浸食
リリアがバロックの研究施設に通い始めてから、一ヶ月が経過した。
以前とは見違えたレベルでリリアは鍛え上げられ、魔力も体力も一ヶ月前とは段違い。
「セラ、いますか?」
いつものように空間転移のゲートを潜り、早朝から研究施設へ訪れたリリアはいるはずのセラに呼びかける。
「おはよう、リリアさん。今日もすぐに戦う?」
セラは操作パネルの近くにいた。
今日も片手にカップ式自販機のコーヒーを持っている。
「ええ」
いつものようにセラは対応し、リリアはコンクリート打ちっぱなしの殺風景な部屋に入る。
もうすでに人型の黒いもやのような化物は入口の傍で待ち構えていた。
リリアが部屋に入った瞬間に奇襲を仕かけ、強引にリリアの首筋を鷲掴みにした。
化物は天井スレスレまで一気に腕を振り被り、リリアを床へ叩きつけた。
「ぐう……」
リリアは叩きつけられた衝撃よりも、全身を貫かれる痛みを感じた。
床には魔力で作り上げた氷柱状の氷がびっしりと敷き詰められていた。
一連の流れは化物が仕組んだもの。
手や足に、頭も胴体にも氷柱が突き刺さり、一撃必殺と思えるような状態になった。
「………」
リリアは最初だけ反応を示したが、それからは無反応で血まみれのまま横たわっている。
無反応をいいことに化物はリリアを氷柱ごと連続で踏みつけた。
自らの足が傷つくのもいとわず、リリアを全力で壊しにかかった。
ひとしきり踏み続けていると化物の動きが止まる。
「あの」
化物の足元から声が聞こえた。
「本気を出せと、いつも話しているじゃないですか?」
化物の足が少しずつ持ち上がっていく。
それに気づいた化物は足に強く力を入れ、踏ん張っていたが、ついに背後へ尻餅をついた。
「情けない、それが貴方の本気ですか?」
身体中に穴が開いた状態でリリアは立ち上がった。
傷があったのも束の間。
すぐにリリアの身体にあった傷は治癒されていく。
炎人であるリリアは、炎人化さえすれば一瞬で怪我が治る。
化物がリリアに勝つためには速攻をかけ、最初の段階で仕留めきらなくてはならなかった。
「しかし、この私にこれだけダメージを与えられたのは褒めておきましょう。頑張りましたね」
尻餅をついている化物に手を差し伸べる。
静かに化物はリリアの手を掴み、立ち上がった。
と、同時に掴んだ腕を握り潰しにかかる。
そして、もう片方の手でリリアの顔へストレートを放った。
だが、リリアはびくともしなかった。
「最初の攻撃で、私はもう臨戦態勢に入っています。攻撃してくるだろうと思い、あえて貴方に手を差し伸べたのですよ? だからこそ、その体たらくにはガッカリです」
リリアは腕を強く引き、掴まれている手を引き離させる。
直後、リリアは化物の腹部へ掌底打ちを叩き込み、押し込む。
ふわっと化物の身体は宙に浮き、背後へ大の字で倒れた。
追い打ちをかけるようにリリアは化物の顔へ両膝を揃えたニードロップを叩き込み、化物は完全に動かなくなった。
「勝負ありですか」
リリアは立ち上がり、切れ目が入ったコンクリートの壁を眺める。
一体目を倒したので、次の二体目の出現を待つ。
「リリアさん」
セラの声で室内にアナウンスが流れた。
「どうしました?」
「本日で丁度一ヶ月の期間が過ぎたのを覚えていますか?」
「ええ」
リリアは軽くうなずく。
「今日までで随分貴方の戦闘に関わるデータが取れました。対戦相手も歯ごたえのある者たちになったのではありませんか?」
「にしては、肩透かしもいいところでしたよ?」
「それでも最初の頃より彼らも改善されたのでは?」
「それはそうですね。それだけ私に鍛え上げられた証拠なのでしょうか」
「私もリリアさんのおかげで強くなれたと思います」
「セラもそう思いますか?」
「では、これはどうでしょうか?」
ふいに、何者かにリリアは右腕を掴まれる。
「ん?」
腕を掴まれた方へと視線を移したリリアの目に、先程倒した化物が映る。
直後、リリアの全身が総毛立った。
あっさり倒した相手なのに、この場にいたら不味いと察知した。
「この……」
化物の手を振り払おうとする。
だが、リリアの右腕に力が入らない。
まるで自らの腕自体が化物の手を振り払うのを拒んでいるかのように。
力が入らない右腕を目にし、リリアは驚愕した。
自らの右腕が化物と同じ黒いもやに変化し始めていたから。
「か、身体が侵食されている……?」
最早一刻の猶予もなくなったリリアは即断即決で、左手で右腕の肘辺りから手刀で斬り落とす。
次にリリアのうちに沸き起こったのは、魔力体を侮辱されたという強い怒り。
魔力体に対して、それ以外の者が意図的に魔力を通じて操作する。
このような行為は魔力体に対する最大限の侮辱であり、ほぼ全て魔力体が本能から嫌っている。
魔力そのものの魔力体にとって、自らの根源すらも揺るがせる大事なのだから怒りは当然の反応だった。
「貴様!」
素が出たリリアは斬り落とした右腕を振り被る。
炎人能力を駆使し、一瞬で腕が元通りになり、化物の顔面に拳を叩きつけようとした。
しかし、リリアの攻撃は当たらない。
リリアの背後から何者かがリリアを羽交い絞めにした。
羽交い絞めにしている者の腕を目にしたリリアは血の気が引いた気がした。
その者の腕も黒いもやでできている。
腕を掴まれていたわずかな時間で侵食が進んだのに、今度は自らの背後にかけて化物が密着している。
「わあああ!」
リリアはもう気が動転して普通に対処することができなくなっていた。
自らの背後の感覚が徐々に薄まり、失いかけているのがリリアにも分かる。
勝機と見たのか、最初にいた化物もリリアに正面からタックルを仕かける。
その後、続けざまに殴り続けた。
タックルを受けたところは勿論、殴られたところもまた侵食を受け、リリアの全身のほとんどが黒いもやへと変化していく。
感覚の喪失に絶叫を上げていたが、次第にリリアは声を発しなくなった。
自らの見える範囲はもうほとんどが黒いもやに覆われている。
絶望の淵に追いやられ、リリアは諦めてしまった。
化物が離れていくと、そこにはリリアだったはずの黒いもやの塊しか残らなかった。