第一話「出会いと別れの道標」 その3
少年が、フィズの教育係を始めてから半年が過ぎた頃、彼は、大いに悩んでいた。
大神殿の保有するこの大神殿第六事務局は、いわゆる教育施設である。若い神官達の教育を行い、その後、各支部や支店へと進んでいく。その中間点として作られた巨大な事務所の様なものである。その中に、いつも授業を行う教室があり、それとは別に、少年専用の業務室が用意されていた。
そこに色々な資料を持ち込んで、授業に取り組んでいるのだが、そこで少年は頭を抱えて悩んでいた。
「・・・遅い」
少年が呟いたその一言に、その全てが集約されている。そう、遅いのだ。
「なんでこんなに覚えが遅いんだ」
それは、フィズの学習速度によるものだった。半年間、週末を除くほぼ毎日、1日4時間の授業を行っているのに、授業の進みが恐ろしく遅いのだ。
まずは、学園で学ぶ簡単な語学や数学、簡単な魔法学から始めてみたが、12歳という年齢にもかかわらず、学園で学ぶ半年分にも遠く及ばない量しか進まない。これでは、学園分を終えるには4~5年はかかる計算になってしまう。
だからこそ、彼は大いに悩んでいた。
「僕の教え方が悪いのか?」
椅子の背もたれに身を預けながら、自問自答するように空に向けてぼやいてみたが、当然答えなど出るはずもない。
そもそも、少年は教師ではないし、教育学に長けている訳でもない、それどころか教師の資格も持ち合わせてはいないのだから、推し量る物差しさえ持ち合わせていない。敢えて言えば、教え方が上手いか下手かで言えば後者だろう。
そこは置いておいたとしても、最高審議官候補がこれほど要領が悪いのもおかしな話だ。将来、最高審議官となるべく、世界最大の宗教団体である大神殿に見初められて招かれた少女なのだから、能力的には低くないはずだ。そう考えれば考えるほど、少年は頭を抱えてしまっていた。
「ローレル先生?」
そこに、扉をノックする音と共に、聞き慣れた声で名を呼ばれて、少年は姿勢を正してハイと言葉を返した。すると、ゆっくりと扉が開き、また見慣れた姿の少女が入ってくる。
「どうしました、マリア?」
頭を抱えさせている本人が突然訪問してきて、慌てて表情を取り繕うと、何事もなかったかのように、少年はフィズに優しく問い返した。
そんな少年を見て、フィズはにっこりと微笑むと、少年の方へと歩いてくる。そして、彼の目の前にある机に両手をつくと、身を乗り出して話し始めた。
「ローレル先生、今日の授業はおしまいですよね? だったら、クレップを食べに行きませんか?」
「はぁ?」
思わず情けない声が出てしまったが、それも仕方ない。なぜなら、フィズの提案は唐突な上に、意味がわからないものだったからだ。
確かに、今日の授業は4時間全て終わったが、なんで授業の後まで教師である自分に会いたいと思ったのか、下手をすれば顔も見たくないだろうに。自分であれば、放課後は図書館でゆっくり歴史書でも読みながら、のんびり過去の出来事に思いをはせたい所だ。
そんな事を考えていた少年の思考とは違い、フィズは満面の笑みで少年を見つめている。
「だって、新しいお店が出来たらしいんです! 見習いシスターの子達が話してて、凄くおいしいらしいんです!」
さらに身を乗り出してくるフィズに、思わず少年はグッと身を引いてしまう。いつになく熱く語る彼女に、どうせならいつもの授業にもそれくらい身を入れてくれると助かるのだが、と考えてしまう。
「甘い物は嫌いですか? それとも食べたことがあるとか?」
そんな事を考えている少年を置いて、フィズはさらに質問を重ねてきた。行くと応えては居ないが、内容はその先に進んでしまい、今度は好みの問題へと進んでいる。フィズらしいが、相変わらず忙しい子だな、と思いつつ、少し呆れながら答えることにする。
「いえ、嫌いではないですよ。ただ、そのクレップという物は食べたことはないと思いますが・・・」
「じゃあ、行きましょう!」
行きたいと言った覚えはないが、何故「じゃあ」となったのかがわからない。しかし、深く追求しても答えが返ってくることは無さそうなので、敢えて伏せておくことにする。少年も、この半年でフィズの扱いには少しながら慣れてきたのだ。
「ローレル先生、早く早く!」
そう言って、いつの間にか、机の前から少年の真横に移動したフィズは、少年の手を掴むとぐいぐいと引っ張っていく。慌ててカバンを手に取ると、少年も諦めたようについていくことにした。ここで抵抗しても時間を浪費するだけで、なにも良いことが無い事も、この半年で少年が学んだ1つである。
「行きたかったんですよ~」
教師の自分と行って楽しいのかが疑問だが、嬉しそうな表情のフィズに、少年も諦めて引っ張られていく。そして、そのまま部屋の扉に手をかけ、勢いよく開くと・・・
「行ってらっしゃいませ」
部屋の外には、ラーセルが待ち構えており、軽くお辞儀をして見送ってくれた。
ここで見送ってくれるということは、つまり彼は一緒に行かないつもりということらしい。和やかな笑みを見せるラーセルに、少年が何か声をかけようとするが、フィズはそんな少年を問答無用で引っ張っていく。
「ちょっと!」
微笑むラーセルの姿が遠ざかっていく中、少年は、これは彼にハメられたのだ、と気づくのであった。
神国の中央都市ファンデルの三番大通り沿いに、目的の店はあった。最近新規開店した店舗らしい。
クレップなる食べ物を販売しているらしいが、随分と人気な様子で、多くの女性やカップルで賑わっている。遠くから見ると、少し周りがピンクがかっているように見えるのは、決して気のせいではないだろう、と少年は思った。
「マリア、これは止めておきませんか?」
ここまで来ておいてなんだが、少年にはあまりにもハードルが高すぎた。
若い見習いシスター達が噂している店、しかも甘い物、少年もその時点で気づくべきであった。そう、ここは女性がたむろするスイーツショップだ、自分とは一番ほど遠い場所だ、住む世界が違う住人達の楽しむ領域だと。
「何言ってるんです、ほら買いに行きますよ! 先生!」
このピンクの世界に全く動じること無く、フィズは少年の手を引いて、クレップショップのカウンター前へとやってくる。その間も、少年は視線がふらふらと泳いでおり、もはや何を見ているのかさえわからない状態だ。
そもそも、少年は孤児院から出て学園と学院を卒業したが、その過程で知り合った人々について深く関わったことはなかった。最低限の友人関係は築いても、親友と呼べる存在は居ない。全てを飛び抜けた能力で飛び越え、友人達を置いて駆け抜けた為か、親友と呼べる存在を作る暇さえなかった。いや、その異質さ故か、そこまで深く近づいてくる者などいなかったと言っても良いだろう。
そんな少年が、女の子に手を引かれ、クレップショップの前へと立っている。辺りには自分と同じか、少し年齢の上な女性かカップルばかりが集まっている場所にだ。まるで異世界に来たかのような、そんな感覚の中に少年は立たされていた。
「ご注文はお決まりですか?」
そんな2人に、カウンターの向こうから店員が声をかけてくる。それを確認すると、フィズは、店のカウンターに並べられていた写真から一番豪華そうな物を指さして・・・
「これを1つと、先生は何にします?」
自分の注文をすませると、少年の方をのぞき込んだ。
「じゃあ、これを」
完全に雰囲気に飲まれてしまい、何を注文したら良いかわからない少年は、フィズの言葉に適当なメニューの文字を指さして、注文を完了させる。フィズは上機嫌だが、少年は視線が常に泳ぎっぱなしだ。
「えっと、料金は・・・」
店員が会計を2人に伝えると、すかさずフィズが再び少年の顔をのぞき込んできた。さすがに、女の子にお金を出させるのもおかしい、それくらいのマナーは知識として身につけていた少年は、店員に金額を支払うと、チラリとフィズの方へと視線を移した。すると、フィズは慌てて視線をそらして、見ていないふりをしてきた。
これは確信犯、ご馳走して貰う気、満々で連れてきたな。そう確信した少年が、少し視線を細めると、フィズは、気まずそうな表情をした後、上目遣いで少年を見てくる。
「まぁ、この性格も今更ですね」
小さくため息を零すと、気にしないでおくことにする。この半年間で、フィズの性格もある程度わかった少年は、もはやこれくらいでは怒ったりもしない。大人・・・とはいえないが、先輩の貫禄を見せてやったとでも考えて割り切るのだ。
そして、少し待つと、そんな2人の下へとクレップが届けられた。店員から差し出されたのは、薄い生地を上手い具合に円錐状に丸めて、その中にクリームと果物入れた食べ物だった。
「こちらと・・・」
「わぁっ、凄い凄い! 美味しそう」
まず先に、フィズのクレップから差し出してくる。他の写真と比べると別格で、基本1種類か2種類しか乗っていないフルーツが、複数種類乗っており、実に豪華なスイーツだ。
「後こちらになります」
「ありがとうござ・・・」
今度は、少年のクレップが差し出され、礼を告げてそれを受け取ると同時に言葉を詰まらせてしまった。他のクレップと違い、真ん中に巨大な焼いたイモと呼ばれる根菜が突き刺さっている。確かに、このイモは焼くと甘くなり、スイーツにも使われたりするが、そのサイズが生地の倍以上あり、イモが大きすぎてクレップ部分が殆ど隠してしまい、焼いたイモにしか見えない。
「先生、なんでそれにしたんですか?」
「何故でしょう?」
フィズの問いに、逆に問い返す形で答えた少年は、殆ど何も見ずに注文するのは避けよう、という教訓を心に刻みながら、自らが選んだ一品を食べてみることにした。
「美味い!」
思わず口にしてしまった言葉に、自分でも驚いた少年は、改めて手にしたクレップを見つめた。それは、とろけるような舌触りと蜂蜜を舐めているような甘さ、普通の焼いたイモとは思えない異常なほどスイーツ感を強めた物体だった。
「けど、この生地も気持ち程度過ぎて、味も見た目もクレップではなく焼いたイモですね」
少年がそんな事を呟いていると、隣で唇の端にクリームをつけたフィズが嬉しそうな顔をして少年を見上げていた。
「どうしました?」
「先生もそんな顔するんだなぁと思って」
少年が訪ねると、フィズは笑顔でそう答えた。それは、いつも授業の時に見せる堅い表情ではない、まだ幼い少女の優しい笑顔だった。
そんなフィズを見て、少年は1つの事を思い出した。それは、ラーセルから相談されたこと、フィズに友人ができていないという点だ。見習いシスター達が話していた、というのなら、彼女たちや他の女の子の友人達と一緒に行けば良いことだ。けれど、そこでフィズは少年を選んだ、ということは、そういうことなのだろう。
「フィズ、美味しいですか?」
少年の何気ない問いに、フィズは少し不思議そうな顔をした後、満面の笑みで、ウンッと元気に答えた。それを見て、少年も笑みがこぼれる。
フィズが異質であるのは、少年も理解している。最高審議官候補という肩書き、巫女としての特別扱い、それは、どうしても人を遠ざける、その結果が今の状況なのだろう。ラーセルも心配していたが、姫だ、何だとはやし立てれば、同じ年頃の若いシスターや見習いシスター達は、どうしても遠ざかっていく。こんなに可愛らしい少女であるにもかかわらずだ。
「マリア、明日からの授業、少し方針を変えましょう」
「えっ? どうしてですか?」
突然の授業に関する言葉に、フィズの顔色が一瞬にして曇ってしまった。けれど、その表情は、少年がいつも見かけるフィズの表情と重なってしまう。この表情では、周りとも溶け込んで行けない、そこが原因なのかもしれない、そう考えると、少年は進めていくべき道を見つけた気がした。
「それだからです」
少年とフィズは違う、お互いに異質だが、それでも違う所はある。
学園、そして学院、そこで学んでいた少年は、笑顔だった。自分が学びたいことを、自分が学びたいように学んでいける。当然、それはアルベルトへの恩返しのためもあるが、それ以上に、孤児院で閉じ込められていた時とは違う、解放された喜びのようなものがあった。やりたい事をやり、知りたいことを知る、そのために必要と考えられることは全て手を伸ばしていった。だからこその今があり、だからこその夢が広がった。それはとても楽しい時間であり、楽しい事だった。例えそれが友人の少ない学生生活であっても、彼にとってはそれで良かった。
けれど、フィズは違う。1人ではなく、共に何かをしたいのだろう、話したい、笑いたい、学びたい、1人ではなく一緒に歩みたい、そう考える普通の女の子なのだ。
「大丈夫、きっとマリアにとって良いことになりますよ」
少年は、少し笑みを零すと、手にしていたクレップをもう一口、口に入れた。
彼女に必要なのは、教師ではなく、共に学び、時には教えてくれる友達が必要なのだろう、そう感じた少年は、さっきまでとは違い、色々なことを考え出していた。何から教えよう、彼女が学びたい事を、進みたい道を、それに必要なものを教えよう、共に横に並んで。
「ちょっと、どういう意味ですか? 先生?!」
「さて、どういう意味でしょうね」
意味がわからず焦るフィズに、少年は満足げな笑みを零した。ずっと頭に抱えてきた難題が、ようやく1つ解けた気がしたのだ。少しだけ、この晴れやかな気持ちのまま、頭を悩ませ続けてきた原因の少女をからかってやりたい気分だった。
「先生! なんですか、ねぇ~!」
クレップを片手に訪ねてくるフィズの表情は、自然と笑みへと変わっていった。それは、少年の笑顔に釣られたものなのか、それとも自分に良いことだと悟ったのか、それはわからない。けれど、少なくとも、いつもの強ばった表情とは違い、それは可愛らしい少女のものだった。
こうして少年は、1つ教師としてのスキルを身につけていく。そして少女は、1つ自分の生きる道を見つけるきっかけを得る。それは、同じ方向へ、同じ意味へと続いていくように思えた。しかし、彼と彼女のそれには、全く別の意味を持つことをまだ2人は知らなかった。
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