とある捕食者の慟哭
また少し毛色が違います。シリアス?ホラー・・・とは違うかもしれません。
月が見えない夜でした。鍵がかけられていたはずの窓が音もなく開き、流れ込んできた外の風にカーテンがふわりとひるがえりました。
夜の匂いをまとって私の部屋に入ってきた彼は、それはそれは美しい笑みを浮かべて私に告げました。
「こんばんは。君を食べにきたよ」
もたらされる運命を予感して、身体がふるりと震えました。
“僕は甘いものが大好きなんだよ。砂糖菓子のように甘くて甘くて美味しいものが大好きなんだ。
生まれたばかりの赤ん坊なんかも美味しいよ。優しく甘い匂いがして、まだ柔らかい頭蓋なんて力をほとんど入れなくてもぱかりと砕けるんだ。脳みそも白くておぼろ豆腐みたいに濃厚で素朴な味がするし、骨もこりこりしててね。肉なんて本当にもぎたての葡萄みたいに瑞々しくて歯応えなんてないんじゃないかってくらいに柔らかい。
あとはね、王道だけど生娘かな。いやいや笑わないでよ。若ければいいってもんじゃないんだって。やっぱり一度でも経験があると微妙なくさみがあるんだよ。それがいいってヤツもいるけど僕はやっぱり純粋で清廉な肉の甘さが好きだなぁ。真夏のオレンジみたいに爽やかな後味が最高だよ。女の子の肌って本当に綺麗だよね。白くてするするした手触りで、桃みたいにつるっと剥けば、芳しい香がする桃色の肉が見えるんだ。赤ん坊ほど柔らかくないけど、やっぱりとろけそうに美味しくて、血の色なんてすっごく鮮やかな緋色をしてるから白い肌に映えて食欲をさらにそそるんだよね。宝物みたいに包まれてる心臓はね、そうっと取り出すとまだことこと動いていてね、あったかくて熟した林檎みたいに赤くてとても綺麗なんだよ。流れてくる血を舐めるとね、ホットチョコレイトのように優しい気持ちになるよ。
君の瞳はとても綺麗だね。ビー玉みたいに透明に澄んでいて、きらきらしている。飴玉みたいに口の中でそうっと溶けるまでころがしていたくなるよ。本当に今まで我慢していたかいがあったなぁ。こんなに素敵に育ってくれるなんて。”
とろけるように幸せそうな顔で微笑んで私の手をとりながら彼は言いました。味見、と悪戯っぽく言い、私の青白い手の甲を赤い舌でちろりとなぞり、満足そうに目を細めます。不思議といやらしさは感じませんでした。
それは、恐らく。
私が、彼にとって。
“僕達ヒトクイの一族はね、君たちみたいに毎日食事をする必要はないんだ。数年に一度、一人を丸ごと食べれば生きていける。その分一回の食事にとてもとても気を遣う。誰だって食べるなら美味しいほうがいいだろう?だからね、美味しくなりそうな子には「しるし」をつけておくんだ。自分のモノだよ、ってね。せっかく美味しそうな子を見つけたのに誰に盗られてしまったら嫌だろう?君にも君が生まれてすぐに僕のモノっていう「しるし」をつけたんだよ。そう。それ。それが僕の「しるし」だよ。綺麗だろう?赤い蝶々。僕の名前がアゲハだからね、「しるし」もアゲハ蝶にしたんだ。”
私が思うように動かない出来損ないの身体の中で、唯一許せるものは胸元にある、この鮮やかな痣だけでした。
蝶のように見えるそれは、身体の持ち主とは逆に、とても鮮烈で生き生きとしているように思えたからです。
“本当はね、もっと待つつもりだったんだけどね”
その続きは言わなくてもわかります。それに続くコトバは、私自身が一番知っているのです。
数週間。
それが、わたしに残された時間。もしかしたら、明日来るかもしれないその期限。
“僕にとってヒトが一番美味しく感じられる旬はね、境目なんだ。子供から大人へ、少女から女へ変わる一瞬の境目。どちらともつかない不安定さと曖昧さ、刻一刻と色と味を変える華やかさが、僕はとても好きなんだよ。ただ食べるんじゃなくて、すべてを楽しまないとね。
君のことも生まれた時からずっと見てきたよ。覚えてないかもしれないけどね、赤ちゃんの時はしょっちゅう会いにいってたんだ。初めて会った時には小さな小さな手で僕の指をしっかり握って、ふやふやした顔で笑って…本当に可愛かった。あまりにも可愛くてどうしても食べたくなってね、その時から誰も食べずに君だけを見てきたんだよ。だんだん大きくなる君、手足が伸びて、柔らかな体付きになって、このままずっとずっと見守っていこうかと思うくらい、君が愛おしく感じたよ。
でも同じくらい、君を食べてしまいたいと思っていた。君の赤い血を舐めて、ピンクの肉を噛って、白い頭蓋を真珠のように磨いてから口付けたいって。
君は、僕のものだよ。この白い建物に閉じ込められてからずっと、願っていただろう?叶えてあげる。”
“僕が、君を、食べてあげる。”
私の、願い。
生まれると同時に、死期を予告された、私の。
ここ数年は、この病室から出ることも叶わなかった、私の。
「それならば、お願いします。
血を一滴も残さずに、肉を一欠片も残さずに、骨を一本も残さずに。この世に私を残さずに。私を全部あなたが食べてください。
私を全部あなたにあげましょう」
「何も残せないと思っていました。誰の役にも立てないと思っていました。
だけど最後に食べてもらえるなんて…なんて」
―――なんて、幸運なことでしょう。
「それでは、頂きます。愛しいお嬢さん」
「どうぞ…どうぞ召し上がれ」
擦れた呟きは、誰にも聞かれることなく消えていく。
“本当はね、もっと、ずっと、待つつもりだったんだ。
君が、大人になって、恋をして、子供を産んで、幸せになって、老いて。”
―――君が永遠の眠りにつくその日まで。
夜明け前に、こぼれた二つの涙は、流れ落ちて、溶け合った。
元は中編だったのですが、あまりにも台詞が少なかったし内心も分かりにくかった上にまとまらなかったので現在の形に変更しました。
…いつか補足視点として「とある捕食者の幸福」という題名でも書くかもしれません。