大嵐の予兆
今、リリアとなっているのが自分だと気づかれないようにしなきゃ。
声に出さず、ノールはそう思う。
もしも、リリア=ノールだと誤認されてしまった場合。
自らがなにも言わず姿を消してまで他との接触を打ち切った厄介事を押しつけてしまう可能性があると考えた。
「どう考えても、吸収態の発動は不味かったな。リリアには絶対にできるはずがない上に、ジーニアス君とライルがいる……二人とも免許皆伝者だから一瞬で分かってしまっただろうな」
静かにノールが思考を巡らせていると。
闘技場の端にいたセフィーラが床を蹴り、一気にノールまでの距離を縮める。
「くらえ!」
左側面からの高速の蹴りをノールの右半身に向かって放つ。
「はいはい」
軽く右腕を上げてガードした。
ジーニアスの魔力の流れなど手に取るように分かるノールにとっては軽く回避でも良かった。
「ん……?」
続けざまに行動し、攻撃に移ろうとした。
自らの右腕が動かないことに気づくまでは。
「折れている?」
右腕から感じる鋭く強い痛みが、ノールの動きを止めさせた。
「そうだった、この身体はリリアのものだ。ボクの身体じゃないから魔力量も技量も相当に低いのか」
ノールの動きは完全に自分自身で培ってきた魔力量、技量、経験からのもの。
ここには、経験しか存在しない。
今まで通りに戦えない状況が、ノールに若干ながら悲しさを感じさせた。
「勝機!」
目前の体たらくを見逃すような女ではない。
相手の行動の遅さは、セフィーラにとって有利。
勝機と悟ったセフィーラはノールの身体を瞬く間に殴る、蹴るの滅多打ちにしていく。
最早ここで決めるつもりだった。
「さっきから痛いって」
振り上げた拳が胸部を貫き、骨が砕け、心臓にまで叩き込まれる。
本当に殺意に満ち満ちている攻撃の隙をつき、ノールはセフィーラの腕を両手で掴んだ。
リリアの技量は確かに低いが、それでもセフィーラを出し抜き、勝利できるとノールは確信していた。
以前、リリアにノール流を教えていた際に気づけたこと。
リリアは他の魔力体よりも相手の魔力を奪う魔力奪取に長けている。
これは、リリアの天性の技。
正々堂々と戦うのが信条のリリアは、相手の魔力を奪い取りアドバンテージを得るという印象の悪さから扱いを避けてきたが、ノールは魔力体としての技術にケチをつけたりはしない。
「えっ」
セフィーラは呆然としていた。
リリアの胸板を打ち抜き、心臓を破裂させたのまでは良かった。
絶命させるには十分の攻撃にも反応を示さず、一気に魔力を奪い取られる感覚がして、なにも力が出ない。
非常に強い脱力感を覚え、立っているのがやっとの状態に陥っている。
覚醒化もダークエルフ化も解け、髪や瞳の色も元の緑色に戻った。
セフィーラは魔力切れになっていた。
「私をボコボコにできて気分が良かったですか、ジーニアスさん?」
リリアの口調を真似してみたが、ジーニアスの名で呼んでいる。
魔力吸収によって、ノールは完全回復していた。
「勝敗は決しましたね」
「まさか。この程度で負けを認めるようであれば、ノール流免許皆伝者として名折れだ」
「誰も無駄死にしろとは教えていないけど」
「ノールさん、今までどこにいたんですか」
「私は見ての通り、リリアですよ?」
「リリアは僕をジーニアスと呼ばない」
「なんだ、やっぱりジーニアス君も気づいていたのか」
「どうして急に身を隠してリリアとしての生活を送っていたのですか?」
「初めに話しておくけどね、リリア=ノールではないよ。ボクにもリリアの身体を間借りできている理由が分からないんだ。ボクはもうこの世界に戻ってくるつもりはなかった」
「なにを言っているんですか、ノールさん。僕たちにはノールさんが必要なんです」
「もうボクがいなくなってから数年が経つし、ジーニアス君にもボクを忘れてほしい」
「いいですか、ノールさんを誰も忘れられたりなんかしませんって。だって、ノールさんがいなくなっているのに気づいていたのは今でも十数人程度だと思います」
「どういうことなの? 全部手放してきたのにそんなはずは……」
「今でもノールさんの偽物が、今までノールさんがしてきたことを全て取り仕切っています」
「ボクの偽物?」
「雰囲気が若干異なる気がしていて、僕は違和感を覚えていました。でも証明できるものがなにもなかった。今こうしてノールさんと話せなければ完全に偽物だとは僕でも判断できない程です」
「もしかしたら、ボクの振りをしているのはシスイ君かも。あの子にもなにも話していなかったのに、自らボクの代わりをしてくれていたのか」
ノールは全てを手放したと思っていた。
この不思議な機会に今でも必要とされているのを知れて、とても感慨深い気持ちになった。
「………?」
わずかに、ノールは観客席側に目を向ける。
違和感があった。
それをリリアの姿では完全に把握ができない。
「分かっていると思うけど、この闘技場内にR・ノールはいなかったことにしてね。シスイ君が演じているR・ノールが本物だと、ジーニアス君も今後は思うように。あと、杏里くんとシスイ君にはボクのことは伝えないようにね」
「なぜ、伝えてはいけないのですか? 今でもノールさんが健在なことくらい……ノールさん?」
静かに、リリアがしゃがみ込む。
苦悶の表情で目を瞑り、両手で頭を抱え込んで。
すでに吸収態も消え去っていた。
「どうしたのですか?」
「頭が痛いのです……」
「怪我はしていないみたいですよ、ノールさん」
「ノールさん……? そういえば、今ノールさんはどちらに……?」
「どちらって……もしかして、リリアなの?」
「この私と、ノールさんをどのようにしたら見間違えられるのですか」
「うん、それもそうだね」
いつの間にか、変わってしまっていたことにセフィーラも気づく。
今はひとまず、ノールの言いつけ通りにノールの存在を隠すことにした。
「リリア、様子がおかしいな」
闘技場の舞台にライルが上がり、リリアの状態を確認する。
審判が普通に舞台上に侵入した時点で、この戦いはノーゲームとなる。
「可哀想に、苦しみ悶えているじゃないか。弱点攻撃ばかりするなよ、鬼の所業だ」
「お互いがこうなることを正式に納得した上での殺し合いなのに、相手の弱点となる攻撃を好き好んでやらない奴を僕は今まで見たことがないけど?」
そんなことよりも、セフィーラはライルの認識がどの程度までなのかが気がかりだった。
「ライルはさっきのこと……」
「ああ?」
「リリアの身に起きたことなんだけど」
「知っているよ、ノールだろ」
「知っていたの?」
「元々関わりのあった魔力体たちは皆、ノールが姿を消した時から知っていることだ」
「なっ、なんだよ、それ。知っていたのなら教えてよ。僕がここまで長い間、疑問を抱かなくても良かったのに」
「突然なにも言わずにいなくなったのなら聞くなってことだろ? シスイもなにも言わずに隠すのならそういうことなんだろ? なら、いいだろ。人に教える必要はない」
「今の一言ってさ、明らかに魔力体だけが理解していればそれでいいという意味だよね?」
「そう伝えたつもりだ」
「そういうものなのかねえ……」
魔力体優位主義が全面に現れた内容に、セフィーラは強烈な不愉快さを覚えた。
しかもその考えが他の魔力体にも、おそらくこのR・ノールコロシアムで仕事をしている全ての魔力体たちに共通しているのが腹立たしい。
それが事実なのだとすれば、人ではセフィーラの語る通りに十数名しか気づいていないが、魔力体では数万体規模でノールの失踪に気づいていることになる。
「さあ、リリア。立てるな?」
うずくまり、痛みに悶えるリリアにライルは肩を貸して立ち上がらせる。
「お前は下位組織の者でありながら、初めて上位組織の者に勝利した女だ。誇っていいぞ、リリア」
リリアではなく、ノールが勝利したのを知っているのにもかかわらず、ライルはリリアの勝利と語る。
ライルが舞台に上がった時点で、ノーゲームなのに。
セフィーラは魔力切れが起きており、もう訂正するのも面倒でリリアに負けでいいと思っていた。
「………」
今のリリアはそれどころではない。
頭の痛みが酷く、発狂してしまいそうだった。
それでもリリアはライルとともに歩を進め、選手入口を通り、控え室へと向かっていく。
納得がいかない表情しながら、セフィーラも続いた。
三人は気づけなかったが、観客席の一つが起き上がるような動作で若干動く。
先程、ノールが視線を移した方の観客席にあり、それは本来なら置かれていないスペースに一席多く置かれていた。
「やはりそうでしたか。アルテアリスさん、フリーマンさんの仮説は正しかった。リリアが、ノールさんだったのですね。となれば、私たちも次への行動に移る時なのでしょう」
独り言を語り、その物体は空間転移により姿を消した。
舞台と観客席までの距離から、リリア=ノールではない事実に気づけなかった。