恋愛下手のアリスちゃん5
芽依と別れた後、亜梨子は自宅の前に立つ。
似たような造りの一軒家が並んでいる。
この辺の土地は、亜梨子の父が働いている大学の教員用住宅であり、亜梨子の一家はここにずっと住んでいる。
大学教授なのだから、豪邸を建てる事も出来るのだが、母が大反対して今でもこの場所に住んでいる。
そのお陰で、亜梨子は真之介と隣同士の家でいられるのだが。
ついでにいえば、真之介の父親も大学教授である。
もう一つおまけに言うと、二人の父親は昔からの学長候補でライバルであり、仲はすごぶる悪い。
その一家が、隣同士で住んでいるのは…妻に理由があるのだ。
亜梨子は、いつものように玄関を開けて
「ただいまぁ」
と中に入るが、何やら焦げ臭い。
靴を脱ぐ動作で止まっていた亜梨子は
「またか」
疲れたように言う。
靴をきちんと並べてから中に入り、居間のドアを開ける。
二人の女性が談笑しながら、ティータイムと洒落こんでいる。
「お母さん…おばさま…」
亜梨子は、呆れながら言うと
「あら、おかえり亜梨子」
母である久瀬紗緒里が言う。続けて
「おかえりなさい、亜梨子ちゃん」
にこやかに言うのは、真之介の母である津山弥生である。
亜梨子は、鞄を置いてから台所に向かう。
焦げ付いた鍋やら、たくさんの調理器具が一種の混沌空間を作り上げていた。
「今日は、一体何をしようとしたの?」
片づけを始めた亜梨子が、呆れた様子で問いかけると
「何しようとしたかしら…ね?」
紗緒里が弥生に問いかけると
「なんだったかしら?」
のんびりとした口調で弥生が答える。
「あぁ、もう、だから、台所には近づかないようにって言っているのに」
亜梨子が言うと
「だって、いつも亜梨子に作らせてばかりじゃあ申し訳ないじゃない」
紗緒里が、悠然と答えると
「仕事、増やしているだけじゃない」
亜梨子が、母を睨みながら言う。
「まぁまぁ亜梨子ちゃん、紗緒里も亜梨子ちゃんの事を思ってやろうとしているのよ。私もね、いつも真ちゃんや亜梨子ちゃんにばかりご飯作ってもらって申し訳ないと思っているのだから」
弥生がとりなすように言うと、片づけをしていた亜梨子の手が止まる。
「ま、まさかおばさま、自分の家の台所…」
背中に変な汗が流れた。
しかし、弥生はニッコリ笑い
「今日は、紗緒里と何か作ろうと思ってこっちに来てるから、あっちの台所は大丈夫よ」
のんびりとした口調で答えた。
「…よかった」
亜梨子は小さく呟き、作業の手を早める。
これでも、この二人はある筋では有名人である。
まずは、亜梨子の母・紗緒里は、父(亜梨子の祖父)が経営する弁護士事務所に所属している敏腕弁護士である。
大学在籍時代に司法試験を優秀な成績で合格をし、大学卒業後には弁護士として華々しくデビューを飾った。巧みな話術と千里眼並みの洞察力、それに駆引きの上手さまでプラスされ、彼女の受け持った事件は、負けなし!
【法曹界の申し子】
と、紗緒里は異名までつけられている。
一方、真之介の母・弥生は、遺伝子界ではその名を知らぬ者はいない…という程の実力を持っている。
大学在学時代に、学会で論文を画期的な論文を発表し、世界中から注目を浴びた。卒業後、国立研究所に入所し、彼女の研究によって遺伝子研究は、格段に進歩を遂げた。
【遺伝子界の天才】
それが、弥生につけられた異名である。
今でも、活躍していたら、さぞ有名であっただろう…
彼女達は、現在、【主婦】をしている。紗緒里は、父の事務所がピンチになった際のピンチヒッターとしてしか、弁護士の仕事をしない。弥生も、国立研究所に籍は残されているが、あくまで客員研究員という扱いになっている。
二人とも出産を機に、引退したのだ。
しかし、周囲がそれを許さず、紗緒里は父の事務所のピンチヒッターとして、弥生は研究所の客員研究員として、時間がある時に出勤する…という形で妥協したのだ。
あくまで、子育てが優先…という事で、二人は納得した。
しかし、それは意味があるのだろうか?
二人をよく知る家族や夫は、思った。
二人には、どうしようもない共通の欠点があるのだ。
それは、家事がまったくダメだという事。
掃除をやらせたら逆に散らかったり汚れたり、洗濯させたらしわくちゃ、料理は爆発するか絶望的に不味い。
だから、そういう事は、それぞれの母(祖母)がやっていた。その為に近くのマンションを買い、祖父母を引っ越しさせた。
子供の世話も祖母がやると言ったが、それは本人たちは受け付けなかった。
子供の世話は自分がやると言って聞かなかった。
周囲が、心配そうに見守る中で、何とか子供の世話だけはやっていた。
…祖母のサポートが必須ではあったが。
亜梨子も真之介も成長すると、祖母の手伝いを始めたりした。
あの二人の子供なので些か不安ではあったが、そこのところは遺伝していなかったようだ。
むしろ、器用に家事を覚えこなしていくようになった。
やがて、家事は子供達が全般的に背負う事になった。
それと同時に、紗緒里も弥生もそれぞれの仕事に戻る羽目になった。
凶悪な事件や冤罪が横行しているし、紗緒里を名指しする依頼人も増えている。
遺伝子研究も、外国に後れをとるようになってきていた。
二人は、両親や夫に説得され、仕方なく元の仕事に戻るようにはしているが、あくまで手伝いという形だ。
午前9:00~午後2:00までのパートタイム勤務をしているのだ。
そして、毎日こうやってどちらかの家で、ティータイムをしている。
言い忘れていたが、紗緒里と弥生は大学時代からの親友である。
学部は違っていたが、サークルが同じだったのだ。
それぞれ夫の元・教え子でもある。
だが、その夫達は、非常に仲が悪い。
互いに若くにして、学部長候補に挙がっており、ひいては学長候補にも挙がっている。
年齢も同じ、出世するスピードも同じ、学生からの評価もほぼ同じ。
何かにつけて比較の対象に上げられ、ライバル心は燃え上がっている。
なぜ、そんな家同士が隣同士になっているのか…
当然ながら、妻の権限である。
どちらも、妻には頭が上がらないのだ。
今より、大きな屋敷を建てようとしても、妻から大反対を受ける。
理由は、親友と別れたくないから。
何度か妻を説得したが、結局はまるめ込まれてしまう。
父が母の説得に失敗する度に、亜梨子は心の中でガッツポーズをしている。
【ガチャガチャ…】
亜梨子が、洗い物をしていると
「ねぇ、亜梨子。そろそろ文化祭の時期よね?」
紗緒里の問いに
「うん。そうだね」
目線を洗い物に置いたまま答える。
「今年も告白大会、亜梨子のぶっちぎりになるわよね」
母の言葉に
【ガギャ…】
手が止まる。
「あらぁ、そうなの?」
弥生がおっとり言うと
「覚えてないの?去年も一昨年も、亜梨子に告白して玉砕した人数が、ぶっちぎりで多かったの」
「…うーん、そうねぇ、…あぁ、そういえばそうだったわね。うちの真ちゃんにはだぁれも告白がなくて、ちょっと寂しかったわぁ」
「まぁ、真之介君は、地味なのよ。弥生と慎太郎先生の子供なんだから、原石はいいのに。全然、おしゃれしようとしないで…」
「そうなのよね。『そんな暇があったら勉強した方がいいよ』って。亜梨子ちゃんはこんなに可愛いのに」
弥生は、のんびりとため息をつく。
「そういえば、最近真之介君、帰り遅くない?」
紗緒里の問いかけに
「そうなの。最近、遅くてね。だから、亜梨子ちゃんにばかり夕食作らせてしまって」
弥生は困ったように答えた。