婚約破棄された希死念慮持ち令嬢がサキュバスのヒモになる話
もし自分の大切な物を捨てられたらどうするか。私にできた精一杯の抗議は、ヒュプリチンを二瓶ほど飲み服毒自殺を行うというものだった。
家の都合で私の婚約が決まった。それはまあ良い。そのくらいならば、娼婦が恋人以外と床を共にするように受け入れることができた。だが文を書くな、本を読むなと要求されたのだからたまったものではない。
今思い出しても、まっこと太陽のように輝く頭を持った、太陽のような腹の男が死体のような顔色になっている様はとても無様で、思い出すたびに笑い声が己が口から洩れるのがはっきりとわかった。
その後は修道院、なる宗教なる娯楽を嗜む者たちの住処に連れていかれそうになった。物を書ける、聖書を読めるという利点こそあれど、全員足並み揃えた規則正しい生活などというものは、私のようなはみ出し者には到底耐えがたく、ものの二日で手首を切る事を選んでしまった。飽き性なはなたれ小僧が騎士を目指し剣を振るう猿真似をしたとしても、あと一日は多く努力をするだろう。
最初は心配してくれていた娘たちも、一日、二日、三日と、娘たちの目がすっかり哀れみから怖気に変わってしまうのにそう時間はかからなかった。
当然のように自害を選ぶ様に私はすぐさま修道院で鼻つまみ者になり、私が脳病院から逃れるため抜け出したところで誰も追いかけぬようになるのは時間の問題であった。
婚約破棄され、そして家も追放され、小汚い路地裏で命を野良犬に繋ぐもまた一興。そう思いヒュプリチンを一錠、常識の量を口に含んだところで私は、まさかの人物に拾われたのだった。
すっかり短くなった紙巻きたばこを灰皿に押し付けると同時、家主の帰宅を知らせるよう扉が開く音が鳴った。
「ただいまー。進捗どう?」
「あぁ、おかえり。初夏の桜といったところだね」
「全然ダメってことね」
ボロアパートのテーブルに広げられた真っ白な原稿用紙を見て、私を拾った物好きがそうため息を吐いた。
男に春を売るための肌の出た、淫売と誹られてもしようのない恰好ではあるが、私へかける声にはどこか母性のようなものを感じた。実の母には無い、友人の母のものと似たようなものだ。
私はその言葉にどうも居心地が悪くなり、頭を掻いた。
言い返すのは容易ではあったが、私は所詮売れない三流小説家。彼女の収入によって食わせてもらい、そして床が抜けない程度の本を置かせてもらえている。彼女と口論するのは、メリットがあまりにも無い。
「……あんたさ、ここに転がり込んでどれくらい経った?」
「一年と少し、といったところかな」
「そろそろ一度、戻った方がいいんじゃないの? いつまでもこんな、場末の女のところにいないでさ」
「脳病院に連れ込まれるくらいなら死を選ぶよ」
左腕に自分でつけた、縦三本の傷を見せて私は笑う。それに彼女はバツの悪そうな顔をする。
時折このような事を私に勧めてくるので、毎回このようにして黙らせている。
居候させてもらっている以上、彼女を怒らせるようなことは避けたい。だがどういう訳か、サキュバスという種族はもはや過干渉と言ってもいいほど新味になりやすいようだ。お陰で贅沢ではないが、それなりに楽しい生活を送れている。
それに、私が言った言葉に嘘はない。脳病院では尖ったものを没収される訳で、そうなると私は何も書けなくなる。
幸いにも魔法という才能に恵まれていた私だ、素手で自殺する方法なんてのは幾らでもある。そして私は、死を選ぶのに抵抗がない。読心に長ける淫魔族だ、私が嘘を言っていないことくらい見通せる。さっきのは、見通せるからこその顔だ。
「……まあ別にいいんだけどさ、賃金だって家賃とあんたの食費以外使わない訳だからお金の使い道に困っている訳だし、それにあんた、わがまま言わないし」
そう言いながら彼女は、私の側に封筒を置いた。
中を確認すると、成人男性がゆうに一週間は暮らせるくらいの額が入っている。本を数冊買っても、かなりの余裕がありそうだ。
「ありがとう、ちょうど欲しい本があったんだ。それに、どうも煮詰まるどころか蒸発していきそうなのでね」
「どうせ売れないでしょ、あんたが書いたの。あんたの書く本って分かりづらいし、そりゃ売れないわよ」
じとり、と厭な目を向けながら言われ、私はまた頭を掻いた。当たっているからだ、当たっていなければこのようなボロアパートに住んだりはしない。彼女と共に、それなりの一軒家に暮らしている事だろう。
とはいえ彼女は、口でこそこうも悪態をついてくるが、私が本を出すたびに裏で一冊、自分で購入し読んでいるのだ。毎回毎回、検本が来るのだから買わなくてもいい、と言うのに。
百戦錬磨に男を誑かしているというのに、生娘のようにいじらしい娘だ。
そんな彼女の顔を眺めていると、どこか罰が悪そうに彼女は目を背けた。
「今日は少ないけど許してね」
「許すことなど無いさ。私は君に感謝しか持てないよ」
彼女はこうして、私に貢いでくれる。
このままでは駄目になるのではないか、と思われるかもしれないが……私という人間を甘く見ちゃ困る。私は彼女に出会う前からもうすっかり駄目なままだ、それが貢がれたところで変わらない。好きな事しか出来ないのだから。
私は意気揚々、爛々と鼻歌を歌いながら、私が愛用している下駄を履く。
売り切れる心配ない。私が欲するのは、王道を行く明るい大衆娯楽小説ではないのだから。じとじと、じめじめといった音が似合う、人の悪意を凝縮した本なのだから。
私は、私が求める本の暗さとは対照的な明るい足取りで、名も知らぬ彼女から渡されたお金を懐に入れ、本屋へと向かうのであった。