第五十四章 箱庭
セラ達が身を寄せる宿の庭は、主人が花に凝っているとあってそれは見事なものだった。建物に絡む朝顔や風船葛の他にも、紫陽花や桔梗、あやめなど様々な花があり、蓮池などは異世界のようだ。
「……きれい」
柳や桜の枝垂れがさらさらと揺れる。季節になれば、絵画もかくやという美しさだろう。
「ああ。そうだな」
言いながら、ルイは車椅子を押す手を止めて隣に並ぶ。思わずこぼした声に応えて、同じものを見てくれている。
幸せが大きすぎて、今でも受け取り方が分からない。溢れてしまうほどのそれが、もったいなくも嬉しくもあった。
「……ねえ、風船葛の種、見たことある?……端っこだけど、ルーア領は暖かいね。寒かったから、初めて見た。私」
「気にした事が無い。種は特段、薬には成らないから」
ルイは少し考えて、注意して見た事がなかった、と言い直した。不器用だが精一杯とわかる心遣いに、胸のあたりがふっと温かくなる。
青椛から透ける光が、横顔に精緻な模様を描いている。
鼻が高いことも、睫毛が長いことも、初めて知ったみたいな気がした。
「……怖かった?」
長い睫毛が瞬いて、闇色と目が合う。
連れて逃げるって決めてくれたこと。討手が掛かったこと。生死の境を彷徨った私を、助けてくれたこと。口には出さなかったものが、全部伝わったと思った。
「……勿論」
「ごめん――」
「貴女が壊れて行くかと思った」
目を伏せて、独り言のように紡がれる。
「打つ手が無くなる事が怖かった。ただ眺めている事しか出来ぬ可能性が」
「……全部頼っちゃった……すごい重圧だって、分かっていたのに。……ごめんなさい」
「…………分かって居て選んだ。あの状態で、何が出来る訳でも無いだろう」
「どうやって、返したらいい?」
声が、震える。
どうやって返せばいい?どうあっても、返せないほどの恩を。
「……生きて居てくれれば、其れで構わん」
「私……役に立たないよ、きっと。生きてても。……でも、あげられるものもない」
「どの道戦は終わる。此れ迄散々に働いて来たんだ、ゆっくり休んで居ろ」
「………………」
断るのも、受け取るのも違う気がしてしまって。
見合うだけの言葉がなくて、もらった厚意を両手に抱える。
「……いなくなるんだよね。二人は」
リリアを宿す――いや、寄生されているスアラと、エミリアの娘。
危ういくらい優しいスアラも、仲間の仇だと言って愛憎をあらわに襲ってきた娘も、平和な世界を見ることはない。
「予定では十日後だ。片割れを喰おうとする死神の本能を利用し、共倒れを狙う」
それとなく声をひそめて、世間話のような調子で言う。遮蔽物の少ない開けた場所は、かえって盗み聞きがされにくい。
「怖いだろうな……」
「仲が良かったのか?」
スアラのことだ。気を遣ってくれているんだろう。
「……繊細で、優しいひと。いつも気にかけてくれるの」
「……そうか」
ほつれたように会話が止まる。
やっぱり、彼は優しい人だ。
蝉が鳴いていることに初めて気付いた。
「スアラは戦闘員じゃなくて、ずっと本部にいたから……あんまり会わなかったけど、……たまに戻ると、お菓子を焼いてくれる。いい匂いがする」
闇色の目が、静かに続きを促す。
「だれかの手料理なんて、食べたことなかった。……スアラのことは、守りたかった。…………実は、ちょっとだけ、苦手、かも」
「苦手なのか。意外だな」
うまい言葉を探したら、「苦手」という言葉に行きついた。
自分でも、理由はわからない。
「…………わからないけど、少し……苦しくなる」
「そうか」
蝉の鳴き声が、やけに大きくなる。
「生まれ育ちへの劣等感じゃないか」
ふいにルイが言った。
「衣食が足りねば、礼節を知る事は出来ない」
「…………」
お菓子の匂い、握ってくれた手の感触。まざまざと思い出して、喉の奥がぎゅっと詰まる。
あの時スアラは、どんな気持ちだったんだろう。
私は、それに適ったんだろうか。私が死んだと聞かされて、いま、どうしているだろう。
……泣いてくれたのかな。
前髪をかき上げられて、俯いていたんだと気付く。
指に触れる感触には、覚えがあった。
「……髪留め?」
目で追ったら、車椅子の後ろまで逃げられた。
照れ隠しみたいな小さな声が、頭の上から降ってくる。
「落ち込んで居たから」
「……失くして、それっきりだったから」
「同じ物は無かったが」
別に貴重な物でも無い、何処で買ったか忘れた、と矢継ぎ早に続ける。
なら、と見上げようとしたら、両手で挟んで引き戻された。
「傷に響くぞ」
さては赤くなっているんじゃないだろうか。言わないけれど。
数式みたいに完璧だと思っていたこの人も、今はなんだかかわいい。
「よかった。連れ出してくれたのが、あなたで」
言葉は時々、不思議だ。向かい合って差し出さなくても、宛名を書いていなくても、届けたい人にちゃんと届く。
この人はそれが当たり前だと思っている節があって、もっと不思議だ。
「……明るくなったな」
してきたことは間違ってなかったんだと、安堵する響きがあった。
「……怖かった?」
「当然」
「ありがとう」
言葉にできない万感の思いを込めた。
臓腑が震えるほど感じて動く心が、伝わっていたらいい。
「ねえ、支えててくれる?」
差し出してくれる手に支えられて、慎重に体重をのせる。
それでも立ち上がるにはとうてい届かず、抱え上げてもらってようやく立てた。
「お医者様は、怒る?」
相手の腕と体とに支えてもらっても、なんとか立っているだけでやっとだ。
大切に抱きしめてもらえるんだから、こんなのも悪くない。
「止めても聞かんだろう」
「ご明察」
「全く……」
ふわっと脚が浮いて、車椅子に戻される。
「余り無茶するなよ」
息が上がってきたのも、お見通しなんだろう。
車椅子を押して、まっすぐ部屋に戻っていく。
庭のどこからか、花の匂いがした。




