第七章 剣の鏡
不意に台所から、何かが砕け散るような音がした。
もしかして、また『白刃の煌き』が攻めてきたのだろうか。もう居場所が割れたのか。
ぞっとしつつ、マイは訓練の手を止め、短剣の鞘を払ってそちらへ向かう。
無人のはずの台所では、橙色の髪を乱雑に束ねた小男がいた。砕けた食器の上で尻餅をついて、たははと誤魔化し笑いを浮かべている。
「よォ、デカくなったなァ、チビ」
「・・・食器棚にぶつかったの?またビオラに怒られるよー?」
案の定、相手はビオラ、と聞いただけで真っ青になっていた。
***
彼の名はアークという。
リネラの諜報員で、極めて優秀な代わりに放浪癖の塊のような男だ。
情報戦にはめっぽう強いが、いつ戻ってくるのかが本当に分からない。故に、帰ってくるなりビオラに激怒されるのが常。
「なァ、頭領知らねェか?重大連絡あンだよ」
「あ、うん。呼んでくるね」
ビオラだけは連れてくンなよ、と情けない独り言が聞こえた。
***
「頼まれてたリリアの話なンだけどな」
調べがついたぜ、と彼は続けた。
「名はスアラ。生まれはゼセロ傘下の富豪令嬢だ。
数年前にリリアになッた」
同ンなじ頃に暴走して屋敷ごと身内やら召使いやらを全部吹ッ飛ばしたらしい、とアークは続ける。
「そンで、孤児になッたとこを秘密警察に拾われたンだとさ。そこいら中焼け野原にしちまッたンだとよ」
「焼け野原、と言いますと?」
「火も使ッてるだろ?リリアの能力は」
「あ、あの・・・」
マイはおずおずと手を挙げた。
「根本の話で申し訳ないんだけど、リリアとエミリアってどうして二人同時期に現れるの?」
「おそらく、元が一つの神だからでしょうね。協力して国を滅ぼすモノですから、片方では力不足なのかも知れません」
──リリアと、あたしとが、国を滅ぼす・・・?なら、この国は数世代に一度滅びているってことになるの?でも──
「ゼセロ絡みでゴタゴタしてたみてェだがどォにかなッたか?」
マイはアークの発言に気を取られ、後の言葉を掴み損ねてしまった。
この時、マイが掴み損ねた思いつき。
それが、これから自分達が命懸けで創る神話の続き、そのものであるとは、この時夢にも思わなかった。
「序章が終わった、と言うところでしょうか」
「逆襲するッてコトか」
「予定ではおよそ二ヶ月後、アリスの怪我が完治次第、出陣します」
マイが、その例の神話の続きを思い出すのは、これからずっと後になってからである。
***
ヴァキアから、アリスが目を覚ましたと聞いた直後のことだった。
「アリス。怪我のこと、本当に、本当にごめんなさい」
マイは師匠の部屋へ出向き、怪我をさせた事を、殺される覚悟で詫びた。
アリスは深々と溜息をつくと、諦めたように笑い、「良いよ別に」とだけ言った。
その目はマイを見ていなかった。
視線はマイを透過して、遠いどこかを見ていた。
アリスの横で、ジュノがそっと視線を外した。
***
マイの足音がしなくなると、ジュノは横目でアリスを見やった。
エミリアが他の誰でもない、彼女を狙った理由は分かっていた。
そして、それは過去の傷に繋がっている。
アリスは再び溜息をつくと、吹っ切れていない顔で笑った。
「私に来るなら良いや。分かってた事だし」
「良いやって、お前な・・・。まだ気にしてるのか?十年も前の話だぞ」
「・・・気にするよ、そりゃ」
辺りの空気が黒く淀んだ。
***
半刻後。
俺は畳の血を拭きながら、アリスの寝息を聴いていた。
少し乱れているが、さっきよりは落ち着いている。
マイが去った後、修練に出ようと暴れるアリスを止めるべく揉み合いになった。
十五分に及ぶ乱闘の末、俺が最後の切り札であるビオラを召喚した直後、アリスは咽せて血を吐き、そのまま倒れた。
慌てて診せても、兎に角安静にしていて、としか言われない。
それしか出来ないらしかった。
傷つけることは簡単なのに、治してやることは出来ない。当たり前のことが重かった。
***
十年前のアリスと同じ感情が、俺の中で渦巻いている。
***
リネラの構成員は、二つの使命を帯びている。
一つは当然、戦乱を終わらせること。
二つ目は、ナナァの血筋の者を守ること。
アリスは紛争を起こした大罪人、ナナァの血を引いていた。
ナナァの血族の者にはゼセロから莫大な懸賞金がかけられていて、常に国中から狙われている。
彼女は自分の子孫達が戦に巻き込まれたり、金目当てで殺されたりしないようこの組織を作ったんだそうだ。
だから、構成員の俺がアリスのために命を懸けるのは自然なことだった。
***
十年前。
懸賞首を狙う民間人の寄り合いに、アリスの居場所が割れた事があった。
リネラはいくつか拠点を持っている上、その場所をしょっちゅう変えている。
しかも、見かけはどれも普通の民家と変わらないし、各拠点には数人しか人がいない。
その頃、拠点の移動は主に未熟だった俺や戦力外のアリスの仕事だった。
その日、俺達は師範と三人で本拠の移動に当たっていた。
荷物を運び入れて配置を決める作業だが、荷物と言っても僅かだから、三人いれば充分だった。
細かいことまで覚えてはいないが、拠点に着いてすぐ、彼女を振り返った。
確か、何かを訊こうとしていたと思う。
大した内容でもなかった。
そんなことはどうでもいい。
いたはずのアリスが消えていた。
「アリス⁈」
急に変わった空気にぞっとする。
まずい、と思った瞬間、頭の後ろで風が斬れた。
今の今まで首があった場所を刃が薙ぐ。
膝を折って躱し、振り向きざま脇腹に斬りつけた。
断末魔なんか聞いている暇はない。
状況を掴まないと命がない。
夥しい数の人間に包囲されている。
此奴らは誰だ?賞金稼ぎか?
街中で攻めて来た理由は?何で俺は気付かなかった⁈
──アリスは何処だ?攫われたのか?
「・・・が、───でしょ?」
アリスの声。
服装もばらばらな老若男女で見えづらいが、すぐそこにいる。自分の足で立っている。
「アリスっ‼︎」
アリスはちらりと俺を見ただけで、目の前の男に話しかけ続けている。
──何してる?其奴の刀が見えないのか?相手はお前を殺そうとしているんだぞ。分からないのか⁈
「懸賞金が欲しいんでしょ?生活は苦しいもんね。分かるよ、本当に」
アリスが一つ、息を吸う。
肺の膨らむ微動さえ顕著だった。
「・・・私が本物だよ。私の首には三十億の懸賞金が掛かってる。ゼセロに持って行けば良い」
──馬鹿なこと言わないでくれ。
「そしたら偽首狩りは無くなる。黒い髪の女の子達は殺されなくて済む」
俺の願いも虚しく、アリスは浮かされたように喋り続けた。
「三十億も金があれば、飢えて死ぬ人は減る。病気の人も助かる。子どもは大人になれる」
──早くアリスを連れ戻さなくては。此奴らから守らなければ。
「くそッ邪魔だ!」
あと少しで届くのに、その少しが届かない。
ふざけるな。頼むやめてくれ。
焦りと苛立ちで千切れそうだ。
「アリス!戻って来い!アリス!アリス!」
世界が違う。次元が違う。
アリスに関わる何もかもが、ガラスの向こうの出来事で話だった。
ずっと一緒にいたはずなのに、俺とアリスは違う世界に住んでいたんだ。
どれだけ必死に叫んでも、厚いガラスに阻まれるだけ。
俺では声すら届かない。
「良いよ。殺してよ。私一人の命で、何百人も助けられる」
アリスは死を歓迎するように、両手を伸ばした。
差し出された首目掛けて、男が刀を振り被る。
「やめろぉぉぉっっ‼︎」
俺は正面にいた奴を踏みつけて跳び、アリスにぶつかって突き飛ばした。
刀はアリスを外れて、俺の背を抉った。
***
一瞬、意識が飛んだ。何が起きたか分からなかった。
「・・・じゅ、ジュノ?」
白い肉が裂け、赤色が洪水を起こしている。
──どうして?どうしてこんな事に。
分かっている。その答えは分かり切っている。
理解したくないだけだ。
「嘘・・・嘘だ・・・」
震えが止まらない。何も考えられない。
息が出来ない。涙が止まらない。
「ジュノ!返事をして!目を開けて!ねえ、ねえ!」
男が再び刀を振り上げる間に、地面には血溜まりが出来ていた。
助からない、の一言が頭に浮かぶ。
そんなはずはない。そんなはずは──
──私さえ、いなければ。私さえ生まれてこなければ。
「懸賞金は、有効に使う。偽首狩りは無くすと約束しよう」
男の刀が首筋を狙う。
ぐしょ濡れになった顔で、アリスは呟いた。
「早く、殺して」
***
繋げた鉄輪がじゃらッと鳴って、風が頸を擦る。
男の頭がぐしゃりと潰れ、血とも骨とも脳髄ともつかないものが虚空向かって飛び出した。
男の手から刀が落ち、首から下が前のめりに崩れた。
「手間取った。拠点にまで雪崩れ込んで来おって・・・もう少し待ってろ。今片付ける」
鎖鎌を振るう師範の声が、血の通った人間のものに思えなかった。
リネラの存在そのものが無駄だと思った。
自分が生まれてきたことすら、とんでもない悪行だと思った。
「死なせてよ・・・死なせて」
「巫山戯るな」
最後の一人を倒し、振り返った師範の形相は見たこともない。
「ジュノの流血を無駄にする気か」
師範は苛々と息を吐くと、ジュノを抱え上げた。
「来い。手伝え。針と糸を消毒しろ」
従う他なかった。
***
現在。
アリスの眠る部屋。
「開けてもいいかしら?」
控えめな声が掛かり、扉を開け終えるより先にビオラが入って来る。
目が腫れていた。怪我人が出るといつもこうだ。
「ジュノ、包帯は替えた?」
「さっき替えただろ」
「アリスのじゃないわ。腕の傷、十針も縫ってるのよ?」
「あー・・・、頼む」
そう言いながらも、ジュノは目を離さない。
目を離した隙に、息をしなくなってしまう気がした。
「化膿したら大変じゃない、もう。他のみんなはほとんど完治してるし、わたしもしばらくここにいるわ」
ビオラの、精一杯の明るい声があてどなく漂う。
それだけ空っぽなのだと思い知らされた。
──分かってたことだろ。俺まで辛気臭くなってどうするんだよ。
呆れ混じりに自分に言い聞かせても、どうにかなるものではなかった。