杏里が深い眠りについている。
疲れ過ぎて、ノールが起きたことに少しも気づいていない。
「杏里くん、ありがとうね」
静かにノールは杏里と口付けを交わす。
それでも杏里は起きる気配がない。
ノールは先にベッドから出ると浴室へ向かう。
入浴後に支度を整え、次にノールは普段通りの家事を行っていった。
家事に関しては杏里に分担もさせず、毎日ノール一人で一言も文句を言わずに行っている。
杏里もメイドとして律儀に半年間家事に関わる事柄を覚えた上でも杏里にさせようとはしない。
今日のノールの家事は普段以上に熱心だった。
それは彼女自身の不安、恐怖、焦燥の表れ。
昨日は杏里のおかげで安心できる時間を得られたが、現実は変わらない。
これからのことが、ノールの胸中に膨らむ。
考えれば考えるだけ、ノールは悲しくなった。
「どうして、ボクだけが……」
次に浮かぶのは、クロノスに対する罵詈雑言。
心の中で口汚く貶していた。
家事全般が終わり、杏里を起こすとノールは料理を作り始める。
「杏里くん、ご飯できたよ」
朝の支度を終え、テーブルの椅子にウトウトしながら座っていた杏里に朝食を持っていく。
メニューは普段通り、サニーサイドアップエッグ、数枚のハム、サンドイッチ状に切られたパン数切れ、別の世界で買ったインスタントのコーンスープ。
今ではお金持ちなのに決して贅沢をしようとさえしないのが、ノールらしさ。
「ノール、今日も美味しそうだね」
楽しげな様子で杏里は頬笑む。
毎回、朝は同じようなメニューだが決して文句を言わない。
「そう?」
向かい合うように、ノールも椅子に座る。
「昨日はゴメンね」
「ボクは怒っていないよ」
「ボクは暴力を振るったんだ、君の大事な水人衣装も破って……」
「いーんだよ、今回は。あのまま、無理やりにでもされなかったらボクはストレスで頭がおかしくなっていただろうし、不安で一睡もできなかったと思う」
「そうかな……」
「そうなの。はい、この話は終わりにしよう。ご飯が冷めちゃうよ」
十数分程で食事は終わった。
それから二人で仲良く片付けをして、ノールはある話を杏里に持ちかける。
「ねえ、杏里くん。今日って暇?」
「どこかに出かけるの?」
「そういうんじゃなくてね。今日は仕事するの?」
「ううん、今日はお休み」
首を振って、杏里は答える。
「そっか、良かった」
ノールは軽く頷く。
それだけ聞くと、ノールは高級ソファーの方に座る。
いつもの定位置にしているアウトレットソファーには仮死状態のジーニアスが横たわっているため。
高級ソファーに座ったノールは雑誌を見始めた。
杏里はココアを淹れてくると、ノールの隣の高級ソファーに腰かけ、楽しげにノールを眺めている。
ノールを愛し過ぎていて、ノールを見るのが杏里の趣味。
それから昼食、三時のおやつの時間、夕食と時間が過ぎていく。
平穏な日となんら変わらない、このひとときをノールは最後に体感していたかった。
「杏里くん。ちょっとボク、エールのところに行ってくるね」
夕食から少し時間が経ってから、ノールはエールの自室へと向かう。
「エール、いるかい?」
部屋の扉を軽くノックする。
「あれ……姉貴?」
微妙に髪がぼさぼさのエールが部屋から出てきた。
化粧も眉を描く程度で他にはなにもしておらず、普段の素顔が窺える。
エールはミール同様に髪の色が淡い金色で、瞳の色も同じ色をしている。
ゴスロリ時には黒を基調としているため、黒のカラコン、黒髪の長いウィッグをつけていた。
そういった外見から人形のようなお淑やかな女性に見えた。
元々のエールは三白眼で、どこかにやっとした表情をしている。
「寝てたの?」
だからといって、ノールは別になにも思わない。
このエールこそが、ノールにとっての見慣れた妹の姿。
「うん、そんな感じ。とりあえず、部屋に入りなよ」
エールとともにノールは部屋へ入る。
室内は雑然としていた。
ゴミなどは仕分けているのだが、棚やクローゼットなど収納する物入れがあったとしてもそこには戻していない。
「部屋、掃除したら? ボクが今からやってあげようか?」
「これでいいの、アタシは。ちゃんとしているんだから、この方が落ち着くの」
「そう……?」
とてもそわそわした様子で、ノールは周囲に散らかっているものを何度も見つめる。
性格上このような状況がどうしても許容できず、落ち着かない。
「座ってよ」
四人がけの高級テーブルの椅子をエールは引き、座らせようとする。
「ありがとう」
そこに、ノールは座った。
「なんか飲む? 紅茶だよね?」
「大丈夫だよ、エール。今はボクの話を聞いてほしいな」
「えっ? なに?」
ノールの口調からエールは徒ならぬ雰囲気を感じ取り、身構える。
身内であるエールは、今のノールの一言だけで怒っているのを察した。
「アタシは良い子だからなんにも悪いことなんてしていないよ」
「エールのことじゃないの」
確かにエールへ向けての怒りではないと、エールも感じ取る。
それ以外にも感じる、迷いや不安、そして今までの姉にはなかったはずの感覚。
「姉貴、もしかして愚痴を言いに来たの?」
「………」
じーっと、ノールはエールを見つめる。
「エール、嫌なことってある?」
「嫌なこと? あるでしょ、それくらい。普通、誰にだって」
「例えば?」
「アタシの身体だよ。以前見せたよな、身体。アタシはガイノイドなんだよ」
「身体を直す方法をボクは知っているの」
「ええっ、どうやるのそれって? アタシは元の身体に戻れるの?」
「戻れる。でも、エールは……」
「どうして、それをもっと早く教えてくれなかったの? 理由が知りたいけど。姉貴はさ、アタシが苦しんでいたのを知っていたよね?」
「うん」
「ちょっと、それ本気? 分かっているのにあえて助けない人をなんていうのか知ってる? そういうのを人でなしって言うんだよ。アタシを直してよ、直せるのなら」
「条件があるよ」
「なんなの? さっさと言いな」
「エールがガイノイドから人に戻ったのなら、水商売とか裏稼業の仕事をもう二度としないと誓ってくれるかい? それと人に戻る方法を行えば、君はまた一度死ぬのも忘れないでほしいの」
悲しげな表情をしたまま、ノールは椅子から立ち上がる。
全身を覆い尽くす張り詰めたような殺意から瞬時に身体を捻るようにし、エールはその場を離れた。
「………」
エールは言葉が出なかった。
ただ、自らの身に起きた事実を受け入れられずにいた。
心から慕っている姉に強い殺意を向けられていることに。
「エール」
エールとは目を合わさないよう、ノールは視線を落とす。
「……アタシのこと、殺すんだ」
「治すために殺すよ」
「駄目に決まっているだろ! アズラエルも相馬もいないのにここで“壊されるなんて”……」
静かにノールは天使化をする。
ノールの背には二翼の天使の翼が現れた。
「ボクは天使なんだよ」
「……それがどうしたの」
「天使族のボクは能力者を生き返らせられる復活の魔法リザレクを扱えるの」
「そうなの……?」
「ボクに身体を預けてみないかい」
「でもさ、死んだ人間が生き返るにはアタシみたいな身体になんないと駄目なんだ……アタシには信じられないよ」
明らかに迷っている様子のエールは両腕から水人能力のように透明な液体を流す。
それは、流体兵器の発動。
透明な液体はナイフの形となり、さらに色彩や質感までもが本物同様の見た目となった。
「アタシ、もう分からないよ……人に戻りたいけど……」
ボロボロと涙を流しながら、エールは泣く。
「信用するよ、姉貴のこと。でも、姉貴に殺されるのは絶対に嫌! 生き返ったとしても、アタシそれだと姉貴の顔がもう見られなくなる……」
ナイフを両手で持つとエールは眼を閉じ、胸元辺りに突き刺した。
血を吐き、ゆっくりと床に横たわったエールは静かに事切れる。
「………」
エールの死体を眺めながら、ノールは黙っていた。
少しの間、エールを眺めていたノールが動き出す。
元に戻すには、身体から部品を取り外す必要があった。