天使界
暖かい不思議な明るさを感じ、ノールはゆっくりと閉じていた眼を開く。
仰向けで倒れていたノールが目を覚ますと、柔らかくふわふわする感触を背中に感じた。
ゆっくり身体を起こすと、そこは今までいた戦場とは全く違う場所。
雲のようなものが地平線の先まで続く不思議で幻想的な世界だった。
ふわふわするものは通常あるべき土の地面の代わりに存在する白い雲。
この風景を見て、ノールは気付いた。
ここが天国なんだと。
「ボクは死んだんだね。ミール、エール、死ぬ前に会いたかったよ」
自然と頬を伝うものを静かに拭う。
死んでも、天国にいても、これ程辛いのはなぜだろうか?
止まらない涙に、心からノールは思った。
そんな傷心のノールに物凄い勢いで、なにかが接近していた。
「とうっ!」
なにかのかけ声と略同時に、ノールは背後からの衝撃により弾き飛ばされた。
「いったぁ、なんなの一体……?」
衝撃によって顔から雲に倒れ込んだノールは即座に起き上がり自らの背後を確認する。
しかし、背後にも周囲にもなにもなかった。
「おい、上を見てみろ」
ノールの上空から落ち着いた感じの女性の声が聞こえた。
宙を仰ぐと、そこには白い鎧を身にまとった一人の女性が空中に浮かんでいた。
それを可能にしているのは背面に存在する彼女の背丈程ある天使の翼をはためかせているからである。
「浮いて……いるの?」
「天使だから、だな」
女性はノールの問いかけを返すと、雲の上で自らを見上げているノールをいきなり抱きかかえ空中へと一気に舞い上がった。
「うわっ!」
全身が地面から完全に離れ続ける初めての感覚にノールはじたばたと暴れる。
「空を飛んだのは初めてか?」
「飛べるはずがないよ!」
「我々には羽が生えているのだから空を飛べるのだよ。そんな我々には幼少の頃からの常識を知らないと見ると、やはり先祖返りしたばかりの者なのだな」
「どういうこと?」
「今、この天使界を統べる女帝が暮らす宮殿へと向かっている。そこで、自らの背をさわってみるといい」
そのようなやり取りをしていると、大きな宮殿が見えてきた。
「あれは?」
「先程話した宮殿だ。天使になったからにはこの天使界を知り、一般の者と暮らせるように女帝へ仕えなくてはならない。お前は知らなくてはならないことが沢山あるんだ」
天使の女性は宮殿の入り口付近に舞い降り、ノールもその場に下ろす。
「自らの背にふれてみろ」
「うん」
ノールは言われるがまま、背中をさわる。
「その……なにか、羽があるよ」
「お前は今、見習いの天使に過ぎない。それでは宮殿へと入ろう」
「あの、貴方は……」
「そうか、自己紹介がまだだったな。私の名はレティシアという。よろしく」
「ボクの名前は……」
「名を語る必要はない。これから女帝にも名を伝えるのだから、その時に聞かせてもらおう」
ノールの話を遮り、レティシアは先に宮殿内へ入る。
宮殿内の長い回廊を進むと大きな扉の部屋の前で立ち止まった。
「私だ、扉を開けろ」
レティシアの声に反応するように、扉は内側に向かって開き始める。
室内に入ると、そこはとても広い空間であり床には一面赤い絨毯が敷かれ、煌びやかな装飾などが刺繍されていた。
「女帝アクローマ、先祖返りしたばかりの天使を発見し、連れて参りました」
レティシアは十数メートル程離れた場所から跪き、玉座に座るアクローマに話しかける。
「ほら、お前。さっさと自己紹介しろ」
「は、はい。ボクはノールと言います」
玉座に座っていたアクローマは妙に静かだった。
アクローマからは寝息のような音が聞き取れる。
「貴様、職務中に寝るな!」
アクローマに向かって手をかざし、レティシアは恐るべき速さで魔法を詠唱。
かざされた手から光の波動ソレイユという魔法が放たれ、躊躇いなくアクローマへ直進。
ソレイユの光の波動は一直線に玉座に座るアクローマに届き、命中。玉座ごと弾き飛ばした。
「なんなのよ、今のは!」
私は怒っていますよという表情でアクローマは起き上がる。
「目が覚めたようだな」
「ど、どうして……?」
誰が魔法を使用したのか分かったからか、途端に眠そうな表情でアクローマはレティシアをぼんやりと見つめる。
「どうしてそんなところにいるの、貴方は? 謁見の際は私の傍まで来るのが通例でしょうに。上の者としての立場が貴方にはあるの。その程度を貴方自身が示せなくてどうするの」
「遠くから話しかけられたら女帝らしくて格好良いとお前が頼み込んだから、こんな馬鹿げた距離を取っている!」
「なにを言っているのかしら、私には分からない。今の話に私の関与があったとは到底思えないわ。それでもなお貴方がそうであると言い張るのなら、もう私はそれで構わない。これ以上貴方を悪く言うつもりはないわ。さあ、早く私の傍に来なさい」
なぜか寛大な処置をしたかのように上から目線のアクローマはやれやれといった表情をしている。
まだ怒っているレティシアはノールの手を強く引き、倒れた玉座を定位置に戻しているアクローマへ近付いた。
「あら? ……ああ、見習いの天使さん? こんにちわ、貴方の名前を聞かせてね」
玉座を直し、腰かけてからアクローマは尋ねた。
「ボクはノールと言います」
「ノール?」
ぴたりと、アクローマの動きが止まる。
ノールの名に聞き覚えがあるのか先程とは打って変わり、アクローマは真剣な顔つきで考え出す。
「いえ、今は関係ないわね。ちょっとこっちの話だから」
「?」
今さっきの間をノールは不思議に思った。
アクローマには自らの名に思い当たる節があったようだが、ノールには全くない。
「貴方は天使になったばかりなんでしょ? だとするなら貴方に話さないといけない事柄が色々とあるの。ちゃんと聞くのよ」
「はい、分かりました」
「まず初めによく勘違いされている事柄から。ここは天国ではなく天使界。私たちは天使であっても神など崇めていない。偶像崇拝なんて下らないじゃない? 端から馬鹿らしくてやっていないわ」
聖書などで得ていた知識とは180度異なる内容を伝えられ、ただただノールはアクローマを見つめていた。
そのようなことを言い出すとは到底思わなかったからだ。
「ふふっ、貴方の表情を見ると大分混乱しているようね。ステレオタイプな価値観なんて事実に直面したなら簡単に現実へと修正できるものよ。いずれ貴方にも理解できるわ。なにせ、貴方自身も私たちと同じ天使なのだから。まだ続くから、私の話をちゃんと最後まで聞くのよ?」
ぼーっとしているノールにアクローマは注意を促す。
「天使は魔族や悪魔と敵対していない。まあそりゃそうよね、どうしてわざわざ敵対しないといけないのか理解に苦しむわ。あと、天使だって魔族や悪魔に変化ができるの、その逆も勿論可能ね。元々貴方も魔族か悪魔なんでしょう?」
「ボクは元々魔族や悪魔ではありません。今まで魔力体の水人でした」
「それ本当なの? というと天使界や魔界とかそういうの以外から一人で来たの? それどころか、魔力体の水人? どうやったのかしら?」
「その、ボク死んでいないなら元の世界に帰りたいの」
「そうなの、もしも貴方が大天使長になったら元の世界に帰してあげても構わない」
ノールの一言にアクローマは速答する。
「大天使長って?」
聞き覚えのない言葉に、ノールは傍にいるレティシアにその意味を聞く。
「それは、この天使界で最高位である女帝の次に高い階級だ。元々四名の構成だが現在欠員が一名いるため能力のある者を必要としている。天使になれたばかりの未熟なお前が大天使長になるまでに一体どれ程の期間が必要かは想像もつかんな」
要するにできるはずのないことを要求されていた。
大体の事柄を説明されたノールはアクローマとの謁見後、アクローマの側近である白瀬向日葵という男性の天使に、見習いの天使たちが暮らす宿舎まで連れていかれた。
「君ってさ、魔力体の水人なんだってね」
宮殿内の通路を歩きながら、白瀬がノールに話しかける。
「どうしてそれを?」
「アクローマ様の謁見の間にいたじゃん。オレは側近だから、アクローマ様のお傍にいられるんだ」
「ごめんなさい、貴方には気付かなかったです」
「それは、ちょっとショックだけど」
二人で何気なく話しているうちに宿舎前まで着いた。
「ちょっと待って」
「向日葵さん、どうしたの?」
「この近くに敵がいるんだ」
「どこに?」
ノールが聞き返すと白瀬は宿舎の傍にある噴水を見ていた。
そこでは仲が良さそうに会話をしている男女二人組の天使の姿が。
「あいつ、相当な危険思想を抱いているな。オレがこの手で天罰を与えてやろう! くらえ、ホーリー!」
速攻で神聖魔法ホーリーの魔法を白瀬は詠唱した。
ほぼ同時に、桃色の髪の女性天使と仲良さそうに会話をしていた男性天使の足元が光り輝く。
足元から火柱のような光線が空に向かって男性天使の全身を駆け抜けていき、光線とともに宙へと弾き上げられた男性天使は雲の地面に叩きつけられた。
「よし、命中した」
満足したのか白瀬は命中した瞬間に、手を軽く引く形でガッツポーズをする。
「リサと仲良さげに話すとか職務怠慢もいいところだ。なんかもう気が済んだし、これから君を部屋に案内するよ」
普通に考えて有り得ない行動を取っている白瀬にノールは一瞬で引いた。
それから若干上機嫌の白瀬に宿舎内を案内され、ようやくノールは自室となる部屋に辿り着いた。
一人部屋となっている部屋には白いシーツが敷かれたベッドとクローゼットなどの家具が置かれてある。
しかし、それらはほとんどノールの視界に入らない。
極度の疲れからベッドに倒れ込むようにして崩れ落ちた。
仰向けのまま、ベッドで寝ていたノールはぼんやりした様子で目を覚ます。
ここは一体どこなのか?
そう思いながらも天使界にいるのを思い出し、ノールは身支度を済ませ、アクローマに会いに行く。
ノールはアクローマに聞かなくてはならないことがいくつかあった。
なぜ、自分は天使界にいるのか。
なぜ、天使になれたのか。
どうやったら大天使長になれるのか、などであった。
色々と考えているうちにノールは謁見の間の前に着いた。
謁見の間の扉は前回同様に閉ざされている。
「開門せよ……」
なんとなく口にしてはみたが、扉は開く気配もなく、なんの反応もない。
仕方なくノールは水人化し、身体を水蒸気化させ扉を素通りすると室内で実体化した。
そして、玉座に座っているアクローマに近寄る。
「ちょっと、君。一体どこから入ってきたの?」
当然だが、アクローマの側近である天使が止める。
「あれ、君は?」
「あっ、向日葵さん……」
その側近の天使は白瀬であった。
微妙に緊張した様子でノールは返答していた。
「とにかく素性が分かったとしても、アポイントも取らないんじゃ簡単にアクローマ様へは会わせられない。話があるなら、オレの方から伝えてあげるよ」
白瀬がノールを遮り、手を掴むと謁見の間から外に出そうとした。
「ちょっと、待ちなさい」
謁見の間にアクローマの声が響く。
「その子は、私へ会いに来たのでしょう? だったら、私の傍に連れてきなさい」
「ですが、アクローマ様はこれから職務を……」
「構わないわ。見習いの天使なのに謁見の間へ強引に入ってくるのだからなにかあるのでしょう」
「そうですかね? ともかく、ノール。貴方にアクローマ様と謁見する許可が出ましたよ」
ノールは白瀬から離れ、アクローマに近寄る。
「私に用があるのよね?」
「はい、色々聞きたいことがあります。ボクはどうして天使界にいるんですか?」
「ごめんなさい、それは私にも分からない。多分、幾何学的ななにかが起きて貴方はこの世界にいるのだと思うわ。恐らくだけどね」
「ボクは天使になれたんですか?」
「それは先祖返りによってなれたのよ。貴方の祖先の誰かが天使だったのでしょう。昨日はこのことを失念していたわ」
「どうやったらボクは大天使長になれるんですか? 本当に大天使長になれたらボクを元の世界に帰してくれるんですか?」
「……聞こえなかったわ。向日葵、ノールちゃんはなにを?」
「本当は十分に聞こえてなさるのでしょう?」
「うん」
素直にアクローマは頷く。
「ノールちゃん、貴方がそんなに大天使長になりたいだなんて知らなかったわ」
アクローマはテンション低めでノールに再び話しかける。
「ボクが大天使長になれば元の世界に帰してくれるとアクローマさんが話していたので……」
「そう、だったのかしら? 貴方がいつどこで大天使長という言葉を聞いたのかは分からないけど、確かに大天使長は欠員が一名いるわ。この地位は誰しもがなれるようなものではない。でも、貴方がなりたいのであれば私も可能な限り譲歩してそうであったとしましょう」
譲歩にしてはなにか引っかかることをアクローマは話している。
その後、アクローマは白瀬とは別の側近の天使にグリードを呼んでくるよう頼んだ。
数分後、その側近の天使がグリードという人物を連れて謁見の間へ戻ってきた。
「グリード様を連れて参りました」
その声に反射的に反応し、ノールは振り向く。
やってきたのは天使ではなかった。
肌の色が灰色のような濁った色で目も赤く、その異様な姿がノールには恐怖の対象に映った。
「あ、悪魔なの?」
「いいえ、お嬢さん。私は悪魔族ではありません。私は魔族であり、天使族のグリードと申します」
グリードは怯えるノールに軽く一礼をする。
「でも、背中に羽がないよ」
「ああ、そうですね」
ふっと、グリードは魔力を高める。
一瞬でグリードの背中には白い羽が出現した。
「出し入れができるの?」
「ええ、そうです。勿論、貴方も」
ノールは自らの天使の羽にふれてみたが、羽は消えなかった。
「グリード。今、貴方が話しているノールちゃんが大天使長になりたいらしいの。どこまで能力を伸ばせるかは貴方の腕次第よ」
「普段なら大天使長のレティシア様や向日葵様が見習い天使の指導をなされているはずですが、なぜ私なのでしょうか?」
「その子は貴方が一番適合しているはずだから。別に断る理由もないはずよ?」
グリードは納得したのか、ノールの訓練を引き受けた。
グリードが訓練を引き受けた後、ノールを連れて術技訓練のための訓練所へと移動する。
「あの、グリードさん。ボクは大天使長になれますか?」
「厳しいようですが、ノールさん。貴方の能力では大天使長になれるどころか他の階級である熾天使、智天使にさえなれないでしょう」
その言葉は非情だった。
しかし、現実を誤魔化してはノールを余計に苦しませると思い、事実を言わせた。
淡く抱いていた希望が打ち砕かれたような気がして、ノールは肩を落とし泣き出しそうになった。
「ですが、ある方法を使えば能力が格段に上がるはずです」
「どういう方法ですか?」
「それは私が貴方に向かって魔法を放つことです」
「それだとボクって……死ぬんじゃないですか?」
「大丈夫ですよ、私が回復魔法を使用しますから。魔力体の貴方なら魔法を幾度も受け続けるだけで眠っているポテンシャルが急激に開花するはずです」
「ポテンシャル? それ以外に方法はないの?」
「すみません、私には最速で能力を上げる方法はそれしか知りません」
ノールは痛いことが死ぬ程嫌だった。
しかし、どんなに嫌だったとしてもグリードの提案する訓練を受けざるを得ないとも分かっていた。
「それでは、魔法を詠唱しますよ」
静まり返った訓練所にグリードの声が響く。
声を聞いた時、ノールは身体の震えが止まらなくなった。
それを抑えるため、自らを両腕で抱き締めるようにして恐怖を和らげようとする。
死の恐怖が彼女の心を覆っていた。
そのせいか、ノールはグリードを正面から見られず、俯くような姿勢になっている。
「ダークボムを発動します」
魔法詠唱の終了後、グリードはそう語る。
それと同時に怯えるノールの周囲を漆黒の球体が囲み、爆発する。
強力な爆発による衝撃破により、今まで立っていた場所から数メートル吹き飛ばされ、ノールは床に叩きつけられた。
衝撃は強く身体の至るところが裂傷により酷く出血した。
あまりに一瞬過ぎて、ノールは声すら出せなかった。
反応ができたのは、自らの身体から流れる血を眼にした時であった。
「くぅ……痛いよう」
急速に失れる意識、それと同等に感じていた痛みさえも失われる感覚にノールは自らに迫りくる死を悟った。
「キュア!」
再び、グリードの声が響く。
すると、今までの薄れゆく意識がはっきりと冴え、身体の怪我をしていた部分は治癒され、痛みも消えた。
「あれ? 身体が痛くない?」
「それはそうですよ、私が回復魔法を使いましたから。ところで、貴方の能力に変化はありましたか?」
「よく……分からない」
身体がなんともないか確認しながら、ノールは答える。
「でしたら、もう一度魔法を」
「い、いえ、もう嫌です。怖い……ボクは死にたくない……」
「いいえ、拒否します。今は貴方の生きたいという我儘に付き合っている暇はありません。変化があるまで、貴方には生死の境を何度も彷徨ってもらいます」
恐怖から既に涙を流してしまっているノールに向かい、なんの躊躇いもなくグリードは暗黒魔法ダークボムを放つ。
ここまでの流れにグリードが指導を任された理由があった。
グリードが話した通り、魔力体はその対象の魔力体自身よりも高度な魔力による攻撃を受け続けることでも強くなれる。
しかし、元々魔族のグリード以外にまだ弱く幼い後進の見習い天使に躊躇なく高度な攻撃魔法を放てる者など天使界にはいない。
また魔族特有の生かさず殺さずの悪しき習性から事実最も適合していた。
登場人物紹介
アクローマ(年令260才、身長174cm、B87W59H81、天使の女帝、出身地は天使界。面倒臭がりで、かなりのマイペースな性格。過去に荒廃の天使として同族の天使たちに恐れられていた経歴がある。レティシアとは幼馴染で親友)
レティシア(年令258才、身長176cm、B84W59H80、天使の女性、出身地は天使界。聡明な大天使長だが以外と性悪で質が悪い。白銀の長い綺麗な髪を持つ美しい女性。趣味は読書、園芸)
白瀬向日葵(年令138才、身長180cm、天使の男性、出身地は天使界。性格は軽く外道。趣味は人に向かって神聖魔法を放つこと。階級は大天使長。大天使長になったものは異常に膨大な職務に精神をやられ、大概性格が変わる)
グリード(年令102才、身長176cm、魔族であり智天使、出身地は魔界の西地区。普段は優しい性格だが実力を出し始めると性格が一変する。元々は魔界の魔神階級者)