ノールのスロート
暗く深い闇が、リリアを覆っていた。
目を開いているにもかかわらず、目を閉じているかのように。
自らの身体さえも視認できない闇の中を、リリアは座り込んでいる。
一体、ここはどこなのでしょうか?
ふと、リリアはそのように思う。
リリアの意識は混濁していた。
今まで自分がなにをしていたのか、なにをしたかったのか。
そういった事柄すらも思い浮かばない。
「なにか……よく分かりませんが、私は今この場に長く居るべきではないと思います」
すっと、リリアは立ち上がった。
周囲一帯は暗闇に包まれている。
なので、リリアは若干腰が引けた状態で片手を前に出しながら、ゆっくりと歩を進める。
少しづつ、少しづつ歩を進めていくと、温かく綺麗な光が見えてきた。
リリアのうちに、今まで忘れていた大事な人たちの姿が思い浮かぶ。
それと同時に、ぴたりとリリアの動きが止まる。
この先には行くべきではない。
直感的にリリアの意識に、その気持ちが芽生えた。
どこまで歩いてきたのかは分からないが進む方向を反転させ、今まで歩いてきた方へと戻り出す。
温かく綺麗な光は次第に見えなくなり、辺りは再び暗くなり始める。
うっすらとながら見えていた自らの姿が判別できなくなっても気にもしない。
どれ程の距離を歩いただろうか。
再び、わずかながら周囲が明るくなり始めてきた。
そこで初めてリリアは気づくことがあった。
好んで着ていた紫色のドレスの胸元辺りが破けている。
「なんということでしょう……大事に着ていたはずなのに」
城から離れ、ギルドでの生活を送っていたリリアは以前のお姫様生活をしていただけの王族ではなくなっていた。
物を少しでも長く大事に使おうという庶民では一般的な発想が芽生えている。
この今着ているドレスは、自らと日々をともに過ごしているうちに愛着が湧いていた。
多少擦れてきても大事にしてきたドレスが破け、リリアの心境は複雑だった。
「この際はもう仕方がないですわ」
言葉ではそのように語りながらも、リリアは相当落ち込んでいる。
ひとまず、気を取り直すとリリアは再び歩を進める。
「今はこの場所がどこなのかを知ることが先決です」
リリアの前には、一つの道が続いていた。
トンネル状の、それでいて洞窟のような自然物のものではなく、空間に穴が開いているような道が。
リリアは一切疑問を抱かずに、ただただ真っ直ぐ進んでいた。
次第に周囲が明るくなり始めていたからでもあるが。
この洞窟のような場所が次第に明るくなるなど不可解であるはずなのに、そのような判断ができぬ程にまだリリアの意識は混濁したままだと言える。
「えっ……」
突然、リリアは体勢を崩す。
辿ってきた道の先には、なにもなかった。
高所から落下する感覚が全身を襲い、恐怖を感じる頃にはすでに意識を失ってしまった。
次にリリアが目覚めた時。
目にしたのは、普通の一般的な世界の光景だった。
草木が生え、建物などの人工物があり、動物の姿もある普通の光景。
「今までいたところは一体……?」
この場所に来ても、まだリリアの意識は混濁していた。
自らを落ち着かせ、コンディションを整え、状況を把握するためにリリアは一度地面に座る。
周囲を眺めると、どこかの街の外れであるとのことが分かった。
リリアの暮らすエアルドフ王国とほとんど文化レベルの差はないように見える。
リリアが今いる場所の近くには、大きな黒塗りの屋敷と、その正面付近には使用人が住んでいるような掘っ立て小屋が一軒ずつある。
黒塗りの屋敷の背後には、ずっと一つの街が続いていて、その中心に大きなお城が見えた。
「どこの世界なのかは分かりませんが……ひとまず、助けてもらいましょう」
まず、リリアが目指した先は黒塗りの屋敷。
他の家々には全く目もくれず、本能的に引き寄せられるように進んでいた。
「もし……もし……?」
黒塗りの屋敷の扉をノックし、誰かが出てくるのを待つ。
しかし、数分待っても誰かが出てくる気配はない。
「仕方ありません……」
背に腹は代えられないリリアは大幅に妥協し、仕方なく使用人が住んでいると思われる掘っ立て小屋に歩いていった。
リリアの目からすれば掘っ立て小屋だが、意外と細部が造り込まれているログハウス状の比較的綺麗な家。
その家の扉を、リリアはノックもせずに開ける。
端からリリアは自らよりも程度の低い者が住んでいると思い込んでいる。
扉を開けた少し先に、長めのソファーベッドに寝そべった女性がいた。
唐突に家の扉を開いたリリアを少しだけ口が開いた状態で見ている。
リリアの方を見ながらも、寝そべりながら読んでいた雑誌のページを捲る。
「見覚えがありますね……」
ふと、リリアはそのようなことを考える。
寝そべっているのは、特殊な刺繍のされたワンピース状の種族衣装を着用した細身の女性。
青から水色のグラデーションがかった長い髪で、綺麗な青色の瞳をしている。
明らかに水人の魔力体の女性。
その瞬間、リリアは電気が走ったようにあることを思い出す。
目の前にいる女性は、紛れもなくR・ノールだった。
「まっ……まさか、R・ノール……さんですか?」
「………」
無感情な目でリリアを見たまま、ノールは特になにも語らない。
少しの間、ノールはリリアを見ていたが、わずかに頷くと再び雑誌を読み出す。
「あの、ノールさん?」
特に反応がないのが気になり、再びリリアは呼びかける。
「………」
今度はにらむような目つきで、ノールはリリアを見る。
また少しの間、見つめてから頷くと雑誌を読み出した。
「私の話を聞いてくれませんか?」
一連の流れになんの意味があるのか分からないが、リリアはノールに呼びかけるしかなかった。
「全く……」
文句を語りつつも、ノールはソファーベッドから立ち上がる。
すたすたとリリアの前まで歩いてくると、リリアの肩に手を置く。
「えっ、嘘? どういうこと?」
ここで初めて、ノールは別の反応を示した。
普通にリリアに驚いている。
「あの、なにか?」
「君は……えっ、なに? 誰なの?」
「私はエアルドフ王国ミラディ城城主であり、王位継承権第二位のリリア姫ですわ」
「なにそれ全く知らない」
「私もよく分からないのですが……R・クァール・コミューン内にあるせいで、私の暮らす世界が分かりづらいと言われたことがあります」
「R・クァールだって?」
そういうと、ノールは腕を組む。
「その女の名前を口にする時点で本当に別の世界から来た人なんだね。その女の名前を口にする人なんて、この世界にはいないし」
ノールはリリアの肩に手を置く。
「とりあえず、あの辺に座って」
ある方向をノールは指差した。
そこには二人がけのテーブルと椅子があった。
「ええ」
リリアは移動する際に室内を見渡す。
室内は広めのワンルームで、ベッドが三台、ソファーベッドが一つ、二人がけテーブルと椅子、隅の方に小さめのキッチンがあった。
一応、もう一つ出入口とは別に扉があったが、おそらくそれはお風呂やトイレへの扉で、このワンルーム部分だけで暮らしが完成されていた。
「よいしょ」
座ってと話したが、リリアよりも先に二人がけテーブルの椅子にノールが座る。
それと向かい合うようにリリアも椅子に座った。
「君は……リリアだったかな? どうして、ここにいるの?」
「その、実は私にもよく分かりませんの。気づいたら、この世界にいて……どういう経緯で私がこの場にいるのかも分からないのです」
「どういう経緯でこの場にいるのかが分からない?」
「そうなのです……」
「どういうことなの……と、思いきやボクもそういう状態になったことあった。懐かしいなあ」
感慨深げにノールは語り出す。
「ねえ、天使界って知っている? ボクもね、いつの間にかそこにいたことがあったの。世の中には急に不思議なことが起こるものなんだよねえ」
「天使界……聞いたことがありません。よく分かりませんが、ノールさんにも同じような現象があったのですか?」
「多分、強制転移みたいなものでしょう? 知らんけど」
「え、ええ」
変に投げやりなのが、リリアは微妙に気になった。
「でさ、どうして君はここに? この世界に来た経緯じゃなくて、この家にわざわざ来た理由は? あっ、そうだ」
玄関の扉をノールは指差す。
「やり直せ、マナーだぞ」
「分かりましたわ」
意味が分かったリリアは一度、家を出る。
それから玄関の扉をノックした。
「もし……」
「いらっしゃい、リリア。入ってきなよ」
家の中から声が聞こえた。
「ええ」
扉を開けると、先程のようにノールはソファーベッドに横たわり、雑誌を読んでいた。
「なんだか疲れているように見えるね、そこのテーブルで休んでいくといいよ。こっちはボクだけのソファーだから駄目ね」
「ええ、ありがとうございます」
リリアはテーブルの椅子に再び座る。
ノールもリリアがいても先程となにも変わらないように、ソファーベッドで雑誌を読み出した。
想像を絶する恐ろしい化物呼ばわりされていた割に、ノールは普通の女性にしか思えない。
印象が変わり、次第にリリアの緊張が緩和されていく。
それが原因で、はっきりしていた意識が再び混濁し始め、リリアはテーブルにもたれかかる。
急速に意識を失っていった。
「あれ? リリア?」
気づいたノールがなにかを近くまできて語りかけていたが、もうリリアには聞こえなかった。
登場人物紹介
R・ノール(前章の主人公、年令43才、身長172cm、B88W54H83、魔力邂逅の水人の女性、出身地はグラール帝国。極めて熱烈な種族主義思想から常に水人の種族衣装をまとっている。ノール流と呼ばれる流派の開祖。ミール・エールとの戦いで敗北を喫した後、魔力邂逅の能力で新たな世界を創り上げ、今現在までずっと隠遁生活を送っている)