新たなリングネーム
久しぶりに見る光景が、リリアの眼前に広がっていた。
エントランスの時点から人でごった返す巨大な商業施設。
R・ノールコロシアム前に、リリアは空間転移で現れていた。
「久しぶりに来ましたね……」
周囲を眺め感慨深げに、リリアは小さく語る。
それも束の間。
「あっ、リリアだ!」
リリアの耳に、自らの名を呼ぶ声が大声で聞こえる。
「………」
うんざりしつつも声が聞こえた方に、リリアは軽く手を上げてから受付側に歩んでいく。
久しぶりの対応でも、リリアにはもう手慣れたもの。
リリアの周囲には、リリアの存在に気づいた沢山の人々が集まってくる。
写真を撮られたり、なにかを呼びかけられていたが普通にリリアはスルー。
特に問題なく、受付まで来た。
「あら?」
受付内には誰の姿もなかった。
「うわっ、リリアじゃん。スゲー」
その代わり、受付カウンターには一人の男性が用紙になにかを記入していた。
男性はR・ノールコロシアムに参加するためのエントリー内容を書いている様子。
「受付の方はどちらに?」
「オレにこの用紙を書いてって渡してから奥の方に行ったけど?」
「奥の方に?」
なにを語っているんだと、リリアは思う。
受付内のスペースは大体3畳程度。
見える範囲にその全てがあり、すぐそこは壁で、奥もなにもない。
「いえ……この先にはなにかがありますね」
状況の違和感から自らのうちに魔力を強く集中させた際に、リリアは初めて気づく。
受付内の壁かと思われたものは見せかけ。
確かに、空間転移のゲートによって繋げられたなにかの広いスペースがある。
一定の水準に到達した者だけが看破できる魔力の覆いがそれを隠していた。
その先に見える光景は、リリアにも見覚えがあった。
R・ノールコロシアム100位以内となった者に贈られる栄誉の一つ。
R・ノールコロシアム隣の高層マンション一室内の光景が。
場所でいうなら、リビング内。
リビング内にある一つの扉が開き、部屋の主が姿を見せた。
元コロシアムランキング6位の傑物。
現コロシアム受付担当の水人クレイシアだった。
「あっ」
リリアに気づいたクレイシアは声を出す。
それから一気に近づき、受付カウンター前に立つリリアのもとまで急ぐ。
クレイシアは水人能力を駆使してカウンターを透過し、リリアを抱き締めた。
「無事で良かった」
「ええ」
耳元で語りかけられ少しだけ驚いたが、リリアは至って普通に答えた。
クレイシアはリリアから離れ、頭に手を伸ばし優しく撫でる。
「いいこいいこ」
「………」
数秒程、リリアは固まっていたが……
「ふふっ……」
緊張が取れたのか、リリアは頬笑みを見せた。
「おい、受付。いつまでもリリアに構っていないで、さっさとこの紙を」
「静かにしていろ」
非常に冷めた目つきで、クレイシアは受付にいた男性に答える。
「えっ」
嫌な予感がした男性はなにも話さなくなった。
元々クレイシアは受付を一任されるはずのない恐ろしい女。
「そういえば……」
今の一言で、リリアも我に返る。
少し首を動かすと、周囲一帯に沢山の人だかり。
頭を撫でられている姿も、スマホで撮られてもいた。
「あの、受付の人」
クレイシアの手を掴み、頭から離す。
「リリア、私の名前はクレイシアよ」
「今日、私は試合のエントリーを行いに来ました」
「私は同じ師を持つ者として、貴方を心から尊敬している」
クレイシアは受付にあるランキング表を指差した。
リリアがランキング7位に位置し、デミスがランキング8位となっている。
「リリア、貴方はデミスに打ち勝った。デミスの正面に立った時、私には分かったの。私では勝てない」
「同じ師とは貴方も、おかあ……R・ノールのもとでノール流を?」
「私もリリアと同じくノール流の免許皆伝者よ。もう闘技者は辞めたけど、当時私はランキング6位だったの」
「6位? 私よりも順位が高い……」
「それは当時の話。リリアもデミスもいない当時の話だから私は6位になれたの。ただそれだけの話よ」
「ですが、なぜ貴方が受付の仕事を? それ程までの才覚ならば、様々な組織が貴方を放っておくはずがありません」
「ノールがどんな仕事でもしていいと話したから。それはそうと」
クレイシアは再びカウンターを透過すると、受付の戸棚から一枚の用紙を取り出す。
「リリアが復帰したら真っ先に戦いたいと申し込んでいる人がいるの。リリアはどうする?」
「それは一体誰ですか?」
リリアは用紙を手に取り、眺めた。
とあるイヌ人の男の子が映っている。
アニメチックな肉食恐竜を模したパーカーを着た短パン姿の少年が。
パーカーの帽子を被ると、恐竜の口から顔が見える形になる。
「その子はランキング10位のイヌ人のエージ」
「エージ? 聞いたことがありませんね」
外見だけを見れば、弱そうに思える。
だが、リリアは知らない。
この人物が元は桜沢一族の筆頭戦力の一人であり、桜沢グループの役職者だったことを。
「今では無所属の人だからね」
クレイシアは多くを語らない。
エージにも桜沢一族にも興味などないから。
「戦いは明日にでも構いません」
「そう? なら、エージにもそのように伝えるわ……」
「あの、なにか?」
どこか少しだけ、クレイシアが寂しそうに見えた。
「もしも、リリアが勝利すれば貴方には伝えなくてはならないことがあるの」
「それはどのような内容ですか?」
「今は言えないの、今の貴方には関係ないことだから」
「そうですか、あと一つよろしいでしょうか?」
「どうしたの?」
「私のリングネームを変更したいの、どうすればいいかしら?」
「それならこの紙に」
クレイシアは受付の棚から、一枚の用紙を取り出す。
そこにリリアは新たなリングネームを記入した。
「面白いリングネームね、受理したわ。次回からリリアのリングネームはこのように呼ばれる」
リリアにクレイシアは頬笑みかける。
「ありがとうございます」
そのように語り、リリアは周囲を見渡す。
十重二重にもなる人だかりが周囲を覆い尽くしていた。
もうこの時点で、リリアは空間転移を発動したい気持ちが強い。
「ひとまずは……」
ここでリリアは帰宅するという選択肢を蹴った。
今では桜沢グループのリリア。
言われた通り、なにかしら目立とうと考えている。
「ちょっと通りますよ」
人波を縫って、商業施設へ向かおうとする。
そうする間もなく、人々は自ら進んで左右に分かれ、普通にリリアは歩いていけた。
コロシアム内には他にも有名な闘士が多数いるため、リリアから離れていく者もいたが。
大半の者らは、リリアに続いた。
「あら?」
通路の壁を背に、煙草を吸っていた女性がリリアの存在に気づく。
それは魔界の邪神ルミナスだった。
ルミナスは、リリアのもとまでやってきた。
「誰かと思いきや久しぶりじゃないの。その様子だと今日から復帰のようね?」
「………」
問いかけに、リリアはなにも答えない。
「ああ、リリアは私を知らないのか。私は一人の観客として貴方を見ていただけだから。私は魔界の邪神ルミナスよ。貴方にその気があるのなら、私の配下の一人にしても構わない」
わずかにルミナスの声が震えている。
それはリリアに対してではなく。
以前、桜沢グループのリリアと語った橘綾香の顔が過ぎるから。
「貴方は、ジスについてをどのようにお考えですか?」
「……ジスですって?」
明らかに、ルミナスの雰囲気が変わった。
「ふん、汚らわしいわ。この私を前にして、よくジスの名を出せたわね。非常に不愉快、謝ってもらえるかしら?」
怒ったのか、リリアの顔を強く指差してルミナスは怒鳴る。
次の瞬間、乾いた音がした。
「なに……?」
呆然とした様子で、ルミナスは自らの頬に手を当てる。
リリアがルミナスの頬を平手打ちしていた。
ルミナスが痛がる素振りを見せる前に。
リリアは深く腰を落とし、床を蹴る。
思い切り、ルミナスの腰回りに両手を回して一気に仰向けの形で背後に押し倒す。
それから素早くマウントポジションを取った。
ルミナスの両肩付近に自らの両膝を乗せ、ルミナスの首を左手で鷲掴みする体勢で。
「ジスに謝りなさい!」
身動きを取れなくしてから、リリアは連続でルミナスの頬を張る。
「こ、この、私が……誰なのか分からないの!」
ルミナスはなにかを喚いている。
この状況に周囲の者たちは歓声を上げるでもなく、止めるでもなく。
全員が示し合わせていたかのように遠くへ逃げ出していた。
確かにルミナスは悪党だが、誰であろうと手を出せない。
現在の魔界の邪神だからではない。
なんの因果かR・ノール派であり、R・クァール派幹部のミネウスと内縁関係にあるからである。
ルミナスに手を出すということは、二つの大きな勢力に手を出すのと同じ。
それが分かるから今の状況を誰も茶化さないし、その場に留まらず、全く知らぬ存ぜぬで通そうとしていた。
「助けて……ミネウス……」
十数回程、平手打ちを受けてからルミナスは失神した。
「全く、この状態に置いても謝れないとは。それでも貴方は組織の長ですか?」
あえてリリアはルミナスの胸の位置に立つ。
リリアは前進し、その一歩目でルミナスの顔を踏みつけた。
「無様ですね、邪神ルミナス。魔界の邪神は貴方ではなく、ジスの方が十分お似合いですよ。貴方はせいぜい床の敷物がお似合いです」
すたすたとリリアは離れていったが、先程とは異なり誰もついていかず、寄りつかない。
もう本当にリリアの置かれている状況はヤバいを通り越して即座に命の危機レベル。
という風に、他の者たちからは見られている。
しかしながらR・ノールはリリアの母親。
R・クァールもリリアを倒せる実力はない。
リリア自身もそれが分かっているからこそ、ルミナスの背景など気にもしない。
「なにやら誰もついてきませんね?」
目立たなくてはならない時に限って誰も来ないとは……
いつもは散々ついてきて邪魔なのにと、リリアはうんざりしている。
仕方なくリリアは空間転移を発動して、エアルドフ王国の自室へ帰る。
明日の戦いに備えるために。