もう一人の綾香
一方その頃、綾香たちは聖堂の敷地内から出て、森林地帯まで移動していた。
「綾香、ノールがクァールになっていたって本当なの?」
先程の状況をルインは綾香から説明されていた。
ルインにとってはもう既に一ミリもどうでも良くなっていたせいで、なにがあったのか記憶にない。
「あの女の子は、クァールととても似ている。クァール本人がオレと会話をしているとしか思わなかったぐらいだ。だが、あの子は見た目通り水人の魔力体だろう。なにかが起きてクァールと中身が変わっているに違いない」
「クァールねえ、とっくの昔に消滅したはずなのに一体どうやってノールになったの? 分からないなあ。それよりも、綾香はどうやって綾香の身体に?」
「オレの身体? オレは、オレそのものだろ」
不思議な言い回しかと思い、綾香は頬笑む。
「綾香、よく聞いてほしいの。今、貴方もクァールと同じ立場なんだと思う。それは貴方自身の身体じゃない。橘綾香という桜沢一族の女性の身体で、本当の桜沢綾香の身体じゃない」
「女性の……?」
綾香は視線を下方へ向ける。
「これは、胸か? 桜沢一族の……女性?」
「そうなの、橘綾香は桜沢一族で唯一の女性。本当は、どちらも同名だけどややこしくなるから別名で呼んでいるからね」
「……さ、さっきルインはクァールが死んだのをとっくの昔と言ったな?」
「ええ。勿論、綾香も同じ。だから私、貴方が生き返って本当に嬉しいの。やっと、私たちやり直せる。桜沢一族が復興できるの」
「オレは……あの戦いからそれ程時間が経過していないと思っていた」
綾香は頭に手を置き、深くなにかを考えている。
綾香の語るあの戦いとは、今から百数十年前に起きたR一族当主R・クァールの勢力対桜沢一族当主桜沢綾香と前聖帝の連合勢力が総世界の覇権争いをした戦い。
その際に、三名とも討ち死にしていたがクァールは転生するという形で、綾香は桜沢一族の執念として亡霊化し橘綾香に憑依する形で現世に現れた。
クァールはノールの中にいたおかげで今の世の中をなんとか理解していたが、綾香は先程の状況を当時の感覚で見ていた。
なぜなら、クァールとR一族派側近のアズラエルがいて、自らの傍にも桜沢一族派側近のルイン、エージがいたから。
自らの調子がおかしかったのは、復活の魔法リザレクで病み上がりのような状態なのだろうと思い込んでいた。
「ルイン、エージ。他の者たちはどうした?」
「みーんな、死んだんじゃない? 私と、バカ犬しかもういないと思う」
「そんな、まさか……なら、どれ程の時間が経過したんだ?」
「貴方が死んだ日から、百数十年が経過している」
「なんたることだ……」
再び、綾香は頭を抱える。
「クァールと手を組めたのは幸いかもしれない。この身体の、橘綾香だけはなにがなんでも守らなくては。この子を守らなくては桜沢一族が滅ぶ」
「橘綾香が死んでも、まだ二人の兄弟がいるの。桜沢有紗と桜沢杏里という男性の桜沢一族が。おそらく桜沢一族の生き残りはこの三人だけ」
「他の二人はどこにいるんだ? 是非とも会いたい」
「多分、綾香は驚くと思うけど、一つの屋敷でノールと綾香、杏里は共同生活をしているの。それどころか、現聖帝のテリーという人も」
「ますます意味が分からない……」
「私にも意味が分からない。彼らは一族のこととか、自らが何者なのかにも自らの立場にも関心がないみたいだから。本当になんにも分かっていないから日々日常を楽しく送れるの」
「今はひとまず、その屋敷へ行こう。ルイン、頼む」
「分かった」
ルインは頷き、空間転移を詠唱する。
わずかな時間で風景は変わり、R・ノールの黒塗りの屋敷前に三人は現れた。
「さあ、入って。私は屋敷内を把握しているから」
率先して、ルインは玄関の扉を開く。
屋敷内に入ると偶然なのか、エントランス付近に有紗の姿があった。
時間は、早朝の四時頃。
天使界に自宅のある有紗が屋敷内にいるのは不自然だった。
「あっ、お帰り」
「君は桜沢一族の者のようだな」
綾香は一目で有紗が桜沢一族だと気づく。
「どうしたんだ、綾香? 変な言い回しをして」
橘綾香に桜沢綾香が憑依しているとは思ってもいない有紗はおかしいと思っても理由が分からない。
「有紗、今綾香には桜沢当主の桜沢綾香になっているの」
フォローするようにエージが語る。
「そもそも橘綾香は桜沢綾香だろう? 言いたいのはそういうことじゃないのか……?」
「違うの、有紗。目の前にいるのは、有紗の妹の橘綾香じゃない。オレとルインの御主人様の桜沢綾香が橘綾香に宿っているの」
「はっ?」
有紗は明らかに困惑していた。
「混乱させて済まない。オレは桜沢一族当主の桜沢綾香だ。今現在、オレがこうして現世に存在していられるのは、おそらくオレと君の妹の綾香に波長が合ったからだと思う」
「いやそれよりも、綾香はどうなるんだ? 当主かなんだか知らないが、オレの綾香の身体に乗り移るな!」
「ああ、悪かった。オレが綾香の身体になっているのは本当にその類だからなのだろう。だが、落ち着いてほしい。オレの感覚が次第に薄まっていっている。おそらく橘綾香が目覚めるのだろう。オレがこの場にいられる時間はあとわずかだ」
「えっ」
エージの顔がこわばり、静かに綾香の身体にくっつく。
「綾香、それ本当なの」
ルインは焦ったように綾香の前に立ち、問いかける。
「仕方ないさ、この状況は普通では有り得ないのだから。とうの昔に死んだオレがこうしてまた話ができたこと自体が奇跡なんだ」
綾香は、ルインの肩には優しく、エージの頭には撫でるように手を置いた。
「ルイン、エージ。頼れるのはお前たちだけだ。どうか桜沢有紗、綾香、杏里を守ってくれ」
「分かった」
素直にエージは頷く。
「そんな、まだ嫌。また貴方と逢えて十分かそこらしか経っていないのに……」
エージと異なり、ルインは酷く落ち込んでいた。
「本来なら、こうして話す自体ができなかったんだ。理解してくれ」
「………」
涙を流し無言でルインは頷く。
「ありがとう、ルイン」
そして、綾香は有紗へと視線を移す。
「有紗、頼みがある。どうか一族を絶やさないでほしい。R一族当主のクァールとは手を組むことができた。彼らの下になる必要などないが、君も手を組んでいてほしい。今は共通に戦うべき別の恐るべき敵がいる」
「あ、ああ」
有紗は唐突過ぎて状況をよく把握できなかったが頷いた。
「ありがとう」
その一言の後、綾香に変化が起きる。
「……あれ?」
桜沢綾香の憑依が取れ、解放された綾香は微妙に眠そうな表情をしてから欠伸をする。
「て、皆どうしたの?」
ルイン、エージ、有紗の三人が自らを目の前で見つめていたため、綾香は驚く。
「綾香、身体は大丈夫か?」
「私は大丈夫だけど……」
有紗の問いかけに答え、綾香はルインの肩とエージの頭から手を引く。
「今はゆっくりと休んだ方がいいと思う。部屋まで行こう」
ルインとエージを退かし、有紗は綾香の手を引いて、彼女の自室まで連れていった。
「私、綾香に会えて本当に良かった。私が一体なぜ今ここで生きているのか分かった気がする」
俯きながらルインは指で涙を拭う。
「私たちは間に合ったの。滅びゆくはずの一族を救うために私と貴方がいる」
「そうだと、いいね」
「エージ、お願い。私とともに戦ってほしいの。私と貴方であれば必ず勝てる」
「………」
エージはなにも答えない。
「なにか言ったらどうなの?」
「それで、前は……負けたんだよ」
「あの時とは違う!」
ルインは感情的に声を荒げた。
「二度も私が負けると言うのか!」
「今のままだと負けるだろ! 弱くなったお前とオレで勝てると思うのか!」
「………」
静かにルインはうなだれる。
ルインはあれ程の強さでも本調子ではない。
普通に現役で総世界最強だが、ルインはピークが過ぎていると思い込んでいる。
それだけ、約百数十年に渡る異次元への封印はルインへの強烈な楔となっていた。
「お前がその調子じゃ、あの時よりも分が悪い。ただ、頼れる者たちがあの時よりも多い。あの時は敵だったR一族にも頼れるんだ」
「綾香は断腸の思いだったはず。どのような気持ちで綾香はあの言葉を口にしたかと思うと涙が出てくる。私が不甲斐ないばかりに綾香に最後まで迷惑をかけてしまった。クロノスのクズどもを殺すためならいくらでもR一族に頭を下げてやるわ。最終的に桜沢一族が勝つならばそれでいい」
「おっ、やる気になったじゃん。二人でどうこうできるという考えを捨てられただけ、一歩前進だ。これでオレたちにも勝機がある。それでさ、ルインは聖帝の方を頼むよ。オレはやることがあるからさ」
「アンタに? まあ、どうぞ。聖帝は私に任せなさい」
エージは空間転移を発動し、ルインの前から消えた。
「さて、テリーに会いに行きましょうか」
ルインはテリーの部屋まで歩む。
テリーの部屋は、黒塗りの屋敷二階にある。
ルイン、エージが示し合わせたように聖帝の名を口にしたのは、約百数十年前と同じく現聖帝の力を借りるため。
R一族、桜沢一族、聖帝。それらは全て強大な力を有した存在。
当然、聖帝にも力を借りておきたかった。
「?」
テリーの部屋まで行き、扉をノックしたが室内からの反応はない。
「入るわよ」
少し待ってから、ドアノブを静かに回すと扉が開く。
部屋へ入ったルインは室内を見渡す。
結局、テリーは室内にいなかった。
「どこに行ったのかな? できれば今すぐにでも会いたいのに……」
その時、部屋のテーブルでなにかを見つけた。
そこにあったのは一通の手紙だった。
封を開け、中身を確認するとテリーがリュウと少しの間リバースとは別行動をするとの内容。
「どうして、こう……タイミングが悪いの」
焦る気持ちもあるが、今後どうすべきかの案もない。
とりあえず今は気持ちを抑え、他の者たちが戻ってきた時になにをすべきか考えることにした。